Mey

Open App

自宅から自家用車で数分。
この広い緑地公園は、俺が中学生の頃から走り続けた思い出のたくさん詰まった公園だ。
中学校教師になって12年目。
中学の頃、毎日走った陸上部の頃のようにはいかなくなったが、今も週末の夕方、俺は緑地公園で季節の風を受けてランニングを続けている。
走りながら思い出すのは、元教え子、米田のこと――


米田ひかる。
彼女との出会いは彼女が中学校1年生のとき。俺は教師2年目、23歳だった。
長距離走の選手として選抜された米田は、友人の鈴木と共に無駄話をしながら練習に参加し、俺は毎日のように注意していた。彼女たちにとって、あの頃の俺はきっと口うるさい大人だっただろう。

翌年、俺は同じ市内の別の中学校へ転勤した。
それで彼女たちとの交流は途絶えたと思われたが、秋の長距離継走大会で再会した。
米田は選手として走ったが、後半は明らかにバテていて順位を落とし、次のランナーの鈴木に襷を渡した。
相変わらずやる気がなかったんだな。
昨年の彼女の練習態度を思い出して、ポテンシャルを発揮しようとしない米田に苦い想いが込み上げた。
その気持ちのまま、競技終了後の表彰式の前で米田に伝える。
「練習不足だな」
もっと頑張れ、そんな意味を込めて肩をポンッと叩き、米田を置いて競技場へ戻る。
その後、米田や鈴木を引率していた長距離継走部の神谷先生と話していて、米田が大会前に捻挫をして練習が満足にできなかったことを知った。捻挫の前は相当速いタイムだったことも。
大会後、霧雨の降る競技場で、観覧席で鈴木に肩を抱かれて座る米田に気づく。二人はぼんやりとトラックを眺めていた。
神谷先生の計らいで米田と鈴木に謝罪する機会を与えられ、誠心誠意謝ると、彼女は笑って言った。
「もう怪我をしないように、優しい体育教師にストレッチとか教えてもらいます」
瞳が赤い。泣いていたとわかるのに、米田は俺を責めずに笑っている。
その瞬間、米田は俺にとって特別な生徒になったんだと思う。


緑地公園を走りながら、米田を泣かせた日のことを思い出す。
いつか再会する日があれば、泣かせたことを謝りたい――

緑地公園のランニング中に霧雨に降られ、コンテナハウスの前にある屋根付きのテラス席へ飛び込む。
漂うコーヒーの香りに誘われてカウンターへ行くと、そこにはあの米田がいた。
大学生となり、ここでアルバイトしていると言う。
せっかくだからと彼女のオススメのスペシャリティコーヒーをブラックで貰うと、彼女は微笑んで丁寧にドリップしてくれた。
中学生のときとは異なる優しい表情は、確かに女子大生らしく成長していた。
テラス席で紙カップを受け取り、米田と向き合う。
俺は長距離継走大会で米田を泣かせたことを改めて謝った。
まだ気にしていたことに米田は驚き、悪戯っぽく教えてくれた。
あの涙は俺が言ったからじゃない、神谷先生が自分の懸命の走りを認めてくれたからだ、と。
神谷先生の優しさが米田を泣かせてるじゃん……頭を抱えた俺に、米田は本当に楽しそうに笑った。
「また来るよ」
約束して走り出し、俺は週末のランニングごとにコンテナのカフェでコーヒーを飲んだ。
いつしか「いつものですね」と米田が笑顔で淹れてくれるコーヒーが、俺の週末の楽しみになった。


米田ひかる__元生徒。だが、心が揺れなかったと言えば嘘になる。
紙カップを受け取るときに指先が触れ合ったとき。
米田がカフェを辞めると聞いたとき。
動揺して、倒れそうなカップを支えた米田の指先に淹れたてのコーヒーがかかって、水道水で冷やしていて至近距離に近づいたとき。
米田に好きだと告白されたとき。

「米田がいないと寂しくなるな」
「楽しかったよ」
本音がこぼれ落ちる。
だけど、米田は元教え子で、大学生で、これからの未来のために視野を広げてほしい。
「元生徒とどうこうなる気は今はないんだ。だけど、米田が色々と経験を積んでそれでも気持ちが変わらなかったら、そのときは元生徒という枠を取り払って向き合うよ」
涙を堪える米田に、俺が首から提げているタオルを頭から被せた。

米田を置いて、夕暮れの光を、風を、顔に受けて走る。
これで良い。これがベストだ。
まだ学生の彼女に対する元恩師として、これで良い――


週末の緑地公園をランニングする。
年々暑くなる夏の陽射しは影を潜め、秋風が肌に心地良さをもたらす。
もみじの緑が薄れ、足元には乾燥した落ち葉がカサカサと音を立てる。
ふと、前方で小型犬を散歩する女性に、ドクンと胸が大きく鳴る。
米田…?
女性が顔を上げて俺に気づく。やっぱり米田だった。
米田も気づき、俺は走るのをやめて歩き出す。

挨拶し合って、米田は「コーヒー飲みません?」と俺を誘った。
「先生、今もスペシャリティコーヒー飲んでます?」
「ああ。もうすっかり虜だ」
ふふッと笑い合って、テラス席で紙カップを受け取り、互いの近況を報告し合う。
NPOで子どもの教育に携わっていると聞き、嬉しくなる。教え子の鈴木も中学教師として頑張っているし、神谷先生の影響が大きいのだろう。
「早坂先生、今も陸上部の顧問ですか?」
「ああ。それが?」
「鈴ちゃんも陸上部の顧問で、神谷先生と陸上部の指導してるんだって」
「夏の大会で会ったぞ。なんか二人で楽しそうだった。…俺も混ざりたかった」
「そう言えば先生の憧れも神谷先生でしたね」
米田が笑う。俺も笑う。
二人の笑い声が重なり、秋のテラス席に鈴虫の声も重なる。

「私、いつか早坂先生に言おうと思っていたことがあるんです」
「なんだ? あらたまって」
米田は笑いを引っ込めて、真剣な表情で俺を見つめた。
米田はコーヒーを一口飲むと、深呼吸をする。
俺は彼女の言葉をちゃんと受け止めようと心を整えた。
あの夏の忘れ物__元教え子でなく、米田と向き合う約束が脳裏に過ぎる。

「早坂先生。私、あの夏の忘れ物を大切に持っていたんです。先生への気持ち」
「そうか」
覚悟をした言葉に、穏やかに頷く。
米田の真っ直ぐな瞳は、あの夏と同じだ。でも、どこか軽やかで、成長した彼女の強さを感じる。
「でも、」と彼女の声が少し掠れた。
「大学で同じゼミの人と知り合って…それで、その人と交際を始めました…」

その言葉に、胸がズキッと痛んだ。
米田に好きな人ができて、交際している。
頭では、彼女の成長だとわかる。
あの夏、「経験を積んで」と言ったのは俺だ。
彼女が新しい一歩を踏み出したのは、俺が望んだことのはずだ。
なのに、なぜか胸の奥が重い。思っていたよりも、ずっと深いところで心が軋む。
あの夏、彼女の告白を断ったのは正しかったはずなのに。
不意に彼女が誰かと手をつないで笑っている姿を想像してしまった。心が少し空っぽになる。
「そうか…」
言葉を絞り出すように言う。
米田の瞳が、ほんの少し潤んでいるように見えた。
その瞳を見た瞬間、自分の想いに囚われるべきじゃないと思い至る。
米田は大切な、特別な人だ。いや…生徒だ…。

「米田、俺、あの夏に言ったよな? 永遠は難しいって。人は成長する。だから永遠は難しいんだ」
彼女が小さく頷く。
テラス席を秋風が吹き抜ける。池のほとりは夕暮れに溶け、まるで俺の心のざわめきを映すようだ。
米田が連れた小型犬が米田の足に手をかけ、彼女が少し笑って犬を膝に乗せた。
米田は俯いて犬の頭を撫でる。
その優しい仕草を見ながら、俺は教師として、彼女の新しい一歩を祝福しようと決めた。

「米田は成長したんだよ。米田は今、彼氏への気持ちを大切に持ってるんだろ? それが色々な経験をするということだし、米田の成長に繋がる」
あのときのように、俺のタオルを彼女の頭に被せてやると、米田はグズッと鼻を鳴らした。
「全く、2枚も俺のタオルを持って行くのは米田だけだ」
「すみません、前のタオルも返してないのに」
「いらんいらん」
俺が笑うと、彼女も瞳に涙を湛えたまま笑う。キラキラひかる潤んだ瞳の笑顔が、秋の陽射しみたいに柔らかく眩しかった。
「じゃ、俺はそろそろ行くから。元気で。頑張れよ」
「はい。ありがとうございました」
「ああ」


振り返らずにカフェを後にした俺は、緑地公園を走る。
秋風が頬を撫で、木々の葉がカサカサと音を立てる。
夕暮れの空に、ぼんやりと満月が浮かんでいる。
米田が新しい誰かと見上げた月も、こんな風に輝いていたのだろうか。
教師として、米田の幸せを心から願っている。
あの夏、彼女の告白を受け止めきれなかったのは、彼女の未来を狭めたくなかったからだ。
米田が大学生から社会人になって、自分の世界を広げていく。その姿を見守るのが、俺の役目だと思っていた。
でも、米田の「交際を始めた」という言葉が、胸に刺さって離れてくれない。
彼女が新しい誰かと笑い合い、満月の下で、誰かの手を握っている。
そんな自分が作り出したイメージが脳裏から離れない。
「ったく、俺もまだまだだな」
独り言が、秋風に溶ける。
教師として、元教え子の幸せを喜ぶべきなのに、どこかで自分が置き去りにされたような感覚がある。
彼女の告白を断ったのは俺なのに、彼女が前に進んだことをこんなにも強く感じているなんて。


帰宅してベランダから秋空を見上げる。
雲ひとつない夜空にぽっかりと浮かぶ満月は、暖かな光でベランダを明るく照らす。
米田が彼氏と見上げた月も、こんな風に輝いていたんだろう。
彼女の暖かな柔らかな微笑みと真っ直ぐな瞳を思い出す。
米田との時間は俺の週末の楽しみであり、癒される時間だった。
きっとその彼氏も米田とそんな時間を過ごしているのだろう。米田はそれができる女性になった。

「あの夏に忘れ物をしたのは、俺だったのかな」
独り言が、夜風に溶ける。
肌寒さは秋の風だから。
「秋色、か」
米田の新しい一歩を、遠くから見守ろう。
彼女の幸せが、俺の心にも秋の色を添えてくれる。




秋色

9/20/2025, 9:24:49 AM