桜の葉が生い茂る川沿いをいつものようにワンコと散歩する。
以前、この場所で私たちはランニングしている男に川沿いの遊歩道を譲られた。
黒のタンクトップ、黒の短パンで褐色の肌としなやかな筋肉の日本人と思われるやや小柄な男。肩から肘にかけて貫く太筆で描かれたアラビア文字のような刺青。
そして男とすれ違いざまに、ふわん、と強く香った石鹸の匂い。
その日、川沿いから住宅街へワンコと散歩を続けていると、もう一度その男とすれ違った。
今度は、黒のハッチバックの運転席に肘をかけ、腕に彫られた刺青と石鹸の香りを私に強烈に印象づけて。
あの日、2度もすれ違ったのに、それ以降はずっと見かけない。
否、見かけたのはあの日だけ。
あの日以外、この街に住んで10年は見かけたことはなかった。
あの男、日本人に見えたけど違ったのかも。
本当はこの街にたまたま寄っただけの旅人で、灼熱の砂漠のアラブ民族なのかもしれない。
あの男は何処に向かったんだろうね?
ワンコに問いかけても笑顔で「散歩楽しいね」って瞳をキラキラさせるばかり。
まあワンコだから、そうなるよね。
ワンコの匂い探索に付き合った後、顔を上げる。
あっ。
黒のタンクトップ、黒の短パン、褐色の肌、しなやかな筋肉、腕に彫られた刺青---
短髪の耳に真っ白なワイヤレスイヤホン。
「…わかっている……そっちへ向かうから……」
息を乱さず、小声で、正面を向いて走り去る瞬間、またあの石鹸の香が強く漂う。
清潔なシャボンの香。
優しく落ち着いた声。
まるで愛しい女性に話しかけているかの如く---
振り返ると、男は遊歩道から消えていた。
遊歩道にはワンコを散歩する主婦、小さな子ども連れの家族。
ウォーキングする年配夫婦。
暑さを避けた夕方のいつもの景色が広がっている。
あの男は何処に向かったんだろうね?
私の呟きは空に溶けていった。
まだ続く物語
俺と大和の行きつけの焼き鳥屋でサシ飲み中、俺は大和に尋ねてみることにした。
「俺さ、今度扁桃腺の手術することになったんよ」
「そうなん?いつ?」
「日にちは決まってないけど、手術することは決定してる。俺、扁桃腺の手術なんて簡単に考えてたけど、全身麻酔なんて、なんか怖いな」
「そうか。そうだよな」
大和は中央総合病院のレントゲン技師だ。
これまでも気になる症状の相談に乗ってもらったり、俺がイビキをかいて彼女に五月蝿がれると愚痴ったら、耳鼻咽喉科受診を勧めてくれた。
で、町医者で中央病院を紹介されて受診したら、手術で扁桃腺を切ることが決定。
扁桃腺の手術を抜歯の延長くらいに考えてたのに全然違って、地味にショックを受けていた。
「全身麻酔ってさ、全身麻酔の前に、全身の検査をして万全の体制で臨むんだよ。麻酔科医って麻酔を専門にしてる医師が手術中ずっと一般状態を観察してるし、対応もしてくれる。
麻酔の前に台の上で眠くなる薬を点滴の管から入れたらすぐに眠くなって、覚醒するのは手術が終わってから。先生たちに任せれば大丈夫だよ」
大和は医療従事者らしく、わかりやすく丁寧に説明してくれる。
寝てる間に終わるのか。手術中は怖くなさそうだな。
でも。
「耳鼻科外来の看護師にさ、絶対に禁煙してくださいって強く言われなかった?」
大和は揶揄うような瞳を向ける。
んっだよ、俺が喫煙者だからって。
「言われたよ!ハッキリ言って脅されたよ!傷の治りが悪くなるとか手術後出血するとか、肺炎になるとか!あの看護師、美人だけど怖かったよ!」
俺が医者からの説明を聞いている間、ビビってる俺の背中にそっと手を当ててすっげえ優しいなあって感動してたのに。
俺が喫煙者で禁煙の自信ないかなぁって言った途端豹変して迫力にビビったよ。
結局全身麻酔や手術の怖さは抜け切ってないし、禁煙が本当にできるか不安だし。
愚痴る俺の話を大和は頷きながら聞いてくれる。
医療従事者に必要なのは、この傾聴の姿勢じゃねーか?
「やっぱり優しいなあ、大和は。持つべきものは友人だ」
大和は可笑しそうに笑った。なんか可笑しかったか?
「その看護師、俺の奥さん」
「は!?嘘だろ!?」
「ホント。外科病棟の時から有名なんだよ。意地でも禁煙させる看護師って」
「マジか…って言うか、ゴメン!奥さんのこと、色々言っちゃって」
両手を合わせて頭を下げる。
奥さんのこと悪く言って気分が良いわけないもんな。
「良いよ。気にしなくて大丈夫。
奥さん、由希奈ちゃんって言うんだけど、由希奈ちゃんは患者のことを想っての優しさゆえの厳しさだから。たくさん手術後の看護をしてきて、肺の合併症になる患者さんをたくさん見てきて、絶対に禁煙はしてもらうべきだって思ったんだろうな。俺もそれには同意だよ。手術後の肺が真っ白で人工呼吸器をなかなか外せない人も中にはいるから」
「でもそういう人でも治療をしていくんだろ?」
「勿論。何度もレントゲンを撮るし、看護師は四六時中人工呼吸器の管理をしたり、昼夜構わず痰を吸引したり、1日になんども吸入したり。医師もすごいけど、医療は看護師がいて成り立つ。尊敬するよ」
「そうか。奥さん、すごいな」
「今は耳鼻科外来だけどな。それでも、ウチの奥さんすごいよ」
大和の瞳が輝いた。
「由希奈ちゃんの働きかけのおかげで、ウチの病院も禁煙外来を始めるって言うし、禁煙に不安があるなら予約してみるのも手だよ」
「そっか。どうしてもなら考えてみる」
禁煙への誓いを新たにねぎまの塩と手羽先のタレを注文する。
でも、なんか忘れてることがある気がするんだよなぁ。
って、思い出した!
「大和、昔、タバコ吸ってたろ!」
「思い出した?由希奈ちゃんと付き合ってから辞められた」
「そうなのかよ!」
「ああ。それまでもレントゲンで真っ白の肺の人とか見ててさ、何度も禁煙にチャレンジしたけど失敗してたんよ」
「へぇ。レントゲン見ててもダメだったんだ」
「ああ。でも由希奈ちゃんに『これで最後ね』って約束させられて、俺も覚悟を決めて1本由希奈ちゃんの前で吸ったんよ。由希奈ちゃんとの約束絶対に破れねえって決意して禁煙に成功した」
「なるほどねぇ。これで最後か」
ポケットに入っている電子タバコ。
俺はスマホを取り出して彼女にLINEする。
「禁煙するから協力してください」と。
大和にもLINEを見せて言った。
「今夜、これで最後にするよ」
大和は親指を立てて力強くサムズアップして明るく笑った。
「これで最後」
「彩花!」
出会い頭に飛び出して来た自転車を避けるため、彩花の手首を強く引く。
自転車はスピードを緩めずに走り去って行った。
危なかった、こいつに何かあったら俺は…
「せんせい…」
小さな声で呼ばれて、細い手首を握ったままだと気づく。
パッと離したが、鈴木は俺の顔を驚いたように見つめている。
綺麗な瞳だ。
元教え子なのに。いくら鈴木が同僚で、同じ立場になったとしても、俺は鈴木よりも10歳以上も年上なのに…
「どうした?思いっきり引っ張ってごめんな」
優しく笑いかけたつもりだったけど、鈴木は何も反応しない。
「どこか傷めたか?肩か?手首か?」
俺が握りしめた手首を確認しようとして腕を伸ばす。
「そうじゃなくて」
鈴木が俺をまっすぐに見上げて言った。
「彩花って言ってくれた…」
ハッとする。
そうだ、俺は慌てて鈴木を彩花と呼んでしまった。
「悪いっ、咄嗟だったから。つい、呼んだだけで、」
情けない。
ここのところ夜毎鈴木が夢に現れるんだ。
鈴木の夢だけは、翌朝いつも鮮明に記憶があるんだ。
ある夜は7年前のこの中学のグラウンドや木漏れ日の緑地公園で、鈴木や米田を長距離継走部の顧問として走らせる夢だったり。
またある夜は鈴木と米田の指導初年度、大会本番で米田が順位を落としてしょぼくれているのを慰める鈴木の姿とか。その後、霧雨の中、俺の貸した傘を閉じて米田と鈴木がすっごい笑顔で俺の所へ走り寄ってくる姿とか。
鈴木が新卒の教員として、職員室に現れて二人ですっげえ驚いて校長に睨まれ、鈴木が小さく笑ったこととか。
指導案の作成を夜の職員室で手伝ったり、陸上部の練習を一緒に監督したり、鈴木が部員を大声で応援したり、本番で力を出せなかった生徒に鈴木が優しく寄り添っていたり…
夢の中で俺は、教員の鈴木を「彩花」と呼びたいといつも願っていた。
だからと言って。
焦る俺に鈴木はふうわりと笑った。
幸せそうに口角が上がり、瞳は煌めきを放つ。
「先生に彩花って言われて、私、すごく嬉しいです」
「鈴木、」
それって。それって。
「私、先生が好きです」
可愛い声だった。
今まで聞いた中で1番、ときめいた。
元教え子だけど、俺は10歳以上歳上だけど。でも。
「俺も、同じ。彩花が好きだ」
認めて心が楽になる。
ああそうか。俺は我慢してたんだな。
必死で同僚として線を引いて。
本当は毎夜夢に現れるほど好きなのに。それを全部覚えているくらい好きなのに。
「えっ、うそ、ホントに…」
胸に手を当てて心臓のドキドキを隠すような仕草の彩花。
やっぱり可愛い声で、紅に染まる頬が可愛くて。
「ホント…?」
視線を逸らした小さな声の呟きをそよ風が運んでくれる。
彩花、俺だって年甲斐もなく動悸が激しいよ。
同僚としての線引きを壊したのは、彩花だぞ。
俺の心のハードルを彩花の告白が飛び越えてくれた。
咳払いをする。じゃないと、喜びに声が掠れてしまいそうだから。
「俺が嘘言ったことあったか?」
彩花が顔を上げた。
「先生、真っ赤…」
彩花が呟く。知ってるよ!頬っぺた熱いからな!これも全部彩花のせい。
彩花がふふっと幸せそうに笑みを溢す。
そして空を見上げた。俺も視線を追うように見上げると、晴れた空に柔らかな雲は緩やかに流れている。良い天気だ。
彩花は俺に視線を移していた。その笑顔は中学校の頃のようなどこか悪戯な微笑み。
「ないって言いたいけど、ありますね」
「あった!?」
デカイ声で驚く俺に彩花は声を立てて笑った。
「私たちが2年生のときの長距離継走大会の後で、米ちゃんが先生にタオルを差し出したとき」
「…ああ」
俺が2人に傘を貸して霧雨で濡れたから、米田は頭を拭いて良いよと俺にタオルを渡そうとした。それを俺は「汗臭ぇ」と嘘を言ったんだった。
「あれはノーカンだ。米田に自分の頭を拭かせるためなんだから」
「わかってますよ。米ちゃん、言ってましたよ?
『もう怪我しないように優しい体育教師にストレッチとかトレーニングを教えてもらおうかな』って」
「彩花も一緒に来たな。嬉しかったよ、俺。教師になって良かった、長距離教えて良かったと心から思ったから」
「先生…」
見上げる瞳はまっすぐに俺を映す。
めっちゃ素直に喜んでいる笑顔の俺を。
「彩花」
「はい」
「返事、ちっさい声だな」
「名前呼ばれてすごく嬉しいんですけど、照れちゃいます」
ちっさい声も可愛いし照れ笑いも可愛い。
「気づいてるか?彩花に先生って呼ばれるの好きだけど、名前を呼んでくれたらなって思ってること」
「…剛士(たけし)さん」
「やべえな。嬉しいわ」
手で口を覆ってニヤける顔を隠す。
込み上げる笑みを抑えられねーよ。
「今、手を繋いだらさ、まずいかな」
「まずいですよ。私、緑地公園の木立や池のほとりでランニングしてると、よく保護者さんのジョギングや犬の散歩で挨拶されますよ」
「あ、俺もだ」
「ほらぁ」
彩花は笑う。楽しそうに、幸せそうに。
彩花が中学3年のマラソン大会で、米田のクソデカボイスの応援の中、1位を守り抜いてゴールテープを切ったときの面影を残して。
「週末、どっか出かけるか」
「部活ありますよ?」
「あーじゃあ夜だなぁ。飯でも食う?」
「そうですね」
俺たちは中学校行きつけの商店での買い出しを終える。
彩花の荷物を持とうと思ったら小さな声で断られた。
俺の片手が開いてたら、手は繋げないけど少し距離が近くなるからって。
学校に戻る並んだ二人の距離は、今までの自分たちよりも少しだけ近づいていた。
「君の名前を呼んだ日」
陸上競技場のスタンド席の屋根の下で、私と鈴ちゃんは霧雨のトラックをぼんやりと見ていた。
曇天の下で先ほど終了した中学生市民長距離継走大会。生徒、教師、大会関係者、保護者、地域住民が集い選手の力走と各々の応援に熱が入り、曇天とは思えないほど活気に溢れていた。
表彰式終了を待つかのように直後に弱い雨がポツリポツリと降り出し、大会に参加していた人々は大急ぎで撤収作業に入り、慌てて帰宅して行った。
鈴ちゃんだけが、この陸上競技場に佇む私の隣に寄り添ってくれている。
「早坂先生…」
「あ、いたね。去年までウチの中学で長距離継走部の顧問やってた先生。今、西中にいるんだっけ」
私の呟きを拾って、鈴ちゃんが引き受けてくれた。
「そう。さっきね、私、走り終わった後、声をかけられたの」
「……なんて?」
鈴ちゃんの心配そうな瞳に少し微笑んだ。
柔らかな優しい雨音が競技場に満ちていて、鈴ちゃんの声も優しかった。
「走り込み不足だなって」
「それは…!」
鈴ちゃんが勢いよく立ち上がり、私を見下ろす。
鈴ちゃんの怒った声が雨の音をかき消した。
「だって、米ちゃんは捻挫したから、夏休みの間、走れなかったんだよ?練習したくても練習できなかった!」
鈴ちゃんの瞳に涙が光る。
私の代わりに怒ってくれる。
あの瞬間、言いたくなったけど飲み込んだ言葉を、鈴ちゃんはわかってくれている。
「でもやっぱり、試合に出たら選手だから。走り込みが足りないのも事実だから」
「米ちゃん…」
鈴ちゃんはさっきと同じように私の隣に腰をかけた。
私たちの沈黙を霧雨の音が埋める。
トラックを照らす白く眩しいライトが、霧雨を浮かび上がらせている。
太陽が照りつけるあの夏休み直前の熱い日。
中学校近くの緑地公園に向かって鈴ちゃんと走っていた。
緑地公園は木々の間を風が吹き抜け、木漏れ日がキラキラ輝く長距離継走部の練習コース。
そこへ向かう途中のアスファルトの歩道で、私は小石に滑って足を挫いた。
ズキズキする足首の強い痛み、ギラギラと照りつける太陽、ミンミン五月蝿い蝉の声。
私は足首を押さえて痛みに顔を歪めて悔しさで溢れそうになる涙を抑えるのに必死だった。
鈴ちゃんは悔しそうに唇を噛んで瞳には涙を湛えていた。
私の背中を鈴ちゃんが何度も優しく摩ってくれて、顧問が愛車で到着するのを一緒に待ってくれていた。
軽度の捻挫と診断され、完治まで1週間、本格的な練習開始まで4週間かかった。
捻挫の前は鈴ちゃんと同じペースで走れていたのに、捻挫後は鈴ちゃんについて行けなくなった。
大会前には鈴ちゃんとの差は少しは縮まったけれど、私はいつも疲労困憊。
足首は痛くないのに、前みたいに鈴ちゃんに追い抜かれないように走ることはできなくなった。私は常に、鈴ちゃんのだんだんと遠くなる背中を追いかけていた。
「私たちしかいないからサボれないじゃん」
「選抜されたんだからサボるな」
顧問にうそぶいていたけど、本当は捻挫なんかしたくなかった。
鈴ちゃんと一緒に走りたかった。
今日のレース、私は3位で襷を受け取り、6位で襷を次に走る鈴ちゃんに渡した。
疲労困憊で鈴ちゃんを応援する声も出せずに、私は顧問に抱えられた。
鈴ちゃんは4位で帰って来て、先輩に襷を渡した。
ウチの中学校は4位でフィニッシュした。
目標の表彰台に登ることは叶わなかった。
先輩たちが啜り泣く中で、私は自分を責めながら、表彰式をただぼんやりと眺めていた。
「帰るぞー」
顧問が黒い紳士用の大きな傘を差しながら私たちに近づいてきた。
「ここ、もう締めるからって管理人が言ってる。ほら、早く」
普段と変わらない豪快さで私たちを立たせて傘を鈴ちゃんに持たせた。
「3人で入るのは無理だから、俺の車まで2人で来なさい」
「来なさいって、私たち自転車だけど」
自転車にカッパも置いてある。
自転車に乗る時にはカッパを携帯するように。傘さし運転は厳禁。それが中学校のルールだ。
「2人とも、学校までは徒歩通学だろ?」
「そうだけど」
「じゃあ、今日はここに自転車を置いていきなさい。暗いから家まで送ってやるよ。明日、学校へ来なさい。俺も学校にいるから、ここまで連れて来てやるよ」
軽く微笑んで、顧問は踵を返して駐車場に向かって行く。
私たちは顔を見合わせた後、大きな傘の下で体を寄せて先生の後をついていく。
傘が雨音をリズミカルに鳴らす。
先生の大きな背中はしっとりと濡れて染みになっている。
「米ちゃん」
「ん?」
「私初めて顧問を見直したかも」
真面目な口調が可笑しくてちょっと笑った。
「私も」
二人で密やかに笑い合った後、沈黙を雨音が埋める。
優しい音で。
「私たち、このまま行ったら3年生でも選ばれるじゃん?」
「うん、そうだね」
「そしたら、もっと筋力トレーニングとか柔軟とか真面目にやって怪我しないようにする」
「米ちゃん」
「あの優しい顧問の体育教師に聞いてさ。喜んで教えてくれそうじゃん?」
「うん。私も一緒にやりたい」
傘をさす私たちのペースが遅いのか、顧問は振り返って私たちが近づくのを髪を濡らして待っている。
私たちは顧問に追いつくために足を速める。
速足は焦ったくなって、鈴ちゃんと顔を見合わせて。
鈴ちゃんは傘を閉じた。私はバッグのファスナーを開けてタオルを取り出す。
ギョッとした顔の顧問に笑いながら走る。
「おまえら、なぁにやってんだー」
私たちに叫ぶ声。
しっとりと顔を濡らしていく優しい霧雨。
雨が降り注ぐアスファルトの上を走るリズミカルな足音。
なんでもない音が、とても優しく私たちを包む。
「あーあー」
近づいた顧問は呆れ顔で、私は濡れないように抱えていたタオルを「はいっ」と差し出した。
「頭拭いて良いよ」
顧問はタオルを少し眺めて「やだよ。汗臭ぇ」
「嘘っ」
「嘘だけど。他人のことより自分の頭拭け。あと、傘も差しなさい。今更と言えば今更だけど」
顧問は再び駐車場に向かって歩き出す。今度は傘を差した私たちと距離が開かないようゆっくりとした速さで。
「狭いけど」
そう言って助手席のドアを開け、助手席を倒してから後部座席に私たち二人を誘導してくれる。
「これ、ジムニーでしょ」
「そう。狭くないか?」
「大丈夫」
優しく雨音を響かせながら、霧雨が窓を滑り落ちていく。
私はもう大丈夫。
皆んなが優しいから、大丈夫。
「優しい雨音」
公立中学校2年C組。ウチのクラスは同じ学年の他のクラスに比べて目立たない。
ヤンチャな人がいない、飛び抜けて勉強のできる人もいなければ、運動ができて目立つ人もいなかった。リーダーとして活発に意見を言う人もいない。その代わり、落ちこぼれもおらず、登校拒否の人もおらず、皆んなそれぞれが気の合うグループに属していて、その中で平々凡々に学校生活を送る。そんなクラスだった。
私も、そんな1人だった。
そんなある日、2年C組に事件は起きた。
それは給食を食べ終えて、気の合うグループ同士でお喋りに興じるいつもの日常に突然。
教室の後ろの方で、派手な大きな音がした。身体をびくつかせて音がした方へ振り返ると、椅子が倒れ、同級生男子2人が腕を掴み合っていた。
喧嘩!?
2人の表情は硬く、喧嘩は収まりそうもない。
クラスの皆んなは固唾を飲んで2人を見つつ、どうしよう…という雰囲気になっている。
腕を掴み合う2人は「お前が悪い」「悪くない」と口からツバを吐きながら大声で罵り合っている。
私はそっとこの教室の中にいる教育実習生を見る。
大学生は、青ざめながら2人を見ていた。
こんな場面に遭遇するなんて、ツイてないね。
クラスの子が担任を呼びに行ったのを横目で捉えて、先生が早く来ればと私は思っていた。
他のクラスの子たちが喧嘩に気づいて廊下からC組を眺めていた。
「やめろよっ!2人ともやめろって!」
クラス委員長が、2人の中に入って、2人を引き離し始めた。
それがきっかけとなって、2人の仲の良い男子たちが引き剥がしに加勢し、なんとか羽交い締めにして引き剥がす。
クラス委員長は、罵り合っている2人を静止させようとしている。
走って来た担任が一喝し、2人とも教室から連れ出されていった。
廊下の野次馬も、自分のクラスへ戻っていく。
斜めになった机、倒れた椅子をもくもくと元に戻していく委員長。
手助けをしたい気持ちに駆られて私は倒れた机に手を伸ばす。金属の冷たさ、机の重さ。委員長が「ありがとう」と私に向けて微笑んで、私は「うん」と小さく頷いた。
何をするにも一緒の女の子2人組の内緒話が聴こえてくる。
「結局、何が原因だったの?」
「さぁ」
「ビックリした…あんなにいつも仲が良いのにね」
「ね、大人しい2人なのに」
ビックリしたと言えば、と机や椅子を並べ終えた後、乱れた制服を整える委員長の横顔を見る。
2年C組の、目立たない委員長さん。
他のクラスのような陽キャな感じは全くなく、クラスの決め事の司会の声だって落ち着いてて声量も普通なのに。推薦で選ばれたけど、私はよく知らないから別の人に投票したくらい、真面目そうだけど普通の人だと思ってた。
すごく正義感のある行動だった。私が物心ついてから初めて接した勇気だった。
推薦した人、投票した人は彼の本当の姿を知っていたのだろうか。
それとも、彼はクラス委員長という肩書き故の責任感で、喧嘩の仲裁に飛び込んでいったのだろうか。
斜め前に座る委員長。
小柄で、色白で、目立たないと思っていた人が、あの瞬間は誰よりも勇敢で。
別に恋をしそうとかそういうんじゃないけど、でも、喧嘩を仲裁する行動は正直、カッコ良かった。
教室はまだ密やかにざわめいている。
委員長が席を立ち、仲の良い友人へ話しかけに行く。
友人は少し戸惑いつつも笑顔で迎え入れて、すごかったと委員長を褒め、彼は照れた笑顔を見せつつも謙遜している。
その姿は私が知っている委員長さん。
だけど彼の内面はとても正義感が強く実行力がある。
今日、私はそれを知った。
放課の間だけ許されているスマホの電源を入れる。
ビデオモードで自分の顔を映せば、それはよく知る平凡な私。
ただ観察して、人に深く関わらない私。
今までの私は平凡で、そんな生き方しかできないと思い込んでいたけど、そうではないかもしれない。
内面を磨くこともせずに、自分を評価するべきではないんだ。
ビデオモードの自分の瞳は、強い意志を持っていた。
「昨日と違う私」