雨の香りがすると、思い出すことがある。
頬に流れた涙の跡を見つけた痛みと共に---
雨の香り、涙の跡
休日の午後、ベランダの洗濯物を取り寄せながら曇天を見上げる。
今にも雨が降り出しそうと言えば、そうだけど。
梅雨時の雨が降らない貴重な休日は、やはり走っておきたい。
ランニングシューズを履き、車のキーや免許証、小銭やスマホやらの必要最低限のものをウェストポーチに詰めて車に乗り込んだ。
緑豊かな都市公園は、長距離継走部の教え子たちを鍛える場所。
休日は、俺や、尊敬する体育教師の神谷先生が好んで走るランニングコース。
走り出して暫くすると、ポツリ、一粒の雨が頬に当たった。
ポツリ、ポツリ、途切れ途切れの雨粒は、木々の生い茂る葉が遮ってくれる。
降り出した雨に、草木が濡れ、土が濡れ、独特の香りが漂う。
埃っぽいような雨の降りはじめのこの香りには名前が付けられていた。確か、ギリシャ語でペトリコール。石のエッセンスという意味だ。
この香りは、俺にとって戒めであり、慰めでもあった。
5年前、俺は市民長距離継走大会当日、女子生徒を泣かせてしまったことがある。
その前年、本郷中学校の長距離継走部の顧問となり、選抜された中学1年生の2人をやる気にさせることができなかった。2人はいつも上級生の走るスピードに着いて行けず、チンタラ走っていた。
俺の指導力不足を反省しなければいけないところ、俺は2人をやる気にさせたくていつも叱責した。彼女たちの練習態度は変わらず、タイムも伸びず、上級生とのタイムの差は遠退くばかりで試合の補欠にも選ぶことができなかった。
俺は翌年3月に本郷中学校から西部中学校へ移動となり、彼女たちとの接点はなくなった。
…はずだった。
1年ぶりの曇天の長距離継走大会で俺は西部中学校の指導者として、彼女たちは本郷中学校の駅伝ランナーとして再会した。
米田は3位で襷を受け取り、最初のうちはかなり飛ばしていたが、後半失速して6位まで順位を落とした。
走り込み不足だな。襷を次の走者の鈴木に渡した直後に倒れ込みそうになって、神谷先生に抱きかかえられる。
それを横目でチラッと見て、俺は自分の現在の教え子に意識を集中する。練習通り、順調だ。それで良い。どこかで勝機は訪れる。
米田からの襷を6位で受け取った鈴木が、4位でトラックに帰ってきたのは驚きだった。
速い。区間賞が狙えるペースだ。
そして鈴木の前に走るのは、ウチの学校の2年生。
「抜かれるぞ!ペースを上げろ!腕を振れ!」
間一髪、抜かれる前に襷を次の走者に渡してウチの生徒も倒れ込む。
「よくやった。良かったぞ」
身体を支えながら健闘を讃える。
鈴木は米田に抱きつかれ、健闘を讃えられている。米田は鈴木のおかげで命拾いしたな。
ただ、ポテンシャルはあるはずなのに、練習不足が実力を発揮できないのはもったいないぞ。
神谷先生は、何を思っているんだろう。
次の走者に指示を飛ばす後ろ姿からは、何かを読み取れるはずはなかった。
全ての競技が終わり、表彰式前にトイレを済ませると、同じタイミングで米田もトイレからトラックの方へ戻るところだった。
「米田」
「早坂先生」
「見たぞ、米田の走り。前半は良かったけど、後半は身体がついて行かなかったな」
「……はい」
小さな声で返事が返ってきた。
去年の部活の印象では活発で明るいイメージがあったけど、今日は流石に反省しているのか。
「走り込み不足だな」
来年は練習頑張れよ、最上級生なんだから、下級生の手本にならなきゃダメだぞ。そんな意味を込めて、背中をポンと軽く叩く。
俯いている米田が気になるけど、今にも雨が降り出しそうなため、表彰式は準備ができ次第行われることになっている。
教師が遅刻するわけにはいかない。
「来年、頑張ろうな」
俺は表彰式が行われるトラックへ一足先に走って戻ることにした。
表彰式後、各学校に割り当てられた片付けを行う。
西部中学校の隣は本郷中学校で、顔見知りの神谷先生が片付けていた。
片付け終わり、神谷先生に「鈴木速かったですね。区間賞おめでとうございます」と声をかける。
2年生で区間賞を取るなんて大したものだ。1年の時はあんなにチンタラ走っていたくせに。
神谷先生からも「西部中学校3位おめでとうございます」と言葉が返ってくる。勝敗に関係なく、お互いの健闘を讃え合う。スポーツの素晴らしいところだ。
鈴木を褒め、俺は鈴木と仲の良い米田の失速ぶりを話題にあげた。彼女は明らかに練習不足だった。指導に定評のある神谷先生でも、彼女のおちゃらけた態度は変わらなかったのか。もったいない。
神谷先生は、米田が走り込めなかった真相を教えてくれた。
米田が夏休み前に捻挫したこと、練習再開まで1か月を要したこと、捻挫前は米田と鈴木の実力は拮抗していたこと---
俺は口元を押さえた。
なんてことを米田に言ってしまったのだろう。
走りたいのに走れなくなった人に対して…鈴木と実力が拮抗していたなら、それは米田が真面目に練習していたに他ならないのに。
練習したくてもできない悔しさを抱えていたのかもしれないと思い遣ることもせず、米田が練習にマトモに取り組まなかったせいだと決めつけて---
神谷先生は後方を振り返っていた。
視線を追うと、雨でぼやけたスタンド席に、体操服らしき生徒2人の影が見える。
神谷先生から米田と鈴木であることを確認して、俺は「米田に謝ります」とスタンド席に向かって歩きだした。
一刻も早く謝りたい。駆け出したい気持ちでいっぱいだったが、傷つけてしまった米田に何と謝ったら良いのか考えを纏めなければいけない。
そんな俺のことも、米田の気持ちも理解しているだろう神谷先生が助け舟をくれた。
「先ずは俺が落ち着かせます。駐車場に連れて行きます」と時間の猶予まで与えて。
「お願いします」と頭を下げる。考えをまとめよう。
雨の香りが立ち込める霧雨を歩きながら。
駐車場で3人を待っていると、程なくして2人はやってきた。
傘を差す米田と鈴木の頬に涙を拭った跡が残されており、心が軋む。
自分がこの子たちを傷つけたくせに、俺が傷ついてどうする。
俺にできることは俺が全面的に悪かったと謝って、この子たちの負の感情を霧散させることだ。
深く頭を下げて、自分の思い込みや言葉足らずだったことを誠心誠意謝罪する。
雨の香りがする。埃っぽい、咽せるような強い香りが。
そんな俺に、米田は優しかった。
「私、来年も選ばれたら、もっと筋力トレーニングとか柔軟とか真面目にやって怪我しないようにします」
「米田」
「隣の体育教師にいっぱい教えてもらいます。鈴ちゃんと頑張ります」
言われた言葉は予想外。何て良い子なんだろう。
ポカンと数秒呆気にとられた後、俺はホッとして笑った。
涙ぐんでしまっていたから、笑顔と共に涙の粒がこぼれ落ちそうで、生徒の前でそれは避けたい。首元のタオルで顔の汗や雨を拭くフリをして顔全体を拭う。
「米田、ありがとう」
「打倒西中!」
「「そこは今年1位の南部中だろ」」
神谷先生と俺が同時にツッコミを入れたのは言うまでもなかった。
自分の車に向かう俺の後方から、2人の「先生、さよーならー」とデカイ声が聞こえて笑う。
本当に良い子たちだ。両親の育て方と、神谷先生が素晴らしいからだな。
車のドアを閉め、次々とこぼれ落ちる涙を拭う。
霧雨の雨の香り、米田と鈴木の涙の跡。
戒めと慰めの記憶として、心に刻んでおこう。
いつか、神谷先生のような尊敬する師になるために。
都市公園の雨はすぐに止むかと思ったが、止みそうになかった。
ハッキリ言って寒い。梅雨寒だ。
クシャミをして人差し指で鼻の下を押さえる。
風邪なんて引いてる場合じゃない。
明日から5日間、学校へ出勤しなければならない。
都市公園で常設されているコンテナのカフェまでは、池を半周した先にある。
屋根付きのテーブルやベンチもあるし、スペシャリティコーヒーが話題になって久しい。
そう言えば一度は飲んでみたいと思いながら、まだ行ったことがないことを思い出して駆け出した。
「あれっ、早坂先生?」
コンテナの一段高くなっているカフェ提供ブースから、素っ頓狂な声がした。
一瞬ウチの生徒かと思ってドキッとしたが、見上げるとついさっきまでの思い出の人物、米田だった。
中学生だった米田は成長して髪をひとつに縛り、化粧をしていた。店員のエプロンとユニフォームがよく似合っているけれど、一目で米田とわかる面影があった。
「米田か。中学生ぶりか。変わってないなぁ」
「は?失礼すぎるって。私、大学生ですよ」
「冗談だよ。バイト中?」
「はい!ご注文何にしますか?」
ニコッと笑顔を向けられてメニューを見るが、せっかくだから米田に決めてもらうことにした。
「オススメは、深煎りアイスコーヒーです!!」
「寒いから却下。温かいのでよろしく」
「やっぱり?」
悪戯っぽく笑われて苦笑する。
そうだ、米田はこんな調子だから、本来の傷つきやすい繊細な性格に気づかなかったんだ。
「当店オリジナルのブレンドコーヒーはいかがですか?1番人気です」
「そうだな。ブレンドで」
「かりこまりました」
コーヒーの芳ばしい香りが忽ち立ち込める。丁寧にドリップをしてくれているのが表情でわかる。
「バイト歴、長いのか?」
「大学入ってすぐだから2年目?長いですか?」
「微妙だな」「ですよね」
支払いを済ませると、他に客が居ないからと俺のテーブルの向かい側に座った。
「鈴ちゃん、わかります?」
「鈴木だろ? わかるも何も、つい最近まで俺のクラスで教育実習生してた」
「先生が鈴ちゃんの教育担当なんですよね?先生から見た鈴ちゃんってどんな感じ?」
興味津々と言った様子に、俺は笑った。
「相変わらず仲良いんだな」
「そりゃもう!ずっと親友だもん!」
「頑張ってたよ。ウチのクラス、ひとり知的好奇心が旺盛で高度な質問する生徒がいるんだけど、初日はその生徒が納得できるような回答ができなくてさ」
米田が無言で神妙な顔をして頷く。
俺は微笑んで続きを話した。
「翌日、鈴木はその生徒の質問をことごとく答えていった。どんなに高度な質問にも、単元の範囲外の質問にも。相当調べ上げて記憶したと思うよ」
「さすが鈴ちゃん!」
「鈴木は努力家で結構な負けず嫌いだな。ま、授業はそのせいで進まなかったから、俺の指導を入れたけど」
「わ、自分の手柄を入れた」
米田のツッコミに笑う。
「授業ってのは、1人のためじゃない、皆んなにわかるように進めるんだよ。まあでも、生徒想いなのはよくわかるから教生として充分合格だよ」
「やった!」
両手を握って胸の前でガッツポーズをする。
鈴木、良い親友を持って幸せだな。
コーヒーの香りを嗅ぐ。
「美味いな。スッキリしてる」
「ですよね?フレンチトーストも人気メニューですよ」
「それはまたにするよ」
霧雨が降り注ぐ。
雨の香りは変わらない。
だけど、心におった小さな傷は癒えている気がする。
「米田、あのときごめんな」
「はい?」
「陸上競技場で、傷つけたこと。泣かせて悪かった」
「…そんなこと、もうとっくに、あの日に謝ってもらっているのに」
戸惑いながら、米田は胸元で拳を握った。
「なんか、霧雨と雨の香りで思い出してさ。あのとき、俺はちゃんと謝れたか自信がなかったから」
「充分でしたよ。先生の謝罪、伝わってました」
「そうか」
「はい!それに」
米田は俺の顔を覗き込んだ。悪戯めいた表情に、ドキッとする。
「私と鈴ちゃん、早坂先生の言葉で泣いたわけじゃないですよ」
「そうなのか!?」
初めて突きつけられた言葉に驚き、大声を出す。
雨に紛れて、すぐに俺の声は自然の中に吸い込まれていった。
「じゃあ、誰のせいで、」
「神谷先生ですよ。私には、『米田は今日も頑張ってた。俺は米田が頑張っているところをずっと見てきたから』って言ってくれたんです」
「神谷先生が…」
神谷先生なら言いそうだ。あんなに生徒思いの先生はなかなか居ない。
「鈴ちゃんにも言ってました。『米田のためによく頑張ったな。あんなに速く返って来るとは驚いたよ』って。それで2人とも泣いちゃって…」
俺は額を抑えてテーブルに突っ伏した。
なんなんだよ、それ。
神谷先生の優しさが米田と鈴木を泣かしてんじゃん。
「鈴ちゃん、神谷先生みたいに優しくて頼り甲斐のある先生になりたいんだって。早坂先生、機会があったら、鈴ちゃんを助けてあげてくださいね」
「…わかったよ」
頭上から米田のふふふっと穏やかな笑い声が聞こえる。
優しさの涙の跡だなんて、そんなんありなのかよ。
「…俺の憧れも神谷先生だから」
「嘘!」
「マジで」
「そしたらあたし、ラッキーですね。時々神谷先生、コーヒー飲みに来てくれますもん」
「マジか。俺ももっと飲みに来るわ」
「ありがとうございます!」
雨の香り、涙の跡が切ない思い出から明るい思い出に変わる。
雨の香り、涙の跡
6/19/2025, 5:00:54 PM