透明のビニール傘に水滴が次々と流れ落ちていく。
夕焼けに灯る街灯が新緑の街路樹を照らし、霧雨に濡れたアスファルトを輝かせている。
晴天の昼間は暑いが、陽が陰ると気温が下がる。初夏の湿った風が頬を撫でると肌寒いが、神谷先生との約束の居酒屋に向かう。
神谷先生と呑むのは久しぶりだ。あの人は何杯飲んでも顔が少し赤くなる程度。お互い中学校の体育教師として意見を酌み交わすこともあれば、後輩の俺が話を聞いてもらってアドバイスをもらうこともあった。
ふと、雨が止んでいるのに気づき、傘を閉じた。
雨上がりの空は明るく、鮮やかな虹が掛かっている。
綺麗な虹に、思わずスマホで虹の写真を撮ってから我に返る。
「誰に見せるわけでもないのにな」と苦笑いした。
この虹を見せたい米田ひかるは、きっと今頃、「綺麗だね」と、キラキラした笑顔で彼氏と手を繋いで見上げている。
それが俺が望んだ元教え子の米田の幸せだもんな。
フッと息を吐き、居酒屋の店先で神谷先生を待った。
神谷先生が居酒屋に到着し、1杯目、2人ともビールを頼み乾杯する。お通しはもつ煮込み。濃い味付けはビールが進みそうだ。
「早坂先生、さっきの虹見た?俺、思わず写真撮ったよ」
「見ました。綺麗でしたね」
頼んだ焼き鳥、刺身、焼き魚などがテーブルに並び出す。
神谷先生が予約してくれたこの店は、商店街から1本入ったところで、俺は存在も知らなかった。
「良い店ですね。どれ食べても美味しいです」
「だろ?この店、知り合いに合わなくて気軽に来られるんだよ。婚約者の彩花と」
「えっ!?神谷先生結婚されるんですか!?彩花って…まさか、鈴木!?」
神谷先生がさらりと口に出した名前を反芻する。
彩花って、俺の知る彩花は鈴木彩花しか知らない。
神谷先生を凝視する俺に、先生は面白そうに笑った。
「そう、鈴木彩花。早坂先生に教育実習生時代に世話になってるよな。米田ひかる、米ちゃんと親友の鈴ちゃん」
神谷先生が、中学のときの教え子と結婚…!
驚き過ぎて口をあんぐりと開けたままの俺を肴にしてるのか、神谷先生は焼き鳥串を横にして齧りながら引き抜いた。
……米ちゃん、鈴ちゃん。
懐かしい呼び名だ。彼女たちは中学時代から互いにそう呼び合っていた。
俺は鈴木彩花が大学生のときの教育実習で指導教諭として関わり、その後、米田ひかると再会し、淡く恋をした__
今思い返せばあの恋は、カフェのアルバイトをしている女子大生と、週末、ランニング後に訪れる歳の離れた常連客が互いに惹かれ合ったよくある恋だったのかもしれない。
だけど俺は、それ以上に米田が俺の元生徒だったことが気がかりだった。
元教え子に抱く感情じゃない、米田の将来への視野を狭めたくない__
緑地公園のカフェのテラス席の暑い夏の夕暮れ。
告白してくれた米田に未来の約束をした。
「元教え子と今はどうこうなる気はない。だけど米田が色々と経験を積んで、気持ちが変わらなかったら、元教え子の枠を取り払って向き合うよ」
今にも涙がこぼれ落ちそうな米田の頭にタオルを被せた。米田は俺の気持ちを理解してくれた。
「気持ち、持って帰ります」と涙に濡れた瞳で明るく言い切ってくれて、俺は米田の芯の強さ、明るさに救われた。
数年後、緑地公園の緑が秋色に変わりつつある季節。
社会人となった米田に偶然再会し、思い出のカフェで米田本人からその後を聞いた。
「先生の気持ちを大切に持っていました。だけど…大学で知り合った人と交際しています」と。
また涙ぐんだ米田にあの夏のようにタオルを頭から被せる。米田は小刻みに震えて、俺との約束を気にしてくれているのがわかった。今、幸せなら、幸せだと笑っていれば良いのに、馬鹿だな。
「人は成長する。だから永遠は難しいんだ」
米田の優しい心が包み込めれば良いと、諭すようにタオル越しに小さな頭にポンポンと軽く触れる。
……あのとき、タオルを米田に被せて弱さを隠したかったのは、俺の方かもしれない。
胸に刺さった傷は思ったよりずっと深かった。
米田の告白を「色々経験を積んで」と断ったのは俺なのに、その結果が今であり、米田の成長だとわかっているのに。
「米田、元気で」
落ち葉は風に吹かれて足元でカサカサと乾いた音を立てていた。
神谷先生は…元教え子の鈴木と恋愛をしている。
元教え子の手を放した俺と、その手を掴んだ神谷先生。
神谷先生は教え子と結婚を決め、こうして楽しそうに笑っている。
あまり減っていない俺のグラス。ビールジョッキの結露が琥珀色を拡散させる。それはまるで、虹のない夕焼けのようだ。
ふと、居酒屋内で団体客から歓声が上がり、拍手と指笛が鳴り、「おめでとう!」と叫びが響き渡る。
「元気だなー」
神谷先生は声のする方を眺めて、上機嫌でビールのジョッキを空ける。
「神谷先生」
「ん?」
「先生は…元教え子との恋愛に、葛藤はありませんでしたか?」
尋ねずにはいられなかった。
人の何倍も生徒想いで生徒に慕われている神谷先生だからこそ。尊敬し、憧れている、いつか追いつきたい教師像だからこそ。
「彩花ってさ…、真面目なんだよ、すごく。俺は中学3年のときに担任だったからよく知っているけど、宿題の提出、ノートまとめ、予習復習、キッチリやっててさ。模範的な生徒だった」
「ええ、なんとなくわかります。教育実習のときも、質問の多い生徒に初日に答えきれなかったところをカバーする以上に準備してきて、授業が進まなくなるほどでした」
「彩花らしい。あいつ、負けず嫌いだし」
神谷先生は楽しそうに…嬉しそうに顔を輝かせた。
本当に好きなんだな…と俺まで幸せな気持ちになる。
「教師になってもその姿勢は全然変わってなくて、そんな彩花を尊敬してた。このままでいて欲しい気持ちと、その真面目さが中学校の頃の彩花を思い出させた。
1年目は特に、彩花は俺を頼りにしてくれた。アドバイスすると笑顔で感謝されて、いつしか積極的に実践できるようになった。新卒の教員という枠を超えて可愛いなと思い始めたのもその頃だったと思う。けど、俺はそれ以上、自分の気持ちを見つめなかった。彩花の中学時代を思い出す俺も、同時に存在していたから」
呟かれた言葉には心当たりがある。
俺も、米田のバイト先でコーヒーを飲みながら、彼女と話をして楽しいと思っていた。それ以上の気持ちを、見つめようとしなかった。
「彩花と2人で、徒歩で学用品を買いに行ったとき、自転車に突っ込まれそうになって、思わず彩花の名前を呼んで彼女を庇ったんだ。そしたら、彩花が、俺に名前を呼んでくれたって感激して。それ見て年甲斐もなく動悸が激しくなってさ」
「神谷先生が恋を認めた瞬間ですか?」
「ああ。それで小っちゃい小っちゃい声で告白してくれた。普段はさ、陸上部員にどデカい声でアドバイスや声援送ってる奴が、告白のときは緊張して、目の前のおれに聴こえるか聴こえないかのボリュームでさ。それ聞いたら、もう自分が見ないようにブレーキかけてた気持ちとか何もかも取っ払われた。もう、目の前で赤い顔してる女が好きだって認めるしかなくなったよ」
神谷先生の瞳が優しく細められる。
覚悟を決めたその瞬間が、羨ましくなる。
「その後、なんで自分の気持ちを見つめなかったか考えたんだ。そしたら、俺の過去に行き着いた」
神谷先生が窓辺を見る。細かな水滴が照明に照らされて虹色ににじんでいた。
「大学生のとき、スイミングスクールでインストラクターのバイトをしてたときに関わった子だよ。
その子の将来を思って俺は彼女のことが好きだったのに、彼女の告白を受け取らなかった。彼女のためにそれで良いと思ったはずなのに、なんかずっと心に残った」
神谷先生の大学時代の恋と、今の俺がオーバーラップする。
「恋を認めた後の別れは後悔を残す。だったら恋と気づかなければ良い。そんなふうに彩花のことを無意識のうちに考えないようにしたのかってさ。結局、彩花に告白されて、そんなこと全部飛んでいくぐらい彩花のことを好きだって気づいた。こんなに俺のことを好きでいてくれる人を幸せにしてやりたくなって、一緒に走り出したけど」
神谷先生が、届いたビールジョッキを一気に煽る。
「…かっこいいですね。男として、覚悟を決めて、一緒に走って。ホントにカッコいいです」
瞳を伏せてビールを口にする。
やめろよ、って笑っていた先生はふと、真面目なトーンで俺を呼んだ。
「なぁ、早坂先生」
「はい」
「3〜4年前のちょうど今頃の時期だったと思う。早坂先生を緑地公園のコンテナのカフェで見かけたよ。…米田と一緒にいるところ」
「えっ」
「2人、夕暮れのテラス席のテーブルを挟んで笑い合っていてさ。良い雰囲気過ぎて、入っていけなかったよ」
「……」
「彩花から、米田のことを聞いたよ。早坂先生に、彼女は言ったんだってな。『忘れ物を持ち続けてたけど、心が変わった。今、交際している人がいる』って。早坂先生は、米田に言ったんだろ?『彼氏のことを大切に思い続けるのは、米田が成長した証だ』って」
米田の幸せを願った言葉。あの瞬間、それがベストだと思って伝えた言葉。
「教師として、早坂先生の行動は素晴らしいと思うよ。けどさ、教師も人間だから、自分も大切にしてあげたいよな。それができるのは、自分しかいないから」
ああ、そうか。
米田の将来のために、ということばかり優先して、自分の気持ちを抑えたから、今、こんなに未練が残っているんだ。
「米田の方が、俺よりも賢かったのかも」
「ん?」
「彼女は、俺への気持ちっていう忘れ物を持ってたけど心変わりしましたって、俺への気持ちを自分で明らかにしにきたから。そういうケジメが俺にも必要だったのかもしれません」
「そうかもなあ。生徒から学ぶことって、たくさんあるもんな」
「ええ」
「米田、早坂先生が好きになるだけあるな。あいつは繊細だけど、最後には強さを持ってるから」
「ですね」
乾杯、とグラスを鳴らしてビールを煽る。少し温めになってしまったが、今、この瞬間のビールが1番美味しい。
長い間の胸のつかえが取れたようだ。
「やっと明るい顔になった」
「そうですか?」
「ああ。前に進めるか?」
「はい。あっ、神谷先生、ご結婚おめでとうございます」
お祝いを言っていなかったことに今更ながら気づいて慌てて言った。ああ、大失態だ。尊敬する神谷先生の結婚を、すぐに祝わなかったなんて。
「やっとか!祝われてないかと思ったよ」
ニヤリと笑われて、そんなわけないですって!と焦る俺。慌てる俺を見て、ひとしきり俺を揶揄う。
幸せ、だからだろうか。今日の神谷先生はいつも以上に機嫌が良い。
「さて、早坂先生がお祝いを言ってくれたから、やっと頼める」
「なんですか?」
「俺たちの挙式、人前式でやるんだ。婚姻届の証人を、早坂先生にお願いしたい」
「俺にですか…?いえ、もちろん、俺なんかで良ければ喜んでやらせてもらいます」
「ありがとう。早坂先生は、俺にとっても最高の仲間だからな」
「嬉しいっすね。ありがとうございます」
「でさ、彩花が頼む証人だけど」
神谷先生がいったん言葉を区切り、俺を静かな瞳で見つめた。
「米田ですね」
「ああ。大丈夫か?」
少し心配そうな表情をされて、俺は明るく笑った。
「鈴木の親友と言えば、米田でしょう。米ちゃん鈴ちゃん。彼女たちはずっと同じ方向を向いて助け合って励まし合ってきた仲間ですから」
「…そうだな」
中学生長距離継走大会。米田が落とした順位を、次の走者の鈴木が挽回した。指導した神谷先生が驚くような速さで。
俺に鈴木の教育実習はどうだったかと尋ね、合格点を出すと自分のことのように喜んでいた米田も思い出す。
「米田、絶対に神谷先生と鈴木の結婚式、嬉しくて泣くと思います。俺、3枚目のタオルを渡すことになるかも」
神谷先生が爆笑する。
「米田、自分たちに傘を貸した俺が濡れたからって自分のタオルを貸してくれようとしたけど、早坂先生には2枚ももらったんだな」
「彼女、泣き虫だから。そういうところ、可愛いかったな」
「……早坂先生には心を開く場所が必要だったんだな」
ふと、神谷先生が優しく微笑んだ。
「早坂先生は、米田に虹の架け橋を渡したんだよ。米田が幸せになるために。自分の気持ちを抑えてさ。それをやり切るのは簡単じゃないけど、早坂先生は強い自我でやり切った。俺は早坂先生のそういうところ、尊敬できる」
「神谷先生…」
「でもさ、自分を幸せにすることも大切だからさ、俺は今度は早坂先生に虹が架かれば良いなと願ってる。夕方の虹みたいな、美しい虹がさ」
「はい。俺も、次は相手のことはもちろん、自分のことも大切にしようと思います」
「ああ。それで良い」
「おめでとー!三三七拍子ー!」
さっきと同じ団体なのか、三三七拍子が始まって、俺は神谷先生と目を合わせて笑う。
「俺たちの門出を祝福してくれてんじゃねーの?」
「偶然過ぎますって。でも」
俺が掲げたグラスに、神谷先生が飲みかけのグラスを軽く当てて本日3度目の「乾杯」をする。
泡のなくなった琥珀色のビール。
神谷先生と鈴木の結婚式は、きっと琥珀色のシャンパンで「乾杯」をするのだろう。
そこには米田のとびきりの笑顔があって、俺はどんな感情でその笑顔を見つめるのだろう。
米田と並んで婚姻届を目にして、署名するときは、どんな感情になるのだろう。
神谷先生と結婚式での再会を約束して、居酒屋をひとり後にする。
アスファルトは霧雨の名残を残して濡れ、街灯の光がその上に柔らかく反射している。
商店街のシャッターに描かれた大きな虹が、街灯に照らされて鮮やかに浮かび上がっていた。まるで、誰かがこの街に希望の架け橋をかけたかったかのように。
ポケットからスマホを取り出し、夕方の虹の写真を眺める。七色の光が、雨上がりの空に鮮やかに架かっていた。
また、米田の笑顔が頭をよぎる。俺が彼女に架けた虹は、彼女の幸せへと続く橋だった。
ふと、足を止める。シャッターの虹の前に、小さな花屋の看板が目に入った。色とりどりの花に囲まれたその看板には、こんな言葉が書かれている。
「雨上がり、花咲く虹の架け橋へ。光を胸に未来へ歩みませんか?」
胸が熱くなる。米田に架けた虹は、彼女の未来を照らし、花のように咲いた。鈴木彩花もまた、神谷先生と新たな架け橋を築いている。
俺の目の前に広がるこの街の光も、誰かが俺のために架けてくれた虹なのかもしれない。
「ありがとう、米田。ありがとう、鈴木。俺も、ちゃんと前に進むよ。」
満月の光の下、俺は一歩を踏み出す。米田や鈴木のような、しなやかで強い花が、俺の心にも咲く日が来るはずだ。
次に虹を見るときは、誰かと一緒にその光を分かち合える自分でいたい。そう心に誓いながら、初夏の夜の街を歩き出した。
虹の架け橋
9/22/2025, 9:41:12 AM