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パラレルワールドで、時計の針が重なって



私は飛行機の窓から、南米の赤い台地を見下ろした。日本を出発し、乗り継ぎを合わせて30時間もの長時間のフライト。やっぱり日本からすごく遠い国だと身をもって実感した。だって地球儀を半回転、おまけに南半球のこの国は、日本から時差13時間で季節も真反対なんだから。
彼は日本人エンジニアとして、この国で働いてもうすぐ1年になる。スペイン語が早口で聴き取れないと嘆いていた彼。だけどわからないままでは仕事に支障をきたすから何度も聞き直して、兎に角辞書を引いていると教えてくれた。
海外で一人きりなんて、私には考えられない。頑張り屋の彼を応援し、もうバッチリだと電話口で彼が笑ったとき、自分のことのように喜んだ。
早く笑顔の彼に逢いたいとずっと思ってた。やっと逢える。私は機内で案内された現地の時刻に時計の針を合わせた。


空港で再会した彼は日焼けし、精悍な顔つきをしていた。やっと逢えた、私たちは嬉しさを噛み締めながら腰に手を回して寄り添った。
空港のバスに乗り、2人きりの観光の始まり。
日本人は私たちだけ。都会的なビル群の景色はすぐに途絶え、荒々しい砂漠地帯の直線道路をバスが突き進む。
旅先であるチリの北部地方は、彼の案内のおかげで南米の自然を満喫できた。アタカマ砂漠の大地を歩き、空に噴き上がるような間欠泉に魅了され、広大なアタカマ塩湖のフラミンゴの大群を望むことができた。地上の光がない高地にあるアタカマ砂漠では、夜空は星の一粒一粒が近く、大きく、星々に彩られていた。
モーテルで彼と1年ぶりに繋がる熱に浮かされて、幸せだよね、と笑いあった。逢いに来てくれてありがとう、と彼は私にキスをたくさんくれた。

2人きりの旅行を終えて、彼はチリ人の友人を紹介したいと私を友人宅へ連れて行った。
仕事仲間から友人となり、今では家族の一員かのように仲良くしてもらっていると言う。
彼らは私のことも歓迎してくれ、市場で仕入れた南国のフルーツや、丸鶏のチキンロースト、この日のために作ったとお手製のケーキをご馳走してくれた。
「グラシアス」カタコトのスペイン語でお礼を言ってそれらをいただく。美味しい。「リコ」と旅行中に覚えた美味しいを伝えると、チリ人の奥さんは笑ってくれた。拙いスペイン語が通じたこと、ほんの僅かでも交流ができて嬉しい。
ほっとしたのも束の間、大きな声のスペイン語が飛び交う会話の中で、私はただ微笑んでいることしかできなかった。時々、私に気を遣って、彼らは彼氏を通訳として私に質問してくれた。一言、二言返事をするのに精一杯の私に彼らの興味が薄れていくのを感じた。
彼はスペイン語で冗談を言ったようで、彼の言葉を受けて爆笑が生まれる。私にはそのジョークが何のことかわからない。その彼の姿は、まるで別世界の人のようだった。私はその世界に入れずに、ただ、微笑みを顔に張り付けていた。
時差13時間分の距離が、彼と私の間に横たわっているようだった。

友人宅を出て、彼が住むアパートに戻る。
彼は笑顔で「楽しかった?」と尋ね、私は微笑んで「楽しかった」と答える。奥さんが笑ってくれたり、楽しかったこともあったから。
楽しくなかった事柄にはそっと蓋をする。ここは、パラレルワールド。私の言葉が通じない異世界。彼はパラレルワールドの住人。


南米チリと彼に別れを告げて、日本への帰国便の機内で、時差の13時間、時計の針を進めた。
窓の外は暗く、機内も消灯され静まり返っていた。
南米の地で陽気な人たちに囲まれて、流暢にスペイン語を話し、陽気に笑っていた彼を思い出す。
あの場で笑顔を張り付けていた私。私がもしもスペイン語を話せるようになったとして、彼のようにあの場に馴染めなかったと思う。
この機内の静けさのように、ただ静かに時が過ぎるのを待っている日本人の私。対して彼は、まるでラテンのリズムで踊るように南米の明るさに溶け込んでいた。
静けさと明るさ。並行世界のような2人。
時差13時間は、時計の針がピッタリと重なることはない。腕時計の文字盤の白さが反射して、細い針が涙でぼやけて見えなくなった。


帰国して、静まり返った住宅街にあるワンルームの窓から夜空を見上げる。星は遠く小さく、微かな光で、あのチリのアタカマ砂漠を旅した星空の夜とは何もかもが違う。
深夜、寂しさに耐えかねて、国際電話をかけた。
南米は今、週末の正午。電話口に出た彼の向こうで、スペイン語で会話する賑やかな声とそれに続く笑い声が聴こえた。
「今、バーベキューしてるんだ。うるさいだろ?」と彼は楽しそうに笑った。
私の部屋で、秒針が控えめに時を刻んでいる。チリとの時差13時間の時計が。
涙が迫り上がる前に、寂しい、と口にしかけた時だった。
「寂しいなんて言うなよ。俺も寂しくなるじゃん」
そんなこと言われたら、何も言えなくなるよ。「寂しい」って私も彼も言い合うことができたら、時計の針が重なるのに。それが今、この瞬間だけでも。
相変わらず、賑やかな声が聞こえる。彼が叫んだ。「ウン、モメント」スペイン語で「ちょっと待って」。チリにいる間に覚えた言葉。
彼はバーベキューに戻りたがっている。私の瞳から頬へ涙がこぼれ落ちた。
「そっち、夜中だから早く寝ろよ。じゃあ、またな」
『うん、またね』といつもの言葉を口にする気にはなれなかった。
きっと何度電話しても、私は彼と時差13時間の距離を感じてしまう。ラテンミュージックが流れ、スペイン語で笑い合う彼に、この細い秒針が聴こえるほど静かな場所に戻ってもらいたいと言う権利はない気がする。
私は何も言わずに電話を切った。

涙が後からあとから流れ落ちる。
彼がプレゼントしてくれたテーブルの上のアイボリーの置時計。その秒針は、13時間の時差を保ったまま静かに時を刻む。
私たちの時計はずっと重ねさせないままに。




パラレルワールドで、時計の針が重なって

9/25/2025, 4:47:32 PM