眠れないほど、あの子のことが気になっている。
あの子は今、泣いていないだろうか。
『眠れないほど』 -終わらせないで&泣かないで 関連作品-
俺が外科医として勤務する外科病棟に今年も2名の新人看護師が配属された。
古川さんと、宮島さん。何をするにも始めから器用な古川さんと、不器用な宮島さん。ただ宮島さんなりに成長しようと、毎日もがいていた。そんな彼女も1年を過ぎる頃、同期の古川さんと遜色なく働けるようになり、いつしか古川さんを追い越していた。
ある日、久しぶりに宮島さんにドレーン挿入の介助に入ってもらった。前回の介助よりも処置がしやすい。患者の様子に気を配るだけでなく、俺が動きやすいように気を配って動いてくれる。彼女の看護に感嘆し、部屋の片付けを終えて廊下を歩く彼女を呼び止めた。「やりやすかったよ」頭をポンッと軽く叩く。感謝と労い。彼女の努力を認めたいだけだった。だけど、彼女の俯いて上から見える耳が紅く染まっているのを見て知った。宮島さんは俺に好意を持っている。その場を離れ、廊下を歩きながら俺は口元を押さえる。動悸がする。女の子から好意を持たれていることを知って自分が意識しだすなんて、10代でもあるまいし。だけど、宮島さんのことを思い出す自分がいる。宮島さんは、俺の介助に着くとき、いつだって患者の様子に気を配り、俺がやりやすいように介助してくれていた。献身的と言って良い。
いつしか彼女のことを目で追い、彼女のどんどん成長する看護を褒めて頭に触れる。看護師に医師が優しく触れる必要なんて全くない。だけど、愛しくて触れたくなるのを抑えきれなくて。笑みが溢れないように我慢する彼女が愛おしくて笑ってしまう日々。
俺は結婚している。
妻を幸せにすると本気で誓ったあの想いは今も続いている。それなのに。
俺は来年開業する自分のクリニックへ宮島さんを連れて行かないことに決めた。彼女から離れた方が良い。宮島さんは落ち込むだろうけれど、でも彼女は患者にも慕われて感謝されることが多い。きっと友人、仕事仲間や患者が彼女を癒してくれる。…代わりに古川さんを連れて行くことに決めた。
その頃、小児科病棟の改装工事に伴い、患児に外科病棟50床のうち25床が与えられた。外科ナースは外科看護と小児看護の掛け持ちとなり、2週間ごとのローテーションが組まれた。
宮島さんは、小児科に向いていた。患児が懐き、宮島さん本人も自然な笑顔が増えてイキイキしている。小児科スタッフや家族の信頼も獲得して、彼女はローテーションから抜けて小児科を担当することが多くなった。外科では一緒に働けなくなったけれど、同じ病棟、同じナースステーションのために彼女の姿は目にすることができる。
……小児科の佐々木先生が彼女に笑いかけて、小児看護に不慣れな宮島さんを優しくサポートする姿をよく目にした。佐々木先生は宮島さんが好きなのか。未婚で優しい佐々木先生は、俺よりもよっぽど宮島さんに似合う。
俺はますます彼女を自分のクリニックで働かせないことを決めた。佐々木先生も来年小児科を開業する。そこが宮島さんに相応しい場所だ。俺は、古川さんをクリニックに勧誘して良い返事をもらった。
後日、元気のない宮島さんを目にする。俺が宮島さんの看護の力量を認めていないと思ったからだろう。違う、と強く否定して自分の気持ちを告げたくなる。俺も好きなんだと言って聴かせたくなる。そんなことできないのに。
冬が終わる頃、小児科病棟の改装工事が終了して小児患者やスタッフは元の病棟へ戻り、外科の軽症患者や外科ナースとして応援に行っていたスタッフも戻ってきた。すっかり外科小児科混合病棟だった名残りは無くなった。
俺は3月でこの病院を退職する。宮島さんとの仕事も残りわずかだ。宮島さんは一時の元気のなさから回復して相変わらず俺がやりやすい処置の介助をしてくれていた。
想うのは、いつも宮島さんのことばかり。
気持ちを振り切るように医師が出払っている医局の自分の席で文献に目を凝らす。思いの外治療の効果が出た抗癌剤に、同じようなケースは過去になかったかと文字を辿っていく。
医局のドアが開き、佐々木先生が部屋に入ってきたのを見て、パソコン作業に戻る。正直、逢いたくない相手だ。宮島さんのみならず、誰にでもおおらかで優しく面倒見があって、彼を悪く言う人はいなかった。既婚者の俺が宮島さんを好きで職場で頭に触れてなお、俺の気持ちにも理解を示した男。
以前、彼女を自分のクリニックへ連れて行き、小児科ナースとして育てると宣言された。もう伝えたのだろうか。
「宮島さん、外科看護の経験を積んでいくそうですよ」
俺のいない病院へ残って外科を続ける?佐々木先生のところに行くかどうかはともかく、あんなに小児と毎日楽しそうに過ごしていたのに?不思議に思ったその先で、佐々木先生が俺の心の中の問いに答えを告げる。
「彼女は優しい人ですね。僕を傷つけない方法を選んだ。益々好きになってしまいました」
ああ、佐々木先生は彼女に告白して、彼女はその想いを受け取らなかったのだ。佐々木先生に期待させることも避けて…小児看護が向いていると自分でもわかっていただろうに。彼女の優しさを感じて、俺も益々好きになる。いつだって彼女は一生懸命で、献身的で、自分の気持ちに応えてほしいと欲張ることもせずに。
「わかりますよ、俺も同じですから」
何もかも投げ出して、好きだと伝えられたら良いのに。俺は佐々木先生から逃げ出すようにパソコンの電源を落として部屋を出た。
数日後、俺は宮島さんが日勤を終えるのをコーヒーを飲みながら休憩室で待っていた。日勤終わりの宮島さんにコーヒーを勧めて、しばらく雑談する。本当に言いたいのはそれではないのに。
飲んでいたコーヒーが空になり、ようやく本題に入る。
佐々木先生のクリニックの誘いを断ったことを宮島さん本人から確認して、俺は告げた。宮島さんは頑張れる人だということ、知り合いのいない土地で絶対に辛いことがある医療の仕事でも乗り越える力があること、それを俺が3年間も見てきたこと。
宮島さんが佐々木先生の誘いを断ったのは、引越しをしなきゃいけないからじゃない。絶対に辛いことが起きる看護を一人で続けられるか不安だからというのは、大きな理由じゃない。
本当は、自分のことが好きな人の元へ着いて行く、だからいずれ---そんな期待を宮島さんは彼女の優しさで持たせたくないからだと知っている。そこを避けて小児看護を勧めていく俺は、なんて臆病者なのだろう。
彼女は、俺との時間の終わりを感じ取った。終わらせたくないのは一緒だとその柔らかそうな白い手を取って告げられたらどんなに幸せだろう。
だけど。
「佐々木チルドレンクリニックを考えてみなよ」
外科よりも小児科が合っているかと問われて、それに答える。
宮島さんが外科で努力している姿を1番見てきた俺が。
「そうだね。子どもの接し方が上手だから」
彼女から「考えてみます」と返事をもらって、宮島さんだけが片想いだと思っていた、この幸せで切ない時間はもう終わりだよ、と暗に告げる。自分にも言い聞かせるように。
「何があっても佐々木先生が助けてくれるよ。宮島さんは、佐々木先生のお気に入りだから」
最後に宮島さんの頭に触れる。もう、こんなふうに俺が頭に触れることはない。少し冷たいサラッとした手触りの心地良い頭皮に。いつも笑みが溢れないように幸せそうに唇を閉じていた宮島さん。今日も俯いているけれど、その表情を確認できない。確認してしまって、涙を溜めていたら俺は、宮島さんをきっと強く抱きしめてしまう。俺がどんな顔をしているのか、自分でもわからない。
呼び出し音が鳴る。外科医として部屋を出て、急ぎ階段へ向かう。自分が泣きたくなっているのがわかったから。傷つけたのは俺で、俺が泣く資格なんてどこにもないのに。
咳払いをしてからコールバックをしてナースから情報をもらい、患者の様子を見に行く。看護師の言うとおり、ドレーンからの出血が多い。バイタルは今のところ安定している。バイタルの変化に注意してほしいことと、採血とレントゲンの指示を口頭で出してナースステーションに向かう。ナースステーションの奥にある休憩室には宮島さんの姿はなかった。今は、目の前の患者に集中するべきだ。俺は電子カルテにログインした。
患者の経過を見て大丈夫だろうと判断して帰宅したのは深夜だった。部屋の電気は既に消えて、キッチンカウンターには俺の夕食が皿に盛り付けられていた。妻には遅くなるから寝ているように伝えていたから眠っているのだろうか。俺は妻の料理を温めて食卓へ置く。
宮島さんは、泣いていないだろうか。食事は食べられたのだろうか。
彩よく盛り付けられた料理を見ても箸が進まない。先にシャワーを浴びることに決めて、また宮島さんを思い出す。彼女は自宅へ帰って…どんなふうに過ごしているのだろう。
今夜の俺は何をしても宮島さんを思い出して、泣いていないか心配している。彼女の心を支えてくれる人がいるのか、友人でも家族でも誰でも良い。
誰でもなんて……そんなはずはなかった。佐々木先生が彼女の哀しみに寄り添ってくれる。そう信じられたからこそ、俺は、この時間の終わりを告げられた。
自分で宮島さんとの時間に終止符を打って、佐々木先生との恋を応援するようなことを言って、彼女を傷つけて自分を守った。
そうして漸く気づく。
眠れないほど、彼女を愛していることに。
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12/6/2024, 3:30:14 AM