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どうか、泣かないで。
僕はキミに泣かれると、抱きしめたくなるから。


『泣かないで』   -終わらせないで-関連作品


小児科医である僕は、外科の看護師である宮島さんに恋をしている。僕の片想い。彼女は外科医の浅尾先生に恋をしていて、浅尾先生は既婚者。彼女も知っている。
小児科医の僕が外科ナースである彼女と一緒に働いたのには理由がある。小児科病棟の改装工事に伴い、患児を外科病棟で受け入れてもらったからだった。小児看護の経験がない外科ナースたちは未知の経験で大変だっただろうによく頑張ってくれた。中でも宮島さんは最初から自閉症児と相性が良く、僕や小児科スタッフは今後の成長が楽しみな人として彼女に注目した。
そのうち僕は彼女の素直さに惹かれ、笑顔で感謝された日にはこの恋を諦められないことを知った。そしてどうしようかと悩んだ。1年後、僕は地元に帰り、小児科のクリニックを開業する。ここのナースは優秀な人が多いけれど、転居させてまで連れて行くつもりはなかった。でも僕は宮島さんと離れたくない。僕の都合で転居させても良いのだろうか。
しかしその答えは案外早く出た。浅尾先生もまた、宮島さんが好きなことに気がついたから。浅尾先生と宮島さんは両想い。でも浅尾先生は宮島さんに医師と看護師の立場で接している。そう思っていたのに、誰もいない廊下で宮島さんの頭にポンッと優しく触れ、笑っている姿を見た。僕はどういうつもりかと浅尾先生と2人きりになってから問いかける。
「俺だってわかってるんですけどね…」
愛しいから触れたい。ただそれだけなのだと同じ人を好きだからこそ浅尾先生の気持ちがわかってしまった。
「浅尾先生も開業されるんですよね?彼女を引き抜いたんですか?」
「いいえ。彼女には相応しい場所がありますから」
小児科ナース。先生は口にしなかったけれど、宮島さんの小児看護は小児、家族、スタッフに至るまで期待されている。ナースステーションでも宮島さんの看護は度々話題になっていた。浅尾先生が知らないはずがない。浅尾先生は彼女の将来を見据えている。自分が既婚者である線引きでもあった。
「わかりました。僕が育てます」
宮島さんを僕のクリニックへ連れて行き育てよう。覚悟は決まった。

冬が終わる頃、小児科病棟の改装工事が終了して小児科はスタッフを含めて元の病棟へ。症状が比較的軽度だった外科患者やそれに伴い移動していた外科ナースが戻ってきて外科病棟は以前の状態に戻った。
病棟の引越しなどが落ち着いた頃、小児科と外科の合同の飲み会が開催された。僕は外科ナースに掴まり、宮島さんは小児科ナースに掴まり、浅尾先生も似たようなものだった。宮島さんと話せない飲み会がようやく終わって化粧室から出てきた彼女に声をかける。自宅の方向が一緒の僕は彼女を送って行くことになり、他の人は2次会へ流れていった。
声を顰めて雑談をしながら電車で隣に座る夢見心地な時間。飲み会ではあまり食べていないことがわかっていたから、〆にラーメンでも、と誘ってみたら了承してくれた。案内したのはラーメン店と標榜しつつも料理好きな店主が様々な創作料理を提供する小洒落た店。個室に通され、創作料理に舌鼓を打ち、〆のラーメンを食べて腹は満たされた。彼女もこの店を気に入ってくれたようだ。
僕は宮島さんへ小児看護を頑張ってくれたことへの労いと感謝を述べ、僕のクリニックで働いてもらえないかと誘い、理由も述べていく。宮島さんは自閉症児と相性が良い。それは小児に携わる者全てが欲しい能力だけど、簡単に持てるものではないこと。宮島さんは経験を積んでいけばより素敵な小児科ナースになれること。僕は小児科医目線で、宮島さんを小児科ナースとして育ててみたい。一緒に働きたい。僕の熱弁に彼女は瞳を丸くして驚いている。僕は彼女の表情に思わず笑ってしまって、彼女は不思議がった。わかりやすい。思っていることが全部表情に出る。だから子どもが安心するのかな。宮島さんはすぐに答えが出せないようだった。僕は「考えておいてね」と返事を保留にした。
ただ、彼女が僕しか知り合いのいない土地で、絶対に辛いこともある看護の仕事を続けられるか不安があるのはわかったから、一言付け加えた。
「僕はキミのことを絶対に守るし、力になるよ」
「…どうして…どうして佐々木先生は私にそんなに良くしてくださるんですか?」
「わからない?」
「はい」
コクンと頷く。可愛いな。ずっと可愛い。
「宮島さんが、僕のことをもっともっと知りたいと思ってくれたら、教えてあげるよ」
宮島さんの頬に手を伸ばし、驚いている瞳を見ながら頬から顎までするりと撫でる。暖かくて柔らかく滑らかな頬。触れてしまった。ずっと我慢できていたのに。
「本当は早く教えたいんだよ。宮島さんに」
宮島さんがゴクリと唾を飲み込む音がした。
「それから、考えてね。僕のクリニックのことも」
「…はい」

僕がクリニックへ勧誘して数週間後、彼女からNoと返事をされた。外科看護の経験を積んでいきたいからと伝えられた。本当は、僕の気持ちを知って、慮って断ったのだろう。自分のことを好きな人の元へ着いて行く。僕に期待を抱かせる行為を彼女は避けたのだ。彼女の優しさで。
そんなことを考えながら医局へ入ると、室内には浅尾先生1人だった。パソコンを開いて文献で調べものをしているようだったが顔を上げて僕を見た。そしてまた調べものに戻ろうとした先生に声をかけた。
「宮島さん、外科看護の経験を積んでいくそうですよ」
「………」
「残念です。一緒に働いて、宮島さんの成長を見たかったんですけどね」
浅尾先生の表情は変わらない。ポーカーフェイス。宮島さんの前ではあんなに笑顔になる人なのに。
「彼女は優しい人ですね。僕を傷つけない方法を選んだ。益々好きになってしまいました」
「…わかりますよ。俺も同じですから」
浅尾先生が微かに微笑んでパソコンを閉じる。浅尾先生は医局を後にした。僕は目を閉じて呟く。でも諦めきれないよ、と。

翌日から僕は2泊3日で研修に出かけた。帰京した夕方、土産品を持って病院へ行く。外科病棟のスタッフにも銘菓を買った。宮島さんに会えたら良いな。彼女の勤務を知らないまま、明日でも良い土産品を持っていそいそと外科病棟を歩く。
浅尾先生がエレベーターを使わずに足早に階段へ向かうのを見かけた。額を押さえ、表情が辛そうだ。体調不良ならエレベーターを使うはず。
---何かがあった。宮島さんと?僕は誰もいないナースステーションの奥にある休憩室の小窓をそっと覗き、彼女がひとり肩を震わせて泣いているのを見てしまった。胸が押し潰されるように痛い。どうすれば良い?そんなことを考える間もなく僕の身体は宮島さんへ向かう。
「ささき、せんせ…」
「出ようか。宮島さんは此処から離れた方が良い」
僕は宮島さんの腕を取って室内を見渡し、宮島さんのバッグを見つける。猫のチャームが付いたバッグはあの飲み会と同じ物。休憩室を出ると、看護師とぶつかりそうになる。研修土産を持って来たことを伝えて、ついでに紙袋2つのうちの1つを小児科病棟へ届けてほしいと依頼して、ナースステーションを後にする。宮島さんの手首を握ったまま。僕が宮島さんを好きなことは、あの飲み会で僕を取り囲んだ外科ナースの前で認めさせられた。だから周知の事実。
僕の車へ宮島さんを乗せ漸く手を離す。ナース服のまま連れて来てしまった。僕は自分のスプリングコートを宮島さんに羽織らせた。目の前には浅尾先生のセダン。僕は車を発進させる。宮島さんはハンカチを口に当て嗚咽を漏らさないように泣いている。益々胸が痛くなって、僕は運転しながら彼女の手を握った。
「ひとりで泣かないで。キミが泣くときは僕を呼んで。ずっと傍にいるから」
「ささきせんせい…」
「キミはいつも頑張っているよ。でも泣くのを我慢するほど頑張らなくても良いんだよ」
堪えきれない嗚咽が漏れる。

以前、浅尾先生に処置の見学をさせてもらったことがある。小児科でも成人でも行う処置の見学をして、小児科で何か取り入れられるものがあればと思っての行動だった。結果、処置自体は大した違いはなかったけれど、介助者に大きな違いがあった。常に浅尾先生が処置しやすいように手順以上に細やかな気配りで先読みして動く宮島さん。宮島さんが浅尾先生のために頑張っているのをヒシヒシと感じた。そうやってキミはいつも浅尾先生のために頑張ってきたのだろう。

コインパーキングを見つけた僕は駐車場の奥へ停車した。シートベルトを外し、彼女のベルトも外す。泣き続ける彼女を胸に導き、背中を摩る。処置が終わった子どもなら、看護師に預けるか母親に引き渡してよく頑張ったと頭を撫でれば良い。あとは母親が引き受けてくれるから。でも、宮島さんの涙は母親が慰められる涙じゃない。誰かがその役割を担わないと。今は僕が。否、この先もずっと。

「先生…優しすぎます…」
泣きながら彼女が小声で言う。
「うん。僕はキミが好きだからね。どうしようもなく優しくしたくなる」
僕の言葉をきっかけに言葉を発することもできなくなり、涙は後からあとから溢れて彼女自身で止められない。
僕は背中を摩り続ける。なけなしの理性の中で、抱きしめたいのを踏み止まる。
「宮島さんには負けたよ。僕は宮島さんが僕のことを好きになってくれてから、どうして僕が宮島さんに良くするのかっていう質問に答えるつもりだったのに」
小さく身体が揺れる。
「カラオケにでも行こうか。コインパーキングでずっとエンジン掛けっぱなしも迷惑だからさ。わかってると思うけど、帰りたいは無しだよ。キミはまた泣くだろうから」
頷いてくれたのを感じ取って身体を離す。目元が腫れている。親指でそっと両眼の涙を拭う。車から降り、僕のコートをボタンまで閉めてもらって、そして手を繋ぐ。宮島さんはおとなしく手を繋がれている。
「今日は日勤だった?明日は?」
「きょ…はにっきんで、あした、から2連休、です」
「良いなあ。僕は研修に出た分、仕事が溜まっちゃった。でも、僕は宮島さんを優先するよ」
遠慮しそうな宮島さんの先回りをしてひとりきりになることを潰していく。
「ささき先生…は、何もきかないんですね」
「訊かなくてもなんとなくはね」
「…先生に、何があっても佐々木先生が助けてくれるよって言われました…」
「そう…キミは外科を頑張る気でいるのにね。浅尾先生はキミのことが大切だから…浅尾先生の気持ちはわかるよ」
「…佐々木先生は絶対に誰のことも責めないですね。あたしは既婚者を好きになったのに」
「責められないよ。誰のことも。だってキミはただ好きで居るだけなんだから。敢えて言うなら、出会いが早ければ良かったのにねって言うことしかできないよ」
「ささき先生、やっぱり優しすぎます。泣ける」
「泣きなさい。幾らでも胸を貸すから」

カラオケルームで泣く彼女を抱きしめて、よしよしと後頭部を撫でる。

ひとりでは、泣かないで。
泣くのなら、僕の胸で。




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12/1/2024, 2:03:19 PM