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さよならは言わないで



俺の母さんは癌患者だ。手術をして抗癌剤治療もして放射線治療もした。でも、転移してもう手の施しようがない状態になっている。
母さんはその全てを知って、余生を自宅で過ごす選択をした。

どんどん食べられなくなり、痩せていく母さん。
痛み止めはモルヒネを服用し、水分は点滴で補っている。食事はいつもごく少量しか食べられない。


「痛くない?」
「大丈夫。少し眠るから、あんたも休みな」
母さんは強い痛み止めのせいで眠る時間が多くなった。だけどその方が良い。ずっと起きてると辛そうだから。
「うん。ちょっと昼寝するわ」
俺は隣にある自分の部屋のベッドに寝転んだ。



俺と母さんは二人暮らし。
父さんもまた、昨年、癌で死んだ。
父さんが終末期に入ったとき、母さんの癌の治療がひと段落したところだった。

父さんが意識を手放す数時間前。
父さんは母さんに「さよなら」と言葉を残したけれど、母さんは首を横に振った。
「さよならじゃないよ。私は、父さんに会いに行くから」
「そうか。当分来るなよ」
「当たり前でしょ。何のために治療したと思ってるのよ」
母さんは父さんの浮腫んだ手に手を滑り込ませて、その手を力なんてないはずの父さんが握った。


『父さんに会いに行くから』
あの時の母さんに何か予兆があったのか、それともなかったのか。
俺にはわからない。
---3ヶ月後の検診で癌の再発が見つかって、また母さんは入院して治療を再開した。



目が覚めると2時間ほど経っていた。
母さんの様子が気になり、ベッドへ行く。
少し…様子がおかしいかもしれない。
呼吸が荒いような気がするし、指先の色に赤みがない。

「母さん?苦しい?」
「大丈夫…」
2時間前とは比較にならないほど弱々しい声音の大丈夫だ。大丈夫なんかじゃない。だけど。
俺は深呼吸をする。落ち着け。母さんを不安にさせるな。
「大丈夫なら良かった」
母さんは微笑んだ。
蒼白い顔。覚悟はしていたのに、油断すると涙が溢れそうになる。

「ごめんね」
母さんが呟いた。父さんだけでなく、母さんも俺を残して若くして逝ってしまうことだろうか。
「父さんと母さんの病気のせいで、あんたが結婚できなくなっちゃって」
確かに、ここ何年も仕事と介護に追われて、そのうち介護休暇を取って介護ばかりになって、彼女を作る余裕はなくなったけれど。
「…それは俺がモテないからでしょ。って言わすなよ」
母さんの目が笑った。声は出ない。母さんの明るい笑い声が好きだったのに、もう聴けなくなったと思うと涙が滲みかけて、俺は上を向いてなんとか堪える。
「俺のことは大丈夫だよ。これでもさ、昔は彼女いたし。また作るよ」
「うん…あんたは良い子だから…大丈夫だね…」
一息に喋られず、休みやすみ言葉を紡ぐようになった。
でも、一生懸命話してくれるから、俺は一生懸命聴く。聴き取りづらくても、母さんの最期の言葉を。

「さよならは言わないよ。母さんは、最愛の父さんのところに行くんだから。父さんによろしく言っておいて」
「わかった…言っておく…でも…私の…最愛は…あんたも…」
「俺もか」
ダメだった。俺の涙腺はぶっ壊れた。
母さんの瞳から頬にひとすじ涙が伝わった。
脱水気味の母さんは、涙さえ少ししか出せず、声を上げて泣くこともできなかった。
母さんの手を両手で包み込む。保冷剤のように冷たい酸素が通わない紫色の手。
母さんの意識は、母さんと呼ばないと保てない。
俺は覚悟ができていたはずなのに怖くなって、叫ぶように呼んだ。
「母さん!」
「さよならは……言わないでね……ありがとう……」
号泣して母さんと呼べなくなって、母さんは意識を手放した。


父さんが意識を手放したときのことを思い出す。
「耳は最期まで聴こえるから。話しかけてあげてくださいね」
看護師に言われたから、母さんは父さんにずっと話しかけていた。


ダメだ、俺。
話しかけようと思っても、泣けて泣けて話なんかできやしない。

ウェットティッシュで母さんの渇いて白くなった涙の跡を拭く。
父さんも俺も母さんの笑顔がちょっと可愛いと思ってたから、父さんが笑顔の母さんに逢えるように。

父さん。母さんを頼んだよ。





さよならは言わないで

12/3/2024, 1:37:22 PM