小児科の改装工事のため、一時的に外科病棟に小児科の患児が入院するようになって、1週間。外科病棟の看護師の私も混合病棟の間は2週間ごとのローテーションで外科患者と小児科患者の両方を担当する。
今週と来週の日勤勤務は小児科の看護師として仕事をする。
今日は、小児科用に天井や壁が折り紙や風船、ぬいぐるみで飾り付けられた処置室で点滴を受ける5歳の男の子のプレパレーションを行った。プレパレーションは、検査や処置を行う子どもにわかりやすく目的や手技などを説明し、心の準備を整えておく大切なプロセス。ベテランの小児科看護師さんが私のつたない説明を見守ってくれている。
説明が終わると翔くんは「ぼく、がんばる」と言ってくれて、その健気な様子に心を打たれて胸がじーんと熱くなる。
思わず小さな頭を撫でて、「そばにいるからね。いっしょにがんばろうね」と笑いかけるとコクンと頷いてくれた。
「今、佐々木先生を呼びますね」
「せんせい、あそこ」
翔くんが私の後方を指差すと、クスクスと小さな笑い声が聞こえた。
えっ!?
振り返ると、小児科医の佐々木先生が処置室のドアの前に立っていた。いつの間に…!?
「宮島さんの言うとおり、大切なお薬だから、がんばろうね」
「うん」
大切なお薬って、わりと最初の方に説明したよ…。
佐々木先生にほぼ全部聞かれていたことを知って、私の説明で大丈夫だったかなと少し心配になる。だけど翔くんを励ますため微笑みを絶やさずに、処置台に横になってもらい抑制帯を巻く。説明をしたけれど、実際に行われると翔くんは不安そうな表情をした。
翔くんお気に入りのピカチュウのぬいぐるみが処置室内にもあったことを思い出して、窓辺にあるそれを手に処置台へ行く。
佐々木先生は微笑んで頷いてくれて、私は翔くんにそれを渡した。
「先生、こっちの手に点滴を入れるんだって。だから反対の手でピカチュウ、抱っこしててくれる?」
「うん」
「点滴するときは痛いから泣いても大丈夫だよ。でもピカチュウはずっと抱っこしててあげてね。ピカチュウ、そばにいればもっとがんばれるよね?」
「うん」
私は点滴をしない利き手側の腕をピカチュウごと動かないように固定する。
先生は「えらいぞ。ピカチュウ、かっこいいもんな」と話しかけながら翔くんの注意を逸らし、あっという間に点滴を刺し終えた。その手技は惚れ惚れするほど鮮やかで、先輩看護師が点滴の管が抜けないように手首をシーネでさっと固定する。私は点滴の固定から気をそらせるために翔くんへ話しかける。最後に貼ったテープを見て、「ピカチュウだ!」と涙が粒が光る頬で笑った。
「宮島さんが描いたんだよ。上手だよね」
「えっ?」
私は驚いて佐々木先生を見た。
「あれ、違った?」
「合ってますけど、」
「夜勤で描いてるのを見かけてさ。キミたちが寝てる間も、看護師さんは皆んなを応援してくれてるんだよ。すごいよね」
「そんな、先生こそ、毎日夜遅くまでお仕事してるのに」
話をしながら点滴の滴下を見たり、刺入部位の観察をする。うん、大丈夫。翔くん、ちゃんと頑張ってくれた。
処置室の前で待機してくれていたお母さんにも翔くんが頑張ってくれたことを報告して、点滴台を引きながら一緒に病室へ戻る。
点滴一つとっても、成人や老人とは全然違う。でも、達成感があって、なんだか感動しちゃう。
私は病室を出て心を弾ませながらナースステーションへ戻った。
その日の看護記録を終えて、これで私の今日の業務は終了。
手首や指先、指の間など基本に沿ってしっかりと手洗いをして、ナースステーション奥の休憩室に置かれた冷蔵庫へ向かう。冷凍庫の中には出勤前に病院内のコンビニに寄って買ったアイスのピノが入っている。夏の始まりは朝から暑く、日勤が終わったら食べようと買ったもの。
箱のビニール紐を引っ張ってグルリと一周。ミシン目に沿ってビリビリと音を立てて開けて青色のピックを持ち、チョコアイスにプスっと刺して口元へ運ぶ。
「あーん」と言って口を開けたとき、休憩室のドアを開けた佐々木先生と目が合った。
あ……
佐々木先生は口元を押さえて俯いた。その肩が揺れていて、笑いを堪えようとして堪えきれてないのは一目瞭然。
私はどんな顔をしてたのか、想像するに間抜けな顔で口を開けてたに違いない。顔が熱く赤面してるのがわかる。思わずピノを元のスペースへ戻した。佐々木先生はテーブル越しに私の正面に腰掛け、笑い声の混じる声音で言った。
「宮島さん、食べな?」
「う…はい、」
「夏だもんねえ。ピノ、昔からあるけどうまいよねぇ」
「はい…」
佐々木先生から視線を逸らせておずおずと口に運ぶと、冷たさとチョコレートとバニラの濃厚な甘さが口に広がる。美味しい〜とほわほわ幸せな気持ちになる。佐々木先生がふふっと笑ったのが聞こえた。
恥ずかし……
そう思いながら、そっと私の前に座る佐々木先生を見上げた。目が合って、「ん?」と微笑まれる。
何でもないです、と言おうとして、少し迷ったけれど声をかけた。
「あの、先生も良かったらどうぞ。爪楊枝ありますし」
冷蔵庫の上にあるボックスから爪楊枝の入った箱をピノと一緒に差し出す。
先生は私の顔を一瞬見て、爪楊枝を手にした。
「じゃあお言葉に甘えて。宮島さん、ありがとう」
柔らかく微笑んで、パクッと食べて、「美味しい」と笑う。
…なんか、すごくかわいい食べ方。30代半ばの大人の男性に失礼だけれど。先生の美味しそうな食べ方を見てたら私ももう一個食べたくなって、ピックを刺す。
「あー…」ん、と口にしかけると佐々木先生は今度は笑いを堪えようとせずにプッと吹き出した。
「宮島さんって案外…」
「なんでしょう」
少しだけ開き直って口元を手で隠してもぐもぐ咀嚼しながら尋ねる。
「天然だよね」
「う、」
「言われたことない?」
「よく言われます…」
出会って数日で見破られてしまった。
さすが小児科医。この鋭い観察力は言葉よりも表情や態度で患児の病状や心情を把握する小児科医らしい。まして佐々木先生は注意深く診てくれると評判のお医者さん。
やっぱり、と佐々木先生が楽しそうに笑う。
「宮島さん」
「はい?」
「どう?小児科は。まだ小児看護が始まったばかりだけど」
「…そうですね。子どもたちは言葉で説明できない分、自分が子どもたちの変化に気づかなきゃいけないことも多いですし、対応も子どもの年齢や性格で違ってきますし、そういうところは成人や老人看護よりも細やかな気遣いが大切だと思います」
佐々木先生がそうだね、と穏やかに頷いてくれた。
「でも、子ども可愛いでしょ?」
「はいっ、それはもうすごく!」
明るく尋ねられて、私は力強く同意する。本当に子どもは可愛くて、病気で弱っている子どもたちのチカラになってあげたくなる。
「さっきの点滴のプレパレーション、とても良かったよ。ピカチュウに気づいて持ってきてあげたのも良かった。ああいうちょっとしたことに気づくのは、キミが病室の状況を気にかけているからだね」
「先生」
「歩(あゆむ)くんのことも。キミがそばに居てくれるから、歩くんはプレイルームに来られるようになった」
「そんな、私なんて、」
自閉症児の歩くんがプレイルームに病棟引越し後まもなく来られるようになったのは私のおかげだと、小児科の看護師長からも歩くんのお母さんからも言われたけれど、私にはその実感はあまりなかった。ただ、「あゆむ」と「あゆみ」と名前が同じ漢字で、読み方が一文字違うだけの似通った名前という偶然があっただけ。
「キミが思っている以上に、僕はキミに小児科ナースの適正があるんじゃないかなと思っているよ。わからないことはどんどん聞いて、勉強していってね」
「はい」
「ピノ、ごちそうさま。気をつけて帰ってね」
「はい」
佐々木先生は休憩室を後にした。
どうして休憩室に来たのかなと思っていたけど、佐々木先生は私に小児科ナースの適正があるんじゃないかと伝えたかったのかもしれない。プレパレーションも良かったと認めてくれて、ひょっとしたら、あの場で私が心配になったことを見抜いていたのかもしれない。
外科小児科混合病棟は小児科病棟の改装工事が終了するまでの、一時的な小児の預かり場所。
だけど小児にとっては、そのときやその後の病状を左右するだけでなく、小児科病棟へ移った後や退院してからの検査や治療の場面の精神状態にもかかわってくる。それは治療の成果に直接的に影響を与えてしまう。此処は大切な場所。そこで働く私も、子どもへ影響を与えてしまう。
頑張らなきゃ。勉強しなきゃ。
私はスマホを取り出して時刻を見た。病院内の書店は閉店してしまったけれど、駅ビルの書店は今ならまだ間に合う。あそこは医科大学が近く、看護学部もあって、医療や看護の書籍をたくさん取り扱っている。
夏のはじまり、アイスコーヒーを片手に小児看護の本に目を通そう。
廊下に出ると、点滴台をお母さんに引かれて歩く翔くんが前から歩いてきた。翔くんが私が描いた点滴の固定のピカチュウのテープを見せてくれる。そう言えば、翔くんには洗い替えのピカチュウのパジャマがあった。お母さんに翔くんに知られないように声をひそめて尋ねる。
「明日、ピカチュウのパジャマを着ますか?」
「ええ、そのつもりですが…?」
「翔くん、明日、ピカチュウのパジャマを着るの、お手伝いするね」
「ほんと?」
「ほんと。点滴しててもちゃんと着れるから、私と約束ね」
「うん、やくそく」
「また明日ね」
お母さんには会釈して、翔くんにはハイタッチとバイバイをして病棟を離れる。
翔くんが少しでも早く退院して夏を楽しめるように。
私は日没前の明るい夜の街を書店へと急いだ。
夏の気配
6/29/2025, 7:00:55 AM