Mey

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「泡になりたいな」

私の隣でレモン酎ハイを傾けている同僚が吐息混じりに呟いた。
彼女のレモン酎ハイからはジョッキの下に沈んだレモンの種から微細な気泡が上昇していた。
確かこの気泡って閉じ込めてある炭酸ガスが刺激されて、炭酸ガスイコール二酸化炭素が発泡する現象だった気がする。

シュワシュワと細かな気泡は見てる分には飽きないような気がする?どうだろ?

「二酸化炭素になりたいってこと?」


彼女、宮島さんは私と同期の看護師。

私たちは既婚者である外科医の浅尾先生に不毛な恋をしている。って、宮島さんは私が浅尾先生を好きなことを知らないけれど。

「じゃなくて、酸素の方。水が温まると溶けてた酸素が気泡になるでしょ?私も人を温めて、酸素の泡として人の役に立てたらいいなあって」
頬を紅潮させて力なくへにゃりと笑う顔は同性から見ても可愛い。

「好きな人の役に立ちたいんだ?」

私は自分のシャンパンを一口飲んでクスッと笑った。
彼、浅尾先生は既婚者なのに、宮島さんに秘めた恋をしている。
二人は実際は両想いで、浅尾先生は宮島さんの好意を知っていて、宮島さんは浅尾先生の恋を知らない。浅尾先生も教えるつもりはない、はず。

「うん」と恥じらいつつ頷いた宮島さんは、両頬を両手でパタパタと扇ぎながら「あつーい」と笑っている。


「でも、酸素で良かった」
「ん?」
「人魚姫みたいになりたいって言われたらどうしようかと思った」

ポツリと呟いた声は、自分が思った以上に寂しげでドキッとした。

王子様に失恋して、王子様を刺して人魚に戻らずに海の泡として消えてしまった人魚姫。
初めて読んだのは、小学校の教室の後ろに並べられた絵本だった。
悲しい物語はずっと心に残り、中学生になって、人魚姫の結末が自己犠牲の愛のカタチだと知った。

「…私、片想いしてるけど、今でじゅうぶん幸せだから」

でも、あなたはもっと浅尾先生の役に立ちたいと思っているんでしょう?
ちょっとだけ悔しいけれど、宮島さんは誰よりも浅尾先生のために一生懸命に看護師の仕事をしてる。でも、まだ、浅尾先生の役に立ちたいんだね。


「ふぅん。じゃあ私は酸化ヘモグロビンになろうかな」
「あっ、ズルい。古川さん!」
「ズルいって」

真剣に抗議の声を上げる宮島さんに笑ってしまう。

私は酸化ヘモグロビンになって、浅尾先生の全身の血液中を巡り巡って酸素を届けて、彼の身体を活性化させてあげよう。


「二人の会話、聴こえちゃった。面白い話をしてるね」
「佐々木先生、お疲れさまです。救急の患者さん、大丈夫でした?」
「うん、単純性の熱性けいれんだったからね。様子見て帰宅させたよ」

小児科医の佐々木先生は穏やかに笑った。
飲み会始まってすぐに呼ばれてそろそろお開きになる時間だと言うのに、笑顔を絶やさない穏やかさは私も見習わなくちゃと思う。

「それで?なんで酸化ヘモグロビンの話?」

小児科の待機当番だからと烏龍茶を頼んだ佐々木先生は、さっそく私に水を向けた。
ほんとは宮島さんと話したいですよね、なんて思ってしまう。
さりげなく宮島さんの前に座ってるし、佐々木先生は宮島さんのことを好きなことを視線や態度に隠してないし隠そうとも思っていないのは明白だから。


酸化ヘモグロビンの話に至った経緯を話すと、僕は、と私のシャンパングラスを指差した。

「シャンパンですか?」

宮島さんが尋ねる。「綺麗だからかなあ」なんて酔っている宮島さんは普段の聡明さはどこへやら、子どもみたいな感想を漏らした。

「正確にはシャンパンの泡。
シャンパンの泡ってね、『天使の拍手』『幸せが湧き上がる』なんて言われていてね、二人の幸せが永遠に続くことを意味してるんだよ」

シャンパンを注いでもらったときの、気泡が弾けて小さな音を立てながらたくさんの泡が立ち上っていたことを思い出す。

「あ、だから結婚式の乾杯はシャンパンなんだ」
「うん、古川さん、その通り」

佐々木先生が私に笑いかけて、私も笑う。

シャンパンの泡になりたい、だなんて、佐々木先生は随分とロマンチストだなあと思う。
肝心の宮島さんには佐々木先生の好意は届いていなさそうだけど、でも、佐々木先生は穏やかに微笑んで楽しそうだ。

『天使の拍手』『幸せが湧き上がる』
シャンパンの泡の意味、素敵だなあ。

それを知ってる佐々木先生が、さりげなく私たちに教えてくれるって、素敵なこと。
こんなふうに佐々木先生はいつも患児や家族、私たちスタッフにも優しく寄り添ってくれる。

佐々木先生に愛される人---宮島さんが佐々木先生の手を取ったなら、宮島さんは絶対に幸せになれるはずなのに。

現実の宮島さんは離れた席にいる浅尾先生の後ろ姿を眺めていて、佐々木先生は宮島さんの視線をたどって一瞬だけ唇を噛んだ。

私と目が合った佐々木先生が、あ、と小さく声を漏らして額に手を当てた後、肩をすくめた。
「妬いたの、バレちゃった?」
「はい」

私にコッソリ問いかけ、私は肯定する。
宮島さんには内緒にね、という意味で佐々木先生は自分の口元に人差し指を立てて悪戯っぽく笑った。

そこには浅尾先生の嫉妬を綺麗に消し去った佐々木先生がいる。


「佐々木先生、お疲れさまです!救急の子、大丈夫でした?」
「あ、うん。熱性けいれんだったんだけど---」

佐々木先生が外科の看護師に囲まれて、私たちと一緒に飲もうと外科ナースの集団へ連れて行かれる。
佐々木先生が宮島さんを好きだとこの飲み会で認めさせちゃおう!と宮島さん不在の昼休憩で盛り上がっていた集団だ。

小児科ナースは宮島さんと一緒に飲みたいと連れて行く。

小児科ナースたちは佐々木先生を慕っている。
佐々木先生が宮島さんへの好意を隠していないことと、宮島さんは素直な頑張り屋だから、彼女への信頼はとても厚い。
宮島さんの浅尾先生への想いは知られていないだろうから、佐々木先生の恋を皆んなで応援しちゃうのだろう。


「泡になりたい」「片想いしてるけど、今でじゅうぶん幸せだから」
宮島さんの呟きは私の耳に残ってる。

佐々木先生の恋を応援するが故に、彼女の秘めた恋を暴かないでほしい。宮島さん今、それで幸せだから。
そう願うのは、私の恋も暴かないでいてほしいと思うからか。


目の前のシャンパンは琥珀色に輝きを放っている。
誰しもきっとシャンパンの泡のような恋がしたくて、でも、それはひと握りで。




「泡になりたい」

8/5/2025, 8:19:35 PM