Mey

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12/6/2024, 3:30:14 AM


眠れないほど、あの子のことが気になっている。
あの子は今、泣いていないだろうか。



『眠れないほど』 -終わらせないで&泣かないで 関連作品-



俺が外科医として勤務する外科病棟に今年も2名の新人看護師が配属された。
古川さんと、宮島さん。何をするにも始めから器用な古川さんと、不器用な宮島さん。ただ宮島さんなりに成長しようと、毎日もがいていた。そんな彼女も1年を過ぎる頃、同期の古川さんと遜色なく働けるようになり、いつしか古川さんを追い越していた。

ある日、久しぶりに宮島さんにドレーン挿入の介助に入ってもらった。前回の介助よりも処置がしやすい。患者の様子に気を配るだけでなく、俺が動きやすいように気を配って動いてくれる。彼女の看護に感嘆し、部屋の片付けを終えて廊下を歩く彼女を呼び止めた。「やりやすかったよ」頭をポンッと軽く叩く。感謝と労い。彼女の努力を認めたいだけだった。だけど、彼女の俯いて上から見える耳が紅く染まっているのを見て知った。宮島さんは俺に好意を持っている。その場を離れ、廊下を歩きながら俺は口元を押さえる。動悸がする。女の子から好意を持たれていることを知って自分が意識しだすなんて、10代でもあるまいし。だけど、宮島さんのことを思い出す自分がいる。宮島さんは、俺の介助に着くとき、いつだって患者の様子に気を配り、俺がやりやすいように介助してくれていた。献身的と言って良い。
いつしか彼女のことを目で追い、彼女のどんどん成長する看護を褒めて頭に触れる。看護師に医師が優しく触れる必要なんて全くない。だけど、愛しくて触れたくなるのを抑えきれなくて。笑みが溢れないように我慢する彼女が愛おしくて笑ってしまう日々。

俺は結婚している。
妻を幸せにすると本気で誓ったあの想いは今も続いている。それなのに。
俺は来年開業する自分のクリニックへ宮島さんを連れて行かないことに決めた。彼女から離れた方が良い。宮島さんは落ち込むだろうけれど、でも彼女は患者にも慕われて感謝されることが多い。きっと友人、仕事仲間や患者が彼女を癒してくれる。…代わりに古川さんを連れて行くことに決めた。

その頃、小児科病棟の改装工事に伴い、患児に外科病棟50床のうち25床が与えられた。外科ナースは外科看護と小児看護の掛け持ちとなり、2週間ごとのローテーションが組まれた。
宮島さんは、小児科に向いていた。患児が懐き、宮島さん本人も自然な笑顔が増えてイキイキしている。小児科スタッフや家族の信頼も獲得して、彼女はローテーションから抜けて小児科を担当することが多くなった。外科では一緒に働けなくなったけれど、同じ病棟、同じナースステーションのために彼女の姿は目にすることができる。
……小児科の佐々木先生が彼女に笑いかけて、小児看護に不慣れな宮島さんを優しくサポートする姿をよく目にした。佐々木先生は宮島さんが好きなのか。未婚で優しい佐々木先生は、俺よりもよっぽど宮島さんに似合う。
俺はますます彼女を自分のクリニックで働かせないことを決めた。佐々木先生も来年小児科を開業する。そこが宮島さんに相応しい場所だ。俺は、古川さんをクリニックに勧誘して良い返事をもらった。
後日、元気のない宮島さんを目にする。俺が宮島さんの看護の力量を認めていないと思ったからだろう。違う、と強く否定して自分の気持ちを告げたくなる。俺も好きなんだと言って聴かせたくなる。そんなことできないのに。

冬が終わる頃、小児科病棟の改装工事が終了して小児患者やスタッフは元の病棟へ戻り、外科の軽症患者や外科ナースとして応援に行っていたスタッフも戻ってきた。すっかり外科小児科混合病棟だった名残りは無くなった。
俺は3月でこの病院を退職する。宮島さんとの仕事も残りわずかだ。宮島さんは一時の元気のなさから回復して相変わらず俺がやりやすい処置の介助をしてくれていた。

想うのは、いつも宮島さんのことばかり。
気持ちを振り切るように医師が出払っている医局の自分の席で文献に目を凝らす。思いの外治療の効果が出た抗癌剤に、同じようなケースは過去になかったかと文字を辿っていく。
医局のドアが開き、佐々木先生が部屋に入ってきたのを見て、パソコン作業に戻る。正直、逢いたくない相手だ。宮島さんのみならず、誰にでもおおらかで優しく面倒見があって、彼を悪く言う人はいなかった。既婚者の俺が宮島さんを好きで職場で頭に触れてなお、俺の気持ちにも理解を示した男。
以前、彼女を自分のクリニックへ連れて行き、小児科ナースとして育てると宣言された。もう伝えたのだろうか。
「宮島さん、外科看護の経験を積んでいくそうですよ」
俺のいない病院へ残って外科を続ける?佐々木先生のところに行くかどうかはともかく、あんなに小児と毎日楽しそうに過ごしていたのに?不思議に思ったその先で、佐々木先生が俺の心の中の問いに答えを告げる。
「彼女は優しい人ですね。僕を傷つけない方法を選んだ。益々好きになってしまいました」
ああ、佐々木先生は彼女に告白して、彼女はその想いを受け取らなかったのだ。佐々木先生に期待させることも避けて…小児看護が向いていると自分でもわかっていただろうに。彼女の優しさを感じて、俺も益々好きになる。いつだって彼女は一生懸命で、献身的で、自分の気持ちに応えてほしいと欲張ることもせずに。
「わかりますよ、俺も同じですから」
何もかも投げ出して、好きだと伝えられたら良いのに。俺は佐々木先生から逃げ出すようにパソコンの電源を落として部屋を出た。

数日後、俺は宮島さんが日勤を終えるのをコーヒーを飲みながら休憩室で待っていた。日勤終わりの宮島さんにコーヒーを勧めて、しばらく雑談する。本当に言いたいのはそれではないのに。
飲んでいたコーヒーが空になり、ようやく本題に入る。
佐々木先生のクリニックの誘いを断ったことを宮島さん本人から確認して、俺は告げた。宮島さんは頑張れる人だということ、知り合いのいない土地で絶対に辛いことがある医療の仕事でも乗り越える力があること、それを俺が3年間も見てきたこと。
宮島さんが佐々木先生の誘いを断ったのは、引越しをしなきゃいけないからじゃない。絶対に辛いことが起きる看護を一人で続けられるか不安だからというのは、大きな理由じゃない。
本当は、自分のことが好きな人の元へ着いて行く、だからいずれ---そんな期待を宮島さんは彼女の優しさで持たせたくないからだと知っている。そこを避けて小児看護を勧めていく俺は、なんて臆病者なのだろう。

彼女は、俺との時間の終わりを感じ取った。終わらせたくないのは一緒だとその柔らかそうな白い手を取って告げられたらどんなに幸せだろう。
だけど。
「佐々木チルドレンクリニックを考えてみなよ」
外科よりも小児科が合っているかと問われて、それに答える。
宮島さんが外科で努力している姿を1番見てきた俺が。
「そうだね。子どもの接し方が上手だから」
彼女から「考えてみます」と返事をもらって、宮島さんだけが片想いだと思っていた、この幸せで切ない時間はもう終わりだよ、と暗に告げる。自分にも言い聞かせるように。
「何があっても佐々木先生が助けてくれるよ。宮島さんは、佐々木先生のお気に入りだから」
最後に宮島さんの頭に触れる。もう、こんなふうに俺が頭に触れることはない。少し冷たいサラッとした手触りの心地良い頭皮に。いつも笑みが溢れないように幸せそうに唇を閉じていた宮島さん。今日も俯いているけれど、その表情を確認できない。確認してしまって、涙を溜めていたら俺は、宮島さんをきっと強く抱きしめてしまう。俺がどんな顔をしているのか、自分でもわからない。

呼び出し音が鳴る。外科医として部屋を出て、急ぎ階段へ向かう。自分が泣きたくなっているのがわかったから。傷つけたのは俺で、俺が泣く資格なんてどこにもないのに。
咳払いをしてからコールバックをしてナースから情報をもらい、患者の様子を見に行く。看護師の言うとおり、ドレーンからの出血が多い。バイタルは今のところ安定している。バイタルの変化に注意してほしいことと、採血とレントゲンの指示を口頭で出してナースステーションに向かう。ナースステーションの奥にある休憩室には宮島さんの姿はなかった。今は、目の前の患者に集中するべきだ。俺は電子カルテにログインした。

患者の経過を見て大丈夫だろうと判断して帰宅したのは深夜だった。部屋の電気は既に消えて、キッチンカウンターには俺の夕食が皿に盛り付けられていた。妻には遅くなるから寝ているように伝えていたから眠っているのだろうか。俺は妻の料理を温めて食卓へ置く。
宮島さんは、泣いていないだろうか。食事は食べられたのだろうか。
彩よく盛り付けられた料理を見ても箸が進まない。先にシャワーを浴びることに決めて、また宮島さんを思い出す。彼女は自宅へ帰って…どんなふうに過ごしているのだろう。
今夜の俺は何をしても宮島さんを思い出して、泣いていないか心配している。彼女の心を支えてくれる人がいるのか、友人でも家族でも誰でも良い。
誰でもなんて……そんなはずはなかった。佐々木先生が彼女の哀しみに寄り添ってくれる。そう信じられたからこそ、俺は、この時間の終わりを告げられた。

自分で宮島さんとの時間に終止符を打って、佐々木先生との恋を応援するようなことを言って、彼女を傷つけて自分を守った。

そうして漸く気づく。

眠れないほど、彼女を愛していることに。





眠れないほど -終わらせないで 2024/11/28-29
         泣かないで 2024/12/01-02 関連作品-


12/4/2024, 2:19:40 PM

旦那の夢は『老後、夫婦水入らずでキャンピングカーで日本全国旅すること』
若い頃からその夢は一貫している。
「どこにそんなお金があるの」
冷たくあしらう。
中古車で購入しても、車好きな旦那はオプションを付けまくり、いつだってべらぼうに高い車になってしまうのだ。キャンピングカーだなんて、手が加えられる場所があっちにもこっちにも、で一体幾らになるのか検討もつかない。
「無理でしょ」
「リアリスト過ぎる」
旦那はむくれた。

「お母さんの夢はなに?」
と旦那が訊いた。
「夢…、子どもがキチンと独り立ちすることかなぁ」
「子どもじゃなくて、自分のこと!何かないの?」
「うーん。痩せて洋服が似合うようになりたい。部屋を綺麗に保ちたい」
「……まぁ頑張って」

旦那はパソコンでキャンピングカーの内装や設備をあれこれ比較し楽しそうにしている。
私はインスタに流れるダイエットの動画をソファに背を預けたまま保存する。
LINEのルームクリップの記事も良いなあと言いながらソファで眺める。


旦那の夢は今のところ金銭的な問題で現実になり得ない。
私の夢は今のところ私のやる気のなさで現実になり得ない。

私の夢よりも旦那の夢の方が非現実的なのに。
旦那は私の何倍も楽しそうにしてる。

…私の夢は取り繕った夢だから、旦那の夢には敵わない。想いの強さも長さも。



夢を持つこと自体が人を幸せにするのかもしれないなあ。

旦那が食い入るようにパソコンでキャンピングカーを調べているのを見て、ちょっと羨ましくなるのだ。



夢と現実

12/3/2024, 1:37:22 PM

さよならは言わないで



俺の母さんは癌患者だ。手術をして抗癌剤治療もして放射線治療もした。でも、転移してもう手の施しようがない状態になっている。
母さんはその全てを知って、余生を自宅で過ごす選択をした。

どんどん食べられなくなり、痩せていく母さん。
痛み止めはモルヒネを服用し、水分は点滴で補っている。食事はいつもごく少量しか食べられない。


「痛くない?」
「大丈夫。少し眠るから、あんたも休みな」
母さんは強い痛み止めのせいで眠る時間が多くなった。だけどその方が良い。ずっと起きてると辛そうだから。
「うん。ちょっと昼寝するわ」
俺は隣にある自分の部屋のベッドに寝転んだ。



俺と母さんは二人暮らし。
父さんもまた、昨年、癌で死んだ。
父さんが終末期に入ったとき、母さんの癌の治療がひと段落したところだった。

父さんが意識を手放す数時間前。
父さんは母さんに「さよなら」と言葉を残したけれど、母さんは首を横に振った。
「さよならじゃないよ。私は、父さんに会いに行くから」
「そうか。当分来るなよ」
「当たり前でしょ。何のために治療したと思ってるのよ」
母さんは父さんの浮腫んだ手に手を滑り込ませて、その手を力なんてないはずの父さんが握った。


『父さんに会いに行くから』
あの時の母さんに何か予兆があったのか、それともなかったのか。
俺にはわからない。
---3ヶ月後の検診で癌の再発が見つかって、また母さんは入院して治療を再開した。



目が覚めると2時間ほど経っていた。
母さんの様子が気になり、ベッドへ行く。
少し…様子がおかしいかもしれない。
呼吸が荒いような気がするし、指先の色に赤みがない。

「母さん?苦しい?」
「大丈夫…」
2時間前とは比較にならないほど弱々しい声音の大丈夫だ。大丈夫なんかじゃない。だけど。
俺は深呼吸をする。落ち着け。母さんを不安にさせるな。
「大丈夫なら良かった」
母さんは微笑んだ。
蒼白い顔。覚悟はしていたのに、油断すると涙が溢れそうになる。

「ごめんね」
母さんが呟いた。父さんだけでなく、母さんも俺を残して若くして逝ってしまうことだろうか。
「父さんと母さんの病気のせいで、あんたが結婚できなくなっちゃって」
確かに、ここ何年も仕事と介護に追われて、そのうち介護休暇を取って介護ばかりになって、彼女を作る余裕はなくなったけれど。
「…それは俺がモテないからでしょ。って言わすなよ」
母さんの目が笑った。声は出ない。母さんの明るい笑い声が好きだったのに、もう聴けなくなったと思うと涙が滲みかけて、俺は上を向いてなんとか堪える。
「俺のことは大丈夫だよ。これでもさ、昔は彼女いたし。また作るよ」
「うん…あんたは良い子だから…大丈夫だね…」
一息に喋られず、休みやすみ言葉を紡ぐようになった。
でも、一生懸命話してくれるから、俺は一生懸命聴く。聴き取りづらくても、母さんの最期の言葉を。

「さよならは言わないよ。母さんは、最愛の父さんのところに行くんだから。父さんによろしく言っておいて」
「わかった…言っておく…でも…私の…最愛は…あんたも…」
「俺もか」
ダメだった。俺の涙腺はぶっ壊れた。
母さんの瞳から頬にひとすじ涙が伝わった。
脱水気味の母さんは、涙さえ少ししか出せず、声を上げて泣くこともできなかった。
母さんの手を両手で包み込む。保冷剤のように冷たい酸素が通わない紫色の手。
母さんの意識は、母さんと呼ばないと保てない。
俺は覚悟ができていたはずなのに怖くなって、叫ぶように呼んだ。
「母さん!」
「さよならは……言わないでね……ありがとう……」
号泣して母さんと呼べなくなって、母さんは意識を手放した。


父さんが意識を手放したときのことを思い出す。
「耳は最期まで聴こえるから。話しかけてあげてくださいね」
看護師に言われたから、母さんは父さんにずっと話しかけていた。


ダメだ、俺。
話しかけようと思っても、泣けて泣けて話なんかできやしない。

ウェットティッシュで母さんの渇いて白くなった涙の跡を拭く。
父さんも俺も母さんの笑顔がちょっと可愛いと思ってたから、父さんが笑顔の母さんに逢えるように。

父さん。母さんを頼んだよ。





さよならは言わないで

12/2/2024, 2:29:51 PM


交際している彼にひとっ子ひとりいない真っ暗闇に連れて行かれた。
彼に手を繋がれて田んぼの畦道をどんどん歩いて行くけど、私は視力が悪いうえに夜盲症なのか、目に映るものは全て夜の暗闇で、その中をただ彼の手が引っ張る方向を頼りに歩き続けた。ハッキリ言って怖かったのに、彼は闇に感じないのか、高身長の長い脚で背の低い足の短い私を速足で歩かせてどんどん暗闇へ連れて行く。

彼は急に止まった。
絶え間なくちょろちょろと流れる水音がする。
そして、ほわんほわんと仄かな黄緑の蛍光色の灯が浮かび上がる。残光を残して飛び交う蛍。草むらに止まった蛍は至極ゆったりと光を灯したり消したりを繰り返す。

目が慣れればそれは光の洪水だった。
蛍を袋いっぱいに集めて一気に放出したかのように、蛍光色の光が視界いっぱいに満ち溢れていた。
水音は小川の流れだということも、蛍が光を灯したから理解した。
小川の両岸には蛍がほわんほわんと光を点し、川にまで光が映っていた。

「綺麗…すごい蛍の数…」
「うん…」

闇の隣には光がいた。それも闇を覆い尽くすほどの光が。
だけどこの蛍の群衆に出会うまで、この田んぼ一帯は何も見えず、不安や恐怖を煽る闇だった。


闇の隣には光。
闇の狭間で行き来する蛍が光を産む。

彼は私に光の群衆を見せた。
恐怖に慄く私を知らず、闇の中を突き進んで。

そして今、帰り道は暗闇の中。

彼は、光か闇か。
光と闇の狭間で、私は彼を愛し続けられるのか自問する。

そんな私は……光か、闇か、どちらに属すのだろう……




光と闇の狭間で

12/1/2024, 2:03:19 PM


どうか、泣かないで。
僕はキミに泣かれると、抱きしめたくなるから。


『泣かないで』   -終わらせないで-関連作品


小児科医である僕は、外科の看護師である宮島さんに恋をしている。僕の片想い。彼女は外科医の浅尾先生に恋をしていて、浅尾先生は既婚者。彼女も知っている。
小児科医の僕が外科ナースである彼女と一緒に働いたのには理由がある。小児科病棟の改装工事に伴い、患児を外科病棟で受け入れてもらったからだった。小児看護の経験がない外科ナースたちは未知の経験で大変だっただろうによく頑張ってくれた。中でも宮島さんは最初から自閉症児と相性が良く、僕や小児科スタッフは今後の成長が楽しみな人として彼女に注目した。
そのうち僕は彼女の素直さに惹かれ、笑顔で感謝された日にはこの恋を諦められないことを知った。そしてどうしようかと悩んだ。1年後、僕は地元に帰り、小児科のクリニックを開業する。ここのナースは優秀な人が多いけれど、転居させてまで連れて行くつもりはなかった。でも僕は宮島さんと離れたくない。僕の都合で転居させても良いのだろうか。
しかしその答えは案外早く出た。浅尾先生もまた、宮島さんが好きなことに気がついたから。浅尾先生と宮島さんは両想い。でも浅尾先生は宮島さんに医師と看護師の立場で接している。そう思っていたのに、誰もいない廊下で宮島さんの頭にポンッと優しく触れ、笑っている姿を見た。僕はどういうつもりかと浅尾先生と2人きりになってから問いかける。
「俺だってわかってるんですけどね…」
愛しいから触れたい。ただそれだけなのだと同じ人を好きだからこそ浅尾先生の気持ちがわかってしまった。
「浅尾先生も開業されるんですよね?彼女を引き抜いたんですか?」
「いいえ。彼女には相応しい場所がありますから」
小児科ナース。先生は口にしなかったけれど、宮島さんの小児看護は小児、家族、スタッフに至るまで期待されている。ナースステーションでも宮島さんの看護は度々話題になっていた。浅尾先生が知らないはずがない。浅尾先生は彼女の将来を見据えている。自分が既婚者である線引きでもあった。
「わかりました。僕が育てます」
宮島さんを僕のクリニックへ連れて行き育てよう。覚悟は決まった。

冬が終わる頃、小児科病棟の改装工事が終了して小児科はスタッフを含めて元の病棟へ。症状が比較的軽度だった外科患者やそれに伴い移動していた外科ナースが戻ってきて外科病棟は以前の状態に戻った。
病棟の引越しなどが落ち着いた頃、小児科と外科の合同の飲み会が開催された。僕は外科ナースに掴まり、宮島さんは小児科ナースに掴まり、浅尾先生も似たようなものだった。宮島さんと話せない飲み会がようやく終わって化粧室から出てきた彼女に声をかける。自宅の方向が一緒の僕は彼女を送って行くことになり、他の人は2次会へ流れていった。
声を顰めて雑談をしながら電車で隣に座る夢見心地な時間。飲み会ではあまり食べていないことがわかっていたから、〆にラーメンでも、と誘ってみたら了承してくれた。案内したのはラーメン店と標榜しつつも料理好きな店主が様々な創作料理を提供する小洒落た店。個室に通され、創作料理に舌鼓を打ち、〆のラーメンを食べて腹は満たされた。彼女もこの店を気に入ってくれたようだ。
僕は宮島さんへ小児看護を頑張ってくれたことへの労いと感謝を述べ、僕のクリニックで働いてもらえないかと誘い、理由も述べていく。宮島さんは自閉症児と相性が良い。それは小児に携わる者全てが欲しい能力だけど、簡単に持てるものではないこと。宮島さんは経験を積んでいけばより素敵な小児科ナースになれること。僕は小児科医目線で、宮島さんを小児科ナースとして育ててみたい。一緒に働きたい。僕の熱弁に彼女は瞳を丸くして驚いている。僕は彼女の表情に思わず笑ってしまって、彼女は不思議がった。わかりやすい。思っていることが全部表情に出る。だから子どもが安心するのかな。宮島さんはすぐに答えが出せないようだった。僕は「考えておいてね」と返事を保留にした。
ただ、彼女が僕しか知り合いのいない土地で、絶対に辛いこともある看護の仕事を続けられるか不安があるのはわかったから、一言付け加えた。
「僕はキミのことを絶対に守るし、力になるよ」
「…どうして…どうして佐々木先生は私にそんなに良くしてくださるんですか?」
「わからない?」
「はい」
コクンと頷く。可愛いな。ずっと可愛い。
「宮島さんが、僕のことをもっともっと知りたいと思ってくれたら、教えてあげるよ」
宮島さんの頬に手を伸ばし、驚いている瞳を見ながら頬から顎までするりと撫でる。暖かくて柔らかく滑らかな頬。触れてしまった。ずっと我慢できていたのに。
「本当は早く教えたいんだよ。宮島さんに」
宮島さんがゴクリと唾を飲み込む音がした。
「それから、考えてね。僕のクリニックのことも」
「…はい」

僕がクリニックへ勧誘して数週間後、彼女からNoと返事をされた。外科看護の経験を積んでいきたいからと伝えられた。本当は、僕の気持ちを知って、慮って断ったのだろう。自分のことを好きな人の元へ着いて行く。僕に期待を抱かせる行為を彼女は避けたのだ。彼女の優しさで。
そんなことを考えながら医局へ入ると、室内には浅尾先生1人だった。パソコンを開いて文献で調べものをしているようだったが顔を上げて僕を見た。そしてまた調べものに戻ろうとした先生に声をかけた。
「宮島さん、外科看護の経験を積んでいくそうですよ」
「………」
「残念です。一緒に働いて、宮島さんの成長を見たかったんですけどね」
浅尾先生の表情は変わらない。ポーカーフェイス。宮島さんの前ではあんなに笑顔になる人なのに。
「彼女は優しい人ですね。僕を傷つけない方法を選んだ。益々好きになってしまいました」
「…わかりますよ。俺も同じですから」
浅尾先生が微かに微笑んでパソコンを閉じる。浅尾先生は医局を後にした。僕は目を閉じて呟く。でも諦めきれないよ、と。

翌日から僕は2泊3日で研修に出かけた。帰京した夕方、土産品を持って病院へ行く。外科病棟のスタッフにも銘菓を買った。宮島さんに会えたら良いな。彼女の勤務を知らないまま、明日でも良い土産品を持っていそいそと外科病棟を歩く。
浅尾先生がエレベーターを使わずに足早に階段へ向かうのを見かけた。額を押さえ、表情が辛そうだ。体調不良ならエレベーターを使うはず。
---何かがあった。宮島さんと?僕は誰もいないナースステーションの奥にある休憩室の小窓をそっと覗き、彼女がひとり肩を震わせて泣いているのを見てしまった。胸が押し潰されるように痛い。どうすれば良い?そんなことを考える間もなく僕の身体は宮島さんへ向かう。
「ささき、せんせ…」
「出ようか。宮島さんは此処から離れた方が良い」
僕は宮島さんの腕を取って室内を見渡し、宮島さんのバッグを見つける。猫のチャームが付いたバッグはあの飲み会と同じ物。休憩室を出ると、看護師とぶつかりそうになる。研修土産を持って来たことを伝えて、ついでに紙袋2つのうちの1つを小児科病棟へ届けてほしいと依頼して、ナースステーションを後にする。宮島さんの手首を握ったまま。僕が宮島さんを好きなことは、あの飲み会で僕を取り囲んだ外科ナースの前で認めさせられた。だから周知の事実。
僕の車へ宮島さんを乗せ漸く手を離す。ナース服のまま連れて来てしまった。僕は自分のスプリングコートを宮島さんに羽織らせた。目の前には浅尾先生のセダン。僕は車を発進させる。宮島さんはハンカチを口に当て嗚咽を漏らさないように泣いている。益々胸が痛くなって、僕は運転しながら彼女の手を握った。
「ひとりで泣かないで。キミが泣くときは僕を呼んで。ずっと傍にいるから」
「ささきせんせい…」
「キミはいつも頑張っているよ。でも泣くのを我慢するほど頑張らなくても良いんだよ」
堪えきれない嗚咽が漏れる。

以前、浅尾先生に処置の見学をさせてもらったことがある。小児科でも成人でも行う処置の見学をして、小児科で何か取り入れられるものがあればと思っての行動だった。結果、処置自体は大した違いはなかったけれど、介助者に大きな違いがあった。常に浅尾先生が処置しやすいように手順以上に細やかな気配りで先読みして動く宮島さん。宮島さんが浅尾先生のために頑張っているのをヒシヒシと感じた。そうやってキミはいつも浅尾先生のために頑張ってきたのだろう。

コインパーキングを見つけた僕は駐車場の奥へ停車した。シートベルトを外し、彼女のベルトも外す。泣き続ける彼女を胸に導き、背中を摩る。処置が終わった子どもなら、看護師に預けるか母親に引き渡してよく頑張ったと頭を撫でれば良い。あとは母親が引き受けてくれるから。でも、宮島さんの涙は母親が慰められる涙じゃない。誰かがその役割を担わないと。今は僕が。否、この先もずっと。

「先生…優しすぎます…」
泣きながら彼女が小声で言う。
「うん。僕はキミが好きだからね。どうしようもなく優しくしたくなる」
僕の言葉をきっかけに言葉を発することもできなくなり、涙は後からあとから溢れて彼女自身で止められない。
僕は背中を摩り続ける。なけなしの理性の中で、抱きしめたいのを踏み止まる。
「宮島さんには負けたよ。僕は宮島さんが僕のことを好きになってくれてから、どうして僕が宮島さんに良くするのかっていう質問に答えるつもりだったのに」
小さく身体が揺れる。
「カラオケにでも行こうか。コインパーキングでずっとエンジン掛けっぱなしも迷惑だからさ。わかってると思うけど、帰りたいは無しだよ。キミはまた泣くだろうから」
頷いてくれたのを感じ取って身体を離す。目元が腫れている。親指でそっと両眼の涙を拭う。車から降り、僕のコートをボタンまで閉めてもらって、そして手を繋ぐ。宮島さんはおとなしく手を繋がれている。
「今日は日勤だった?明日は?」
「きょ…はにっきんで、あした、から2連休、です」
「良いなあ。僕は研修に出た分、仕事が溜まっちゃった。でも、僕は宮島さんを優先するよ」
遠慮しそうな宮島さんの先回りをしてひとりきりになることを潰していく。
「ささき先生…は、何もきかないんですね」
「訊かなくてもなんとなくはね」
「…先生に、何があっても佐々木先生が助けてくれるよって言われました…」
「そう…キミは外科を頑張る気でいるのにね。浅尾先生はキミのことが大切だから…浅尾先生の気持ちはわかるよ」
「…佐々木先生は絶対に誰のことも責めないですね。あたしは既婚者を好きになったのに」
「責められないよ。誰のことも。だってキミはただ好きで居るだけなんだから。敢えて言うなら、出会いが早ければ良かったのにねって言うことしかできないよ」
「ささき先生、やっぱり優しすぎます。泣ける」
「泣きなさい。幾らでも胸を貸すから」

カラオケルームで泣く彼女を抱きしめて、よしよしと後頭部を撫でる。

ひとりでは、泣かないで。
泣くのなら、僕の胸で。




泣かないで    2024/11/28-29 終わらせないで 関連作品

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