「隠された真実」
総合病院の外科小児科混合病棟の看護師の業務はとても多く、今朝もとても慌ただしい。
看護師3年目、同期入社の私と宮島さんは一緒に病室を回って患者さんの採血をしていた。
宮島さんが採血の難しい患者さんを一回で採血して、彼女は人懐っこい笑みを浮かべて患者と喜びあっている。
私も失敗なく採血をできるけれど、宮島さんのように感謝されたことはない気がする。
ううん、新人看護師だった頃は、私の方が患者さんや病棟スタッフに褒められていた。
自分で言うのもなんだけど、私は決して自分の器用さに胡座を描いていたわけじゃない。私だって努力していたけれど、いつしか宮島さんに全てを追い抜かれていた。処置の手技も、看護過程の展開も、患者さんや家族の信頼も何もかも。
「古川さん」
病室を出たところで、外科医の浅尾先生に呼び止められる。
浅尾先生は今夜、当直だった。夜中に救急搬送の対応をして眠れていないはずなのに、微塵も感じさせないところ、相変わらずかっこいい。
浅尾先生が緊急で入院させた患者さんの様子を尋ねられる。
「バイタルは正常値で安定しています。鎮痛剤が効果あったみたいで、夜は良眠してました」
「そうか。ありがとう」
微かな笑みを残し、白衣を翻して去って行く。と思ったら、病室を出た宮島さんの肩に触れて呼び止めた。
なにやら楽しげに会話をして、宮島さんは照れたように俯き、浅尾先生は優しく穏やかに微笑んで宮島さんを見つめている。
そっか。浅尾先生も宮島さんが特別なんだ。
浅尾先生は既婚者。
宮島さんは随分前から浅尾先生のことが好きなんだと思う。
だけど知られるわけにはいかないから、彼女は浅尾先生への恋心をひた隠しにしている。
浅尾先生はいつも小さな笑顔を見せるだけのクールなタイプだ。あんなふうに、優しく、どこか嬉しそうに笑みを溢すことなんてない。
宮島さんだから---彼女は何もかも、私の欲しいものを手に入れている。仕事の賞賛も、浅尾先生の気持ちも。
私も浅尾先生が既婚者だから、自分の恋心を隠しているのに。
彼女と私の隠された想いは同じなのに、仕事への努力も、浅尾先生への恋心も同じなのに。彼女は何もかもを得ている。正直、悔しくて、胸はチクチク痛む。
仕事を終えて職員専用エレベーターを待っていると、後方から「古川さん、ちょっと良いかな」と浅尾先生に呼び止められた。
浅尾先生は今年度でこの病院を退職して外科クリニックを開業するという噂があった。私を誘ってくれるのかなと淡い期待とそんなわけないと否定する気持ち。
浅尾先生の後ろを着いて行くと人通りの少ない自販機コーナーでコーヒーを奢ってくれた。
そして私に自分の外科クリニックで働いてほしいと伝えてくれた。
浅尾先生に認められた。宮島さんに看護師として追い抜かれて自己肯定感が下がっていた私にとって、それは驚きで嬉しくて…浅尾先生の瞳を見つめて「私をですか?」と尋ねる。
「そう。古川さんに働いてもらいたい」ハッキリと先生は伝えてくれた。
「ぜひ、働かせてください」
嬉しくて嬉しくて。浅尾先生は外科医としても、人柄的にもカリスマ性があって優れた人。何よりとても好きな人。
奥さんがいるから私の想いは口にできないけれど、浅尾先生とこれからも一緒に働けるだけで良い。
コーヒーを飲み終えて、私は一礼してエレベーターへと向かう。
浅尾先生の姿が見たくなって、離れてからそっと振り返る。
…浅尾先生はテーブルに頬杖を付いていた。その表情は厳しくて、とても、看護師一人を自分のクリニックに引き抜けた安堵や喜びの表情とは思えなかった。
……浅尾先生が本当に一緒に働きたかったのは、宮島さんじゃないのかな。
宮島さんが処置に就くと、浅尾先生はいつもやり易そうだった。宮島さんの手から欲しい器材が欲しいタイミングで手渡される。宮島さんは患者さんにも気を配って観察と報告をする。浅尾先生から患者の様子を尋ねられることもなかった。
宮島さんは、浅尾先生の誘いを断ったの?それで私に白羽の矢が当たったの?
それとも、浅尾先生は宮島さんのことを忘れるために、私を働かせて宮島さんをこの病院に残すことにしたの?
私は唇を噛み、迫り上がってくる涙をこぼさないように堪える。
まだわからないよ。まだ、誰かに何かを言われたわけじゃない。
エレベーターの鏡に映る自分は悲しく涙を溢している。それを指先で擦るように拭って、1階で降りた。誰とも会わなくて良かったと思いながら。
外科小児科混合病棟の看護師は2週間おきに外科看護担当と小児看護担当に振り分けられる。
私はその日外科担当で、慌ただしい日勤業務を行っていた。
病室でシーツ交換をしていると、宮島さんが「手伝うね」とベッドの反対側に回って手伝ってくれる。
私と宮島さんは忙しなく手を動かしながら、他に誰もいないことを良いことにお喋りする。
「あれ?今って検査出しの時間じゃないの?」
「胃カメラ、延期になっちゃって。禁食ってちゃんと説明して、床頭台のお菓子も預かっておいたのに」
「あの患者さん、何か食べちゃったんだ?」
「うん。畳んである服の間にお菓子を隠し持ってて、空袋を見つけてね」
「うわぁ」
「先生に謝って、怒られてきたとこなの」
宮島さんはシュンと落ち込んだ様子を見せた。
こんな宮島さんの姿は新人の頃は何度か見たけれど、最近ではちょっと信じられないくらい珍しい。
そう言えば新人の頃、私たちは他の病棟の同期も含めて時々ご飯を食べに行っていた。
三交代制の勤務上、皆んなの予定が合わなくなっていつの間にか途絶えていたけれど、私は宮島さんの素直で一生懸命なところが好きだった。
「まあそういうこともあるよね。万全にしても、患者さんがそれを上回るの」
「古川さんにもあるの?」
「あるよ、あるある。困るよね」
私が大袈裟にため息を吐くと、宮島さんはふふっと軽く笑った。
「古川さんってシーツ交換早いよね」
「そう?」
「早いし綺麗だよ。この隣の女性部屋の患者さんたち、古川さんのシーツ交換がいちばん綺麗にしてくれるから、寝てて気持ち良いんだって盛り上がってた」
「ほんと?」
「うん。それからね、洗髪して欲しいって言ってた。私でも良いんだけど、力加減とか手際が良くて古川さんの洗髪が恋しいんだって」
私の劣等感が患者さんの好意を伝えてくれる宮島さんの優しさで解けていく。
後で顔を出す事を伝えると、彼女はうん、と笑った。
シーツ交換を終えると、遠慮がちに宮島さんは私の名前を呼んだ。
「あの……浅尾先生からクリニックに誘われたって、ほんと?」
宮島さんの瞳が不安げに揺れている。
いつもの優しく明るい瞳とは違う影が見える。
違うのに。浅尾先生は本当はあなたを誘いたかったと思うの。
私は心の中で呟いた。それを私が宮島さんに口にするわけにはいかない。
だって浅尾先生が隠していることだから。あなたが俯いているときにしか、浅尾先生は嬉しそうに笑みを溢さないから。
「うん。誘われたよ」
「……そっか」
宮島さんは瞳を伏せた。なるべく優しい声で言いたかったのに、私の声は緊張して硬くなったような気がする。
「古川さん居なくなると寂しいな」
宮島さんは本当に寂しそうに微笑んだ。
嘘を吐いたわけではないのに嘘を吐いたような居心地の悪さと罪悪感が私を襲う。
「私も宮島さんと仕事できないの、寂しいよ」
私たちはグスッと鼻を啜った。
浅尾先生に失恋している私と、失恋していると思っている宮島さん。
隠すことしかできない恋心。
ナースコールが鳴って、宮島さんが明るく笑顔を作り、患者さんのもとへ行く。
私はやっぱり宮島さんには敵わない。
だって宮島さんはとても性格が良いから。
私は大きくため息を吐いた。
宮島さんの人柄や看護は、小児科でも輝いていた。
ううん、小児科の方が宮島さんに合っているのかもしれない。
彼女は子どもたちからも親御さんからもスタッフからもその素直さや一生懸命さで評判が良かった。
中でも小児科医の佐々木先生は宮島さんに熱心に小児医療のポイントを丁寧に教えていた。
佐々木先生は次第に宮島さんに好意を寄せているのを病棟スタッフの誰も疑わなくなるほど、宮島さんに笑ったり、ちょっとだけ揶揄ったり、いつも楽しそうにしていた。
宮島さんも佐々木先生とはリラックスして仕事をしていて、私は羨ましかった。
私と同じく小児看護の関わりは学生以来のはずなのに、宮島さんは私より何歩も先へ進んでいる。
彼女は小児科ナースとして期待されて、2週間ごとのローテーションから外れて小児を担当することが多くなっている。
宮島さんが小児科担当に相応しい理由って何だろう?
私は小児科のプレイルームで子どもたちと遊びながら、部屋の片隅で自閉症児と一緒に寄り添う宮島さんを観察する。
宮島さんが歩くんが着ているパジャマのキャラクターのぬいぐるみをそっと膝に乗せる。歩くんが持つと、宮島さんはもう一つパジャマに描かれている別のキャラクターのぬいぐるみを膝の上にそっと乗せた。
通りがかった佐々木先生がにっこり笑って、歩くんの頭を撫で、宮島さんの肩にポンっと軽く触れて、私と集団で遊んでいる子どもたちの和の中に入る。
佐々木先生はときおり宮島さんを見つめて眩しそうに微笑んだ。
私や宮島さん、浅尾先生のように想いを隠さずに、真実だからと当然のように恋心をオープンにしている佐々木先生が羨ましい。
佐々木先生と私で子どもたちの相手をしているはずなのに、子どもたちは佐々木先生に話しかける。子どもたちは以前から佐々木先生と仲良しだから、彼に話しかける。
私はそう思い込むことにした。そうしないと涙が溢れそうだった。
佐々木先生も浅尾先生に遅れて小児科クリニックを開業することになっている。
佐々木先生は宮島さんを引き抜くと誰もが思っていて、それは職場の休憩時にいつも雑談の話題だった。
そんなある日、いつも穏やかな佐々木先生が、宮島さんを切なく見つめるようになっていることに気づいた。
宮島さんが佐々木先生の誘いを断ったから、とそっと噂は流れていった。
佐々木先生は小児科の子どもたちにもスタッフにもとても優しくて、彼を悪く言う人はいない。彼のクリニックで働きたい人は大勢いた。
宮島さんはどうして誘いを断ったのだろう?
誰もが首を捻っている中、私には予感があった。
宮島さんまで少し元気がないような気がする。
彼女も佐々木先生も患者さんの前では明るく振る舞っているけれど、廊下やナースステーションではこれまでよりもちょっとテンションが低いのだ。
宮島さん…佐々木先生に期待を持たせたくなくて一緒に働くのを断ったんじゃないの?
だって、宮島さんは浅尾先生への想いを秘めてるから。
そんな中で、浅尾先生のいない長野県で開業する佐々木先生の元で働きだしたら、佐々木先生はいつかきっと、って期待するかもしれないから。
そんな期待をさせたくなくて、佐々木先生を悲しませたくなくて、宮島さんは佐々木先生の誘いを断ったんじゃないの…?
そんな考えに至ったら、宮島さんのいじらしさに私は切なくなる。
きっと宮島さんはそう思ったことを佐々木先生に伝えず、何か別の理由をつけて断っているのだろう。
佐々木先生は鋭いから、宮島さんのそんな気持ちもきっと気づいてる。
皆んな、切ない。
私も、宮島さんも、浅尾先生も、佐々木先生も。
ただ恋したいだけなのに、真実を隠すようにしか恋ができないなんて。
だけど、隠した想いを手放そうとも思わない。隠した想いはそれぞれの優しさだから。きっとこの優しさが私を強くしてくれる。
今はそう信じることにする。
プレイルームで子どもたちと一緒に片付けをしていたら、私の持つおもちゃ箱へ歩くんが持っていたぬいぐるみを一人で片付けに来てくれた。
初めての歩くんからの急接近に驚きと嬉しさとで私は歩くんの頭をそっと優しく撫でる。くすぐったそうに歩くんがちいさな笑顔を見せる。
良かった。
私にも、小児科で役にたつことが少しあるみたい。
宮島さんはそばに来た歩くんと手を繋ぎながら、私を見て微笑んだ。
浅尾先生がプレイルームの前を颯爽と通り過ぎる。
その姿を憧れて見つめてしまう、私と宮島さん。
私と宮島さんの、共通の真実の想い。
颯爽と通り過ぎた浅尾先生も、また。
そっと、全てを覆い隠して。
隠された真実
7/14/2025, 9:37:30 AM