週末の夕暮れ、緑地公園でのランニングを終えて俺は池のほとりを歩きながら汗が引くのを待っていた。
美しい夕焼け空が大きな池の水面に映り込んでいる。
汗が引いたあとで立ち寄る池のほとりにあるコンテナのカフェのスペシャリティコーヒーは、初めて立ち寄った日から俺のお気に入り。
「早坂先生、こんにちは。いつものですか?」
「ああ、頼む」
一段高くなったコンテナの中で明るく尋ねるバイト中の米田を見上げる。
少し微笑みながらカップにゆっくりとコーヒーを注いでくれる米田は表情も手つきも丁寧で優しい。
コーヒーの芳ばしい香りがたちのぼり、鼻から息を吸い込む。どこからかひぐらしの鳴き声がする夏の夕暮れ。
大学生の彼女はカフェエプロンを身につけ、長い髪を後ろでひとつにまとめている。髪の毛先や顔の輪郭が夕陽に縁取られ、金色に光って見えて俺はしばし見惚れた。
米田が本郷中学校1年生のときに、俺が体育教師として選抜長距離継走部で指導に関わった元教え子だ。
翌年、俺は西部中学校へ転勤となった。それで彼女との関わりは途絶えたかに思えたがそうではなくて、曇天のち霧雨が降った翌年の大会で彼女と再会した。米田は駅伝の選手として走ったが後半、明らかにバテていた。それは彼女が捻挫して走り込みが足りなかったからだが、俺は1年時の米田と同様、2年生になってもやる気のない練習態度のせいだと誤解して、霧雨降る中叱責し、彼女や彼女の親友を悲しませた。
それは今も雨の匂いと共に苦い思い出ではあるが、同時に教師としても人としても俺を成長させてくれた出来事だった。
苦い想いを払拭したのは米田本人であり、米田の親友で同じ長距離継走部の鈴木だった。そして俺に謝罪の機会を与えて成長させてくれたのは憧れの神谷先生だった。
「はい、いつものです」
「ありがとう」
微笑んでホットコーヒーのカップを差し出されて受け取るとき、互いの指先が軽く触れ合った。鼓動がとくんと鳴る。指先が触れ合っただけで。
今までこんなことなかったのに。
笑顔で「いつもの」と言われてニヤケそうになるほど嬉しいなんて。
軽く咳払いをすると、「どうかしました?」と問いかけられる。
どうもしない、どうとも思わせないでくれ。
支払い後米田から離れてテラス席へ座る。
なんで今日はこんなに米田が眩しく想えるんだ?
週末、時間を作っては緑地公園で走り、脈拍が速いままカフェに来て米田と喋るからだな。米田としか喋らないから。
客は俺しか居ない。
いつものように米田はコンテナから降りて、テラス席へ座る俺の前に座った。
「早坂先生」
「ん?」
心の内を知られないように軽く返事をする。
元教え子にときめいたなんて知られてたまるか。
「私、来月ここを辞めるんです」
「えっ!?」
「熱っ」
勢いよく立ち上がったせいで倒れかけたコーヒーカップ。米田が咄嗟に手を伸ばしてくれて倒れずに済んだけれど、米田の白い指先に淹れたてのコーヒーの雫が飛んで、指先が赤くなった。
「ごめんっ」
「大丈夫」
「じゃないだろっ、冷やさないと!」
テラスの端にある水道へ手首を引っ張って強引に連れて行き、蛇口を捻り、彼女の手へ流水をかけ続ける。
「悪い、熱かったよな。ごめんな」
「いえ、私も突然伝えて驚かせちゃったから、」
「そんなの、米田が謝ることじゃないだろ」
米田を責めていると思われないように、囁くように伝えていく。
米田の性格は明るく活発に見えるけど、実際はわざと明るく冗談めかせて振る舞ったりする、本当は繊細なヤツだから。
コーヒーを丁寧に淹れてくれる細やかな穏やかさが、米田本来の姿だから。
ああ、だから俺の鼓動が動いたのか。
「あの、もう大丈夫です」
米田の声が震え、顔が赤い。
気づいたら、俺は米田にものすごく接近していた。
彼女の手の平を支えて指先に流水を当てながら、ジッと指先を見つめていて気づかなかった。
「悪い、」
急いで米田の手を離し、一歩後ろへ下がる。
米田の赤面に釣られるように、俺の頬も赤くなる。
しっかりしろ、元教え子にときめくな。
「バイト、辞めるんだ?」
「はい。大学が忙しくて。バイト、楽しくて辞めたくなかったんですけど、なかなか難しくて」
「そうか」
寂しそうな微笑みに、手を伸ばして慰めたくなるのを踏みとどまる。俺は教師で米田は元教え子。彼氏でもないのに、簡単に触れて良い訳がない。
「寂しくなるな。米田がいないと」
赤い夕焼けが眩しくて目を細める。
夕焼けが色濃くなり、池がさらに赤く染まる。
「米田が淹れてくれるコーヒーは格別だったよ」
鼓動が熱い。
こんなの知りたくなかった。
元教え子に恋する俺なんて知りたくなかった。
教師と元生徒のままでいたかったのに。
「早坂先生」
「ん?」
「ありがとうございました」
「なに?」
お辞儀した後で微笑まれて、それが夕陽に照らされて眩しくて、俺はどんな顔をすれば良いんだろう?
「先生とお喋りしてる時間、楽しかったです」
「ああ」
「だから、ありがとうございました」
照れ笑いに「俺も、楽しかったよ。ありがとうな」と微笑んだ後、俺は靴紐を結び直すフリをして屈んだ。
動悸が騒がしい。何か言ってはいけない言葉、伸ばしていけない手を差し出してしまいそうな衝動を逃すために。
キュッと紐を締め直して呼吸をひとつ。
「米田」
「はい?」
「何か困ったことがあったら、西部中学の俺宛てに連絡しろよな。話を聞くことくらいはできるから。
米田は一人じゃない。家族も、鈴木もチカラになってくれる。俺や神谷先生ももちろん、家族、友人、恩師。皆んな仲間だ。米田のチカラになるから仲間をちゃんと頼れ」
見上げて瞳を見る。真っ直ぐに見返されてドギマギするほど黒目がちの瞳は澄んで綺麗だ。
米田は今日初めて、声をたてて笑った。
「早坂先生、あれみたい。卒業式で校長先生が話す言葉」
「式辞?まぁそうか。あれも旅立ちへのエールだからな。俺も、米田を応援してるからな」
明るく笑われてホッとしつつも胸は高鳴っている。
さっきからうるさい心臓。眩しすぎる笑顔の前では、多分この高鳴る鼓動は熱いまま鳴り止まない。
俺は、ちゃんと演技できているだろうか。教育者としての演技を。
「ありがとうございます!」
「おう、じゃあな。頑張れよ!」
「はいっ」
とっておきのエールにバカでかい返事をした米田は颯爽とコンテナへ戻っていく。
長い髪が夕陽を受けて煌めきながら軽やかに揺れる。
米田、頑張れよ。
俺は夕陽に照らされて茜色に反射している池のほとりを緑地公園の出口へ向かって走り始めた。
夕陽が背中を押すように熱い鼓動が鳴り止まない。
掴んだ細い手首が、冷たくなってくれた指先の感触が手の内に残ってる。
池のほとりの夕陽は眩しく煌めいて、それはまるで米田の笑顔を縁取った金色のようで。
眩しくて、熱い鼓動
8/1/2025, 8:12:48 AM