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陸上競技場のスタンド席の屋根の下で、私と鈴ちゃんは霧雨のトラックをぼんやりと見ていた。

曇天の下で先ほど終了した中学生市民長距離継走大会。生徒、教師、大会関係者、保護者、地域住民が集い選手の力走と各々の応援に熱が入り、曇天とは思えないほど活気に溢れていた。
表彰式終了を待つかのように直後に弱い雨がポツリポツリと降り出し、大会に参加していた人々は大急ぎで撤収作業に入り、慌てて帰宅して行った。
鈴ちゃんだけが、この陸上競技場に佇む私の隣に寄り添ってくれている。

「早坂先生…」
「あ、いたね。去年までウチの中学で長距離継走部の顧問やってた先生。今、西中にいるんだっけ」
私の呟きを拾って、鈴ちゃんが引き受けてくれた。
「そう。さっきね、私、走り終わった後、声をかけられたの」
「……なんて?」
鈴ちゃんの心配そうな瞳に少し微笑んだ。
柔らかな優しい雨音が競技場に満ちていて、鈴ちゃんの声も優しかった。
「走り込み不足だなって」
「それは…!」
鈴ちゃんが勢いよく立ち上がり、私を見下ろす。
鈴ちゃんの怒った声が雨の音をかき消した。
「だって、米ちゃんは捻挫したから、夏休みの間、走れなかったんだよ?練習したくても練習できなかった!」
鈴ちゃんの瞳に涙が光る。
私の代わりに怒ってくれる。
あの瞬間、言いたくなったけど飲み込んだ言葉を、鈴ちゃんはわかってくれている。
「でもやっぱり、試合に出たら選手だから。走り込みが足りないのも事実だから」
「米ちゃん…」

鈴ちゃんはさっきと同じように私の隣に腰をかけた。
私たちの沈黙を霧雨の音が埋める。
トラックを照らす白く眩しいライトが、霧雨を浮かび上がらせている。


太陽が照りつけるあの夏休み直前の熱い日。
中学校近くの緑地公園に向かって鈴ちゃんと走っていた。
緑地公園は木々の間を風が吹き抜け、木漏れ日がキラキラ輝く長距離継走部の練習コース。
そこへ向かう途中のアスファルトの歩道で、私は小石に滑って足を挫いた。

ズキズキする足首の強い痛み、ギラギラと照りつける太陽、ミンミン五月蝿い蝉の声。
私は足首を押さえて痛みに顔を歪めて悔しさで溢れそうになる涙を抑えるのに必死だった。
鈴ちゃんは悔しそうに唇を噛んで瞳には涙を湛えていた。
私の背中を鈴ちゃんが何度も優しく摩ってくれて、顧問が愛車で到着するのを一緒に待ってくれていた。
軽度の捻挫と診断され、完治まで1週間、本格的な練習開始まで4週間かかった。

捻挫の前は鈴ちゃんと同じペースで走れていたのに、捻挫後は鈴ちゃんについて行けなくなった。
大会前には鈴ちゃんとの差は少しは縮まったけれど、私はいつも疲労困憊。
足首は痛くないのに、前みたいに鈴ちゃんに追い抜かれないように走ることはできなくなった。私は常に、鈴ちゃんのだんだんと遠くなる背中を追いかけていた。

「私たちしかいないからサボれないじゃん」
「選抜されたんだからサボるな」
顧問にうそぶいていたけど、本当は捻挫なんかしたくなかった。
鈴ちゃんと一緒に走りたかった。


今日のレース、私は3位で襷を受け取り、6位で襷を次に走る鈴ちゃんに渡した。
疲労困憊で鈴ちゃんを応援する声も出せずに、私は顧問に抱えられた。
鈴ちゃんは4位で帰って来て、先輩に襷を渡した。
ウチの中学校は4位でフィニッシュした。
目標の表彰台に登ることは叶わなかった。
先輩たちが啜り泣く中で、私は自分を責めながら、表彰式をただぼんやりと眺めていた。


「帰るぞー」
顧問が黒い紳士用の大きな傘を差しながら私たちに近づいてきた。
「ここ、もう締めるからって管理人が言ってる。ほら、早く」
普段と変わらない豪快さで私たちを立たせて傘を鈴ちゃんに持たせた。
「3人で入るのは無理だから、俺の車まで2人で来なさい」
「来なさいって、私たち自転車だけど」
自転車にカッパも置いてある。
自転車に乗る時にはカッパを携帯するように。傘さし運転は厳禁。それが中学校のルールだ。
「2人とも、学校までは徒歩通学だろ?」
「そうだけど」
「じゃあ、今日はここに自転車を置いていきなさい。暗いから家まで送ってやるよ。明日、学校へ来なさい。俺も学校にいるから、ここまで連れて来てやるよ」
軽く微笑んで、顧問は踵を返して駐車場に向かって行く。
私たちは顔を見合わせた後、大きな傘の下で体を寄せて先生の後をついていく。
傘が雨音をリズミカルに鳴らす。
先生の大きな背中はしっとりと濡れて染みになっている。

「米ちゃん」
「ん?」
「私初めて顧問を見直したかも」
真面目な口調が可笑しくてちょっと笑った。
「私も」

二人で密やかに笑い合った後、沈黙を雨音が埋める。
優しい音で。

「私たち、このまま行ったら3年生でも選ばれるじゃん?」
「うん、そうだね」
「そしたら、もっと筋力トレーニングとか柔軟とか真面目にやって怪我しないようにする」
「米ちゃん」
「あの優しい顧問の体育教師に聞いてさ。喜んで教えてくれそうじゃん?」
「うん。私も一緒にやりたい」
傘をさす私たちのペースが遅いのか、顧問は振り返って私たちが近づくのを髪を濡らして待っている。

私たちは顧問に追いつくために足を速める。
速足は焦ったくなって、鈴ちゃんと顔を見合わせて。
鈴ちゃんは傘を閉じた。私はバッグのファスナーを開けてタオルを取り出す。

ギョッとした顔の顧問に笑いながら走る。
「おまえら、なぁにやってんだー」
私たちに叫ぶ声。
しっとりと顔を濡らしていく優しい霧雨。
雨が降り注ぐアスファルトの上を走るリズミカルな足音。
なんでもない音が、とても優しく私たちを包む。
「あーあー」
近づいた顧問は呆れ顔で、私は濡れないように抱えていたタオルを「はいっ」と差し出した。
「頭拭いて良いよ」
顧問はタオルを少し眺めて「やだよ。汗臭ぇ」
「嘘っ」
「嘘だけど。他人のことより自分の頭拭け。あと、傘も差しなさい。今更と言えば今更だけど」
顧問は再び駐車場に向かって歩き出す。今度は傘を差した私たちと距離が開かないようゆっくりとした速さで。

「狭いけど」
そう言って助手席のドアを開け、助手席を倒してから後部座席に私たち二人を誘導してくれる。
「これ、ジムニーでしょ」
「そう。狭くないか?」
「大丈夫」

優しく雨音を響かせながら、霧雨が窓を滑り落ちていく。
私はもう大丈夫。
皆んなが優しいから、大丈夫。



「優しい雨音」

5/26/2025, 4:12:39 AM