Mey

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外科病棟の廊下に不似合いな甘い匂いが漂う。綿菓子やかき氷の甘い砂糖の、まるで子どもの頃に訪れた夏の縁日のような匂い。
小児科病棟の改装工事で外科との混合病棟になった今年、病棟内に夏祭り会場が設けられた。祭囃子が流れ、子どもたちの笑い声、親やスタッフの楽しそうな声が響き合う。
その賑やかな声に誘われて、祭り会場へ足を踏み入れた。
「浅尾先生、浴衣姿カッコイイっす」
ヨーヨー釣りのブースに並ぶ気胸で入院させた高校生男子が俺に気づき声をかける。隣には手を繋いだ彼女が並んでおり、俺は「今日はぜひ楽しんで」と微笑んだ。
隣の輪投げブースに並んだ子どもからも声をかけられて、自己紹介をした後少し言葉を交わす。
翔くんの頭にはピカチュウのお面が被さっている。

ここ10日間ほど前からだったか、外科の患者さんの比較的体調が良い人たちが、病室やロビーで夏祭りに配るお面製作を楽しんでいた。
このピカチュウのお面は、先日乳がんの手術をして片側の乳房を切除したことによりボディメカニクスの変容に落ち込んでしまった田中さんの気が少しでも紛れればと、看護師の宮島さんが病室に必要な物品をそっと置いていったものだった。田中さんは「小さな子どもたちが点滴台を持ちながら歩いているのを見てたら、手術が成功した私が塞ぎ込んでちゃいけないなと思って」とお面作りを少しずつ始めた。その姿に安堵していると、俺が浴衣を着たところを見たいと田中さんは笑う。浴衣を着て笑顔が見られるのなら、安いものだよ。

翔くんは黄色のヨーヨーを持っている。
「そっか。黄色、ピカチュウの色だ」
「うん!せんせい、あたまいいね」
翔くんの無邪気な言葉にその場にいた人々の笑いを誘い、俺も声を立てて笑った。
ふと輪投げブースで輪投げをする患児を笑顔でサポートする浴衣姿の小児科医の佐々木先生と目が合った。彼は珍しいモノでも見るように俺を見た後、ふわっと嬉しそうに笑った。

夏祭り会場を見渡すと、宮島さんが目に入った。彼女もまた浴衣姿で、ナース服で忙しなく動く姿とは異なり、どこかはんなりと笑顔と優しさを漂わせている。休憩所兼飲食スペースへ杖をついて歩く高齢患者の大竹さんを彼のペースに合わせて誘導している。去年のクリスマスイブ、彼女の受け持ち患者は病室内で転倒してしまった。幸い打撲で済んだが、それ以降彼女は転倒予防に誰よりも気を配っている。
宮島さんは患者を座らせた後かき氷のブースへ行った。大竹さんは腎機能が少し落ちている。かき氷を楽しみながら水分摂取量が増えればと考えてのことか。子どもを楽しませながら生活を改善する小児看護の経験が彼女の成長を促しているんだろう。
かき氷を食べ始めた大竹さんのところへ行く。宮島さんは隣で見守ってくれている。
「浅尾先生、さすが男前だ」
「いや、俺なんて。大竹さんの狐のお面も粋ですよ」
大竹さんと話しながら、その隣の宮島さんを見る。
宮島さんの頬がほんのり赤くなっている。宮島さんの視線や態度は、俺に好意的なのが透けて見えて、俺も宮島さんのことは可愛いなと思っている。柔らかく見つめると、「あの、浅尾先生もかき氷食べます?」と席から立ちあがろうとしたのを俺は制した。少しだけ落ち込ませてしまった気がして「片付け前に残ってたら、もらおうかな」肩にポンと軽く触れてフォローすると、「はい!」と明るい声が聞けた。
「浅尾先生、田中さんのところへかき氷を持って行こうと思ってるんですけど、一緒にどうですか?田中さん、夏祭りを楽しみにしてくれていたのに、今日、微熱でこの場に来られなかったから」
「なるほど。良いよ。俺も浴衣姿を見せに行かなきゃいけなかったし」

宮島さんに微笑んで、夏祭り会場をいったん後にしようとすると、佐々木先生と目が合った。いつもの優しく明るい笑顔とは異なり、ほんの一瞬、目が細まり、そしてフッと視線を逸らせた。俺に嫉妬…なのだろうか。俺に好意的な宮島さんの様子に気がついたのかもしれない。以前から小児看護の経験がない宮島さんへ佐々木先生がサポートしているのをよく目にしている。彼は今ひとつ小児看護に自信のない宮島さんの看護を笑顔で肯定していた。宮島さんはどこかホッとしていて、二人の間には優しく暖かな雰囲気が漂っていた。

「たかひろせんせーい、あゆみちゃーん」
たくさんの子どもたちが佐々木先生と宮島さんをヨーヨー釣りのブースから呼んでいる。二人は笑顔で子どもたちに取り囲まれて並んで座り、顔を見合わせて楽しそうに笑う。二人の距離感はとても近く、集まった子どもたちのせいで二人が並ぶスペースがないからだと言い聞かせても、やはり胸はチリリと焼ける痛みが伴う。こよりを持ってヨーヨー釣りに興じる二人はお似合いのカップルに思えてくる。既婚の俺なんかよりよっぽど。佐々木先生への嫉妬に気がつき首を振る。妻のことを愛しているのに。愛し続けなければならないに。

医局へ戻ると、医療用のスマホが鳴る。
佐々木先生からだった。電話に出ると、10歳の子どもが熱傷で運ばれてくるが、俺にコンサル(相談、紹介)するかもしれないとのことだった。わかりましたと了承する。そこには宮島さんのことで嫉妬しあう佐々木先生や俺の公私混同はなく、あるのは医師としての使命感だけ。
踵を返して外科小児科混合病棟へ向かう。田中さんのところへ浴衣を見せに行く。宮島さんとは一緒に行けなくなったけれど、彼女はわかってくれるはずだ。
田中さんが予想以上に喜んでくれて写真を撮っていると、かき氷を持った宮島さんが病室に顔を覗かせた。
「わっ、浅尾先生!聞きました、時間外外来に呼ばれるかもしれないんですよね?」
「ああ。もう行くけど」
「あっ、田中さん、かき氷食べられますか?冷たくて気持ち良いと思うんですけど」
「ありがとう、ちょうど喉が渇いてて」
「良かったぁ」
嬉しそうに笑顔になる。こんなとき、宮島さんは素直な良い子だなと俺の胸を温かくする。
「それじゃ、お大事になさってください」
「わざわざありがとうございました」
かき氷にサクッと堅い氷にスプーンを入れた音がした。


夏の匂い。
子どもの頃とも学生時代とも違う、甘やかなジェラシーが結びついてしまった。それはずっと忘れられなくなりそうな恋の匂いーーー



夏の匂い

7/2/2025, 10:08:36 AM