Mey

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12/3/2024, 1:37:22 PM

さよならは言わないで



俺の母さんは癌患者だ。手術をして抗癌剤治療もして放射線治療もした。でも、転移してもう手の施しようがない状態になっている。
母さんはその全てを知って、余生を自宅で過ごす選択をした。

どんどん食べられなくなり、痩せていく母さん。
痛み止めはモルヒネを服用し、水分は点滴で補っている。食事はいつもごく少量しか食べられない。


「痛くない?」
「大丈夫。少し眠るから、あんたも休みな」
母さんは強い痛み止めのせいで眠る時間が多くなった。だけどその方が良い。ずっと起きてると辛そうだから。
「うん。ちょっと昼寝するわ」
俺は隣にある自分の部屋のベッドに寝転んだ。



俺と母さんは二人暮らし。
父さんもまた、昨年、癌で死んだ。
父さんが終末期に入ったとき、母さんの癌の治療がひと段落したところだった。

父さんが意識を手放す数時間前。
父さんは母さんに「さよなら」と言葉を残したけれど、母さんは首を横に振った。
「さよならじゃないよ。私は、父さんに会いに行くから」
「そうか。当分来るなよ」
「当たり前でしょ。何のために治療したと思ってるのよ」
母さんは父さんの浮腫んだ手に手を滑り込ませて、その手を力なんてないはずの父さんが握った。


『父さんに会いに行くから』
あの時の母さんに何か予兆があったのか、それともなかったのか。
俺にはわからない。
---3ヶ月後の検診で癌の再発が見つかって、また母さんは入院して治療を再開した。



目が覚めると2時間ほど経っていた。
母さんの様子が気になり、ベッドへ行く。
少し…様子がおかしいかもしれない。
呼吸が荒いような気がするし、指先の色に赤みがない。

「母さん?苦しい?」
「大丈夫…」
2時間前とは比較にならないほど弱々しい声音の大丈夫だ。大丈夫なんかじゃない。だけど。
俺は深呼吸をする。落ち着け。母さんを不安にさせるな。
「大丈夫なら良かった」
母さんは微笑んだ。
蒼白い顔。覚悟はしていたのに、油断すると涙が溢れそうになる。

「ごめんね」
母さんが呟いた。父さんだけでなく、母さんも俺を残して若くして逝ってしまうことだろうか。
「父さんと母さんの病気のせいで、あんたが結婚できなくなっちゃって」
確かに、ここ何年も仕事と介護に追われて、そのうち介護休暇を取って介護ばかりになって、彼女を作る余裕はなくなったけれど。
「…それは俺がモテないからでしょ。って言わすなよ」
母さんの目が笑った。声は出ない。母さんの明るい笑い声が好きだったのに、もう聴けなくなったと思うと涙が滲みかけて、俺は上を向いてなんとか堪える。
「俺のことは大丈夫だよ。これでもさ、昔は彼女いたし。また作るよ」
「うん…あんたは良い子だから…大丈夫だね…」
一息に喋られず、休みやすみ言葉を紡ぐようになった。
でも、一生懸命話してくれるから、俺は一生懸命聴く。聴き取りづらくても、母さんの最期の言葉を。

「さよならは言わないよ。母さんは、最愛の父さんのところに行くんだから。父さんによろしく言っておいて」
「わかった…言っておく…でも…私の…最愛は…あんたも…」
「俺もか」
ダメだった。俺の涙腺はぶっ壊れた。
母さんの瞳から頬にひとすじ涙が伝わった。
脱水気味の母さんは、涙さえ少ししか出せず、声を上げて泣くこともできなかった。
母さんの手を両手で包み込む。保冷剤のように冷たい酸素が通わない紫色の手。
母さんの意識は、母さんと呼ばないと保てない。
俺は覚悟ができていたはずなのに怖くなって、叫ぶように呼んだ。
「母さん!」
「さよならは……言わないでね……ありがとう……」
号泣して母さんと呼べなくなって、母さんは意識を手放した。


父さんが意識を手放したときのことを思い出す。
「耳は最期まで聴こえるから。話しかけてあげてくださいね」
看護師に言われたから、母さんは父さんにずっと話しかけていた。


ダメだ、俺。
話しかけようと思っても、泣けて泣けて話なんかできやしない。

ウェットティッシュで母さんの渇いて白くなった涙の跡を拭く。
父さんも俺も母さんの笑顔がちょっと可愛いと思ってたから、父さんが笑顔の母さんに逢えるように。

父さん。母さんを頼んだよ。





さよならは言わないで

12/2/2024, 2:29:51 PM


交際している彼にひとっ子ひとりいない真っ暗闇に連れて行かれた。
彼に手を繋がれて田んぼの畦道をどんどん歩いて行くけど、私は視力が悪いうえに夜盲症なのか、目に映るものは全て夜の暗闇で、その中をただ彼の手が引っ張る方向を頼りに歩き続けた。ハッキリ言って怖かったのに、彼は闇に感じないのか、高身長の長い脚で背の低い足の短い私を速足で歩かせてどんどん暗闇へ連れて行く。

彼は急に止まった。
絶え間なくちょろちょろと流れる水音がする。
そして、ほわんほわんと仄かな黄緑の蛍光色の灯が浮かび上がる。残光を残して飛び交う蛍。草むらに止まった蛍は至極ゆったりと光を灯したり消したりを繰り返す。

目が慣れればそれは光の洪水だった。
蛍を袋いっぱいに集めて一気に放出したかのように、蛍光色の光が視界いっぱいに満ち溢れていた。
水音は小川の流れだということも、蛍が光を灯したから理解した。
小川の両岸には蛍がほわんほわんと光を点し、川にまで光が映っていた。

「綺麗…すごい蛍の数…」
「うん…」

闇の隣には光がいた。それも闇を覆い尽くすほどの光が。
だけどこの蛍の群衆に出会うまで、この田んぼ一帯は何も見えず、不安や恐怖を煽る闇だった。


闇の隣には光。
闇の狭間で行き来する蛍が光を産む。

彼は私に光の群衆を見せた。
恐怖に慄く私を知らず、闇の中を突き進んで。

そして今、帰り道は暗闇の中。

彼は、光か闇か。
光と闇の狭間で、私は彼を愛し続けられるのか自問する。

そんな私は……光か、闇か、どちらに属すのだろう……




光と闇の狭間で

12/1/2024, 2:03:19 PM


どうか、泣かないで。
僕はキミに泣かれると、抱きしめたくなるから。


『泣かないで』   -終わらせないで-関連作品


小児科医である僕は、外科の看護師である宮島さんに恋をしている。僕の片想い。彼女は外科医の浅尾先生に恋をしていて、浅尾先生は既婚者。彼女も知っている。
小児科医の僕が外科ナースである彼女と一緒に働いたのには理由がある。小児科病棟の改装工事に伴い、患児を外科病棟で受け入れてもらったからだった。小児看護の経験がない外科ナースたちは未知の経験で大変だっただろうによく頑張ってくれた。中でも宮島さんは最初から自閉症児と相性が良く、僕や小児科スタッフは今後の成長が楽しみな人として彼女に注目した。
そのうち僕は彼女の素直さに惹かれ、笑顔で感謝された日にはこの恋を諦められないことを知った。そしてどうしようかと悩んだ。1年後、僕は地元に帰り、小児科のクリニックを開業する。ここのナースは優秀な人が多いけれど、転居させてまで連れて行くつもりはなかった。でも僕は宮島さんと離れたくない。僕の都合で転居させても良いのだろうか。
しかしその答えは案外早く出た。浅尾先生もまた、宮島さんが好きなことに気がついたから。浅尾先生と宮島さんは両想い。でも浅尾先生は宮島さんに医師と看護師の立場で接している。そう思っていたのに、誰もいない廊下で宮島さんの頭にポンッと優しく触れ、笑っている姿を見た。僕はどういうつもりかと浅尾先生と2人きりになってから問いかける。
「俺だってわかってるんですけどね…」
愛しいから触れたい。ただそれだけなのだと同じ人を好きだからこそ浅尾先生の気持ちがわかってしまった。
「浅尾先生も開業されるんですよね?彼女を引き抜いたんですか?」
「いいえ。彼女には相応しい場所がありますから」
小児科ナース。先生は口にしなかったけれど、宮島さんの小児看護は小児、家族、スタッフに至るまで期待されている。ナースステーションでも宮島さんの看護は度々話題になっていた。浅尾先生が知らないはずがない。浅尾先生は彼女の将来を見据えている。自分が既婚者である線引きでもあった。
「わかりました。僕が育てます」
宮島さんを僕のクリニックへ連れて行き育てよう。覚悟は決まった。

冬が終わる頃、小児科病棟の改装工事が終了して小児科はスタッフを含めて元の病棟へ。症状が比較的軽度だった外科患者やそれに伴い移動していた外科ナースが戻ってきて外科病棟は以前の状態に戻った。
病棟の引越しなどが落ち着いた頃、小児科と外科の合同の飲み会が開催された。僕は外科ナースに掴まり、宮島さんは小児科ナースに掴まり、浅尾先生も似たようなものだった。宮島さんと話せない飲み会がようやく終わって化粧室から出てきた彼女に声をかける。自宅の方向が一緒の僕は彼女を送って行くことになり、他の人は2次会へ流れていった。
声を顰めて雑談をしながら電車で隣に座る夢見心地な時間。飲み会ではあまり食べていないことがわかっていたから、〆にラーメンでも、と誘ってみたら了承してくれた。案内したのはラーメン店と標榜しつつも料理好きな店主が様々な創作料理を提供する小洒落た店。個室に通され、創作料理に舌鼓を打ち、〆のラーメンを食べて腹は満たされた。彼女もこの店を気に入ってくれたようだ。
僕は宮島さんへ小児看護を頑張ってくれたことへの労いと感謝を述べ、僕のクリニックで働いてもらえないかと誘い、理由も述べていく。宮島さんは自閉症児と相性が良い。それは小児に携わる者全てが欲しい能力だけど、簡単に持てるものではないこと。宮島さんは経験を積んでいけばより素敵な小児科ナースになれること。僕は小児科医目線で、宮島さんを小児科ナースとして育ててみたい。一緒に働きたい。僕の熱弁に彼女は瞳を丸くして驚いている。僕は彼女の表情に思わず笑ってしまって、彼女は不思議がった。わかりやすい。思っていることが全部表情に出る。だから子どもが安心するのかな。宮島さんはすぐに答えが出せないようだった。僕は「考えておいてね」と返事を保留にした。
ただ、彼女が僕しか知り合いのいない土地で、絶対に辛いこともある看護の仕事を続けられるか不安があるのはわかったから、一言付け加えた。
「僕はキミのことを絶対に守るし、力になるよ」
「…どうして…どうして佐々木先生は私にそんなに良くしてくださるんですか?」
「わからない?」
「はい」
コクンと頷く。可愛いな。ずっと可愛い。
「宮島さんが、僕のことをもっともっと知りたいと思ってくれたら、教えてあげるよ」
宮島さんの頬に手を伸ばし、驚いている瞳を見ながら頬から顎までするりと撫でる。暖かくて柔らかく滑らかな頬。触れてしまった。ずっと我慢できていたのに。
「本当は早く教えたいんだよ。宮島さんに」
宮島さんがゴクリと唾を飲み込む音がした。
「それから、考えてね。僕のクリニックのことも」
「…はい」

僕がクリニックへ勧誘して数週間後、彼女からNoと返事をされた。外科看護の経験を積んでいきたいからと伝えられた。本当は、僕の気持ちを知って、慮って断ったのだろう。自分のことを好きな人の元へ着いて行く。僕に期待を抱かせる行為を彼女は避けたのだ。彼女の優しさで。
そんなことを考えながら医局へ入ると、室内には浅尾先生1人だった。パソコンを開いて文献で調べものをしているようだったが顔を上げて僕を見た。そしてまた調べものに戻ろうとした先生に声をかけた。
「宮島さん、外科看護の経験を積んでいくそうですよ」
「………」
「残念です。一緒に働いて、宮島さんの成長を見たかったんですけどね」
浅尾先生の表情は変わらない。ポーカーフェイス。宮島さんの前ではあんなに笑顔になる人なのに。
「彼女は優しい人ですね。僕を傷つけない方法を選んだ。益々好きになってしまいました」
「…わかりますよ。俺も同じですから」
浅尾先生が微かに微笑んでパソコンを閉じる。浅尾先生は医局を後にした。僕は目を閉じて呟く。でも諦めきれないよ、と。

翌日から僕は2泊3日で研修に出かけた。帰京した夕方、土産品を持って病院へ行く。外科病棟のスタッフにも銘菓を買った。宮島さんに会えたら良いな。彼女の勤務を知らないまま、明日でも良い土産品を持っていそいそと外科病棟を歩く。
浅尾先生がエレベーターを使わずに足早に階段へ向かうのを見かけた。額を押さえ、表情が辛そうだ。体調不良ならエレベーターを使うはず。
---何かがあった。宮島さんと?僕は誰もいないナースステーションの奥にある休憩室の小窓をそっと覗き、彼女がひとり肩を震わせて泣いているのを見てしまった。胸が押し潰されるように痛い。どうすれば良い?そんなことを考える間もなく僕の身体は宮島さんへ向かう。
「ささき、せんせ…」
「出ようか。宮島さんは此処から離れた方が良い」
僕は宮島さんの腕を取って室内を見渡し、宮島さんのバッグを見つける。猫のチャームが付いたバッグはあの飲み会と同じ物。休憩室を出ると、看護師とぶつかりそうになる。研修土産を持って来たことを伝えて、ついでに紙袋2つのうちの1つを小児科病棟へ届けてほしいと依頼して、ナースステーションを後にする。宮島さんの手首を握ったまま。僕が宮島さんを好きなことは、あの飲み会で僕を取り囲んだ外科ナースの前で認めさせられた。だから周知の事実。
僕の車へ宮島さんを乗せ漸く手を離す。ナース服のまま連れて来てしまった。僕は自分のスプリングコートを宮島さんに羽織らせた。目の前には浅尾先生のセダン。僕は車を発進させる。宮島さんはハンカチを口に当て嗚咽を漏らさないように泣いている。益々胸が痛くなって、僕は運転しながら彼女の手を握った。
「ひとりで泣かないで。キミが泣くときは僕を呼んで。ずっと傍にいるから」
「ささきせんせい…」
「キミはいつも頑張っているよ。でも泣くのを我慢するほど頑張らなくても良いんだよ」
堪えきれない嗚咽が漏れる。

以前、浅尾先生に処置の見学をさせてもらったことがある。小児科でも成人でも行う処置の見学をして、小児科で何か取り入れられるものがあればと思っての行動だった。結果、処置自体は大した違いはなかったけれど、介助者に大きな違いがあった。常に浅尾先生が処置しやすいように手順以上に細やかな気配りで先読みして動く宮島さん。宮島さんが浅尾先生のために頑張っているのをヒシヒシと感じた。そうやってキミはいつも浅尾先生のために頑張ってきたのだろう。

コインパーキングを見つけた僕は駐車場の奥へ停車した。シートベルトを外し、彼女のベルトも外す。泣き続ける彼女を胸に導き、背中を摩る。処置が終わった子どもなら、看護師に預けるか母親に引き渡してよく頑張ったと頭を撫でれば良い。あとは母親が引き受けてくれるから。でも、宮島さんの涙は母親が慰められる涙じゃない。誰かがその役割を担わないと。今は僕が。否、この先もずっと。

「先生…優しすぎます…」
泣きながら彼女が小声で言う。
「うん。僕はキミが好きだからね。どうしようもなく優しくしたくなる」
僕の言葉をきっかけに言葉を発することもできなくなり、涙は後からあとから溢れて彼女自身で止められない。
僕は背中を摩り続ける。なけなしの理性の中で、抱きしめたいのを踏み止まる。
「宮島さんには負けたよ。僕は宮島さんが僕のことを好きになってくれてから、どうして僕が宮島さんに良くするのかっていう質問に答えるつもりだったのに」
小さく身体が揺れる。
「カラオケにでも行こうか。コインパーキングでずっとエンジン掛けっぱなしも迷惑だからさ。わかってると思うけど、帰りたいは無しだよ。キミはまた泣くだろうから」
頷いてくれたのを感じ取って身体を離す。目元が腫れている。親指でそっと両眼の涙を拭う。車から降り、僕のコートをボタンまで閉めてもらって、そして手を繋ぐ。宮島さんはおとなしく手を繋がれている。
「今日は日勤だった?明日は?」
「きょ…はにっきんで、あした、から2連休、です」
「良いなあ。僕は研修に出た分、仕事が溜まっちゃった。でも、僕は宮島さんを優先するよ」
遠慮しそうな宮島さんの先回りをしてひとりきりになることを潰していく。
「ささき先生…は、何もきかないんですね」
「訊かなくてもなんとなくはね」
「…先生に、何があっても佐々木先生が助けてくれるよって言われました…」
「そう…キミは外科を頑張る気でいるのにね。浅尾先生はキミのことが大切だから…浅尾先生の気持ちはわかるよ」
「…佐々木先生は絶対に誰のことも責めないですね。あたしは既婚者を好きになったのに」
「責められないよ。誰のことも。だってキミはただ好きで居るだけなんだから。敢えて言うなら、出会いが早ければ良かったのにねって言うことしかできないよ」
「ささき先生、やっぱり優しすぎます。泣ける」
「泣きなさい。幾らでも胸を貸すから」

カラオケルームで泣く彼女を抱きしめて、よしよしと後頭部を撫でる。

ひとりでは、泣かないで。
泣くのなら、僕の胸で。




泣かないで    2024/11/28-29 終わらせないで 関連作品

11/29/2024, 1:40:50 PM

昨年まで、冬のはじまりになると自宅をイルミネーションで飾りつける家があった。
家主のセンスが素晴らしかったのだろう。
古い平屋の木造家屋が、冬のはじまりからクリスマスまでは『サンタの家』に変わる。
我が家が勝手にサンタの家と呼んでいると思っていたら、小学校の同じクラスで聞いてみると、ほとんどの家でサンタの家と呼んでいることがわかった。
屋根にはサンタが座り、寝転び、トナカイに引かれたソリに乗る。外壁にはハシゴやロープがたくさん掛けられサンタが何人も登る。プレゼントが入った白い袋はぱんぱんで、大きな赤いソックスや赤白のステッキもあった。
庭にもサンタが隠れ、プレゼントが忍ばせてあった。
家主はサンタの飾りつけをしたその時期だけ「ご自由にどうぞ」と庭に入ることも許可していたから、その時期は庭を散策する人たちでいっも賑わっていた。

毎年、冬のはじまりになるとサンタの家へサンタに歩いて会いに行った。
冬のはじまりが暗くなるのは早い。
お母さんは陽が落ちる前に私たちと出かけられるよう、いつもよりも1時間くらい早く帰って来る。
夕陽で空が赤く染まって、サンタの家以外が夜の闇に溶け込むまで。
お母さんや妹と手を繋いで、夕陽を受けるサンタクロースが間接照明にサンタクロースが浮かび上がるまで見上げる。イルミネーションでキラキラ光る植木の間をサンタクロースを妹と探しながら歩く。
年に数回の夕刻から夜にかけてのお散歩が、私にとって特別な日だった。

中学生になると、友人とサンタの家へ出かけるようになった。
妹も行きたいと言ったけれど、妹は母と出かけるようにし向けて、私は友人とサンタの家へ出かけ、帰りのコンビニで話し込んでから夕食に間に合わない時間に帰宅して母をいつも心配させた。

高校生のときに、サンタの家は建て替えをした。
平屋の和風建築から2階建ての洋風建築へ。
家は明らかに大きくなり、庭は狭くなった。
和風家屋にサンタクロースがミスマッチで良かったのになあ。
私は失礼なことを思いながら、秋の風を感じながら新築されたその家屋を眺めた。

その冬のはじまりに、洋風建築のサンタの家が初お目見えした。
私の考えは浅はかだったと思い知らされた。
2階建ての屋根にはサンタやトナカイが乗っていたし、外壁にもハシゴをかけたサンタがいた。
電飾がより多く飾られ真っ白な光がキラキラ眩しいサンタの家はよりサンタクロースに相応しい家になっていた。
学校帰りの自転車を道路脇に停めて、その家を見上げながら私はスマホで撮影した。

次の年も冬のはじまりを楽しみにしていたけれど、クリスマス当日になっても、サンタが飾られることはなかった。
サンタの家を見学に来る人が多すぎて、違法駐車など交通の妨げになって危険だから、というのがその理由だった。
警察からそうお願いされれば従うしかなかったのだろう。

サンタの家の家主は何を思ったのだろう。
きっとイルミネーションの構想を練りながら新築しただろうに、もう2度と今まで通りのイルミネーションを飾ることができないなんて。

妹と夕陽に照らされたサンタのいない家を見つめる。
もう二度とこの家にサンタはやって来ないのだ。

「お姉ちゃん」
「ん?」
「うちもイルミネーションで飾ろうよ」
「良いけど…サンタの家みたいに素敵にはならないよ」
「そりゃそうだよ。この家は特別だもん」

妹はクリスマスカードを郵便受けに差し込んだ。
サンタの家の家主へ、これまでの感謝を伝えるはじめてのメッセージ。

「日曜日、お母さんにホームセンターへ連れて行ってもらおうよ。小遣いある?」
「少しだけ。お姉ちゃんは?」
「私も少し。100均にしようか」
「だね」

私たちは、来年の冬のはじまりに自宅をイルミネーションで飾り付けているのだろうか。
今年上手に飾り付けられれば、きっと飾り付けているはず。
でもそれはサンタの家に敵わない。
だって、『サンタの家』は、私たち家族にとって特別な思い出だから。





冬のはじまり

11/28/2024, 10:42:30 PM

あたしには好きな人がいる。
彼は年上の外科医で…既婚者。
好きなことに気づいたときには既に失恋していたわけだけど、あたしは全然構わなかった。彼のことを好きな人は大勢いて、あたしはその内のひとりで良くて、彼の特別な存在になりたいとは思わなかったから。
右も左もわからない新卒ナースも1年間働けば、なんとなく業務をこなせるようになった。処置の介助に入るときは医師のやりやすいようにと考えながら動く余裕もだんだんとでてきた。それが好きな人なら尚更注意を払う。
あたしは処置の手順に沿って、必要物品を先生が使いやすいように介助する。ちゃんとできたときは、「やりやすかったよ」と頭にポンッと手を乗せてくれるようになった。ひゃあ、と思いながら、笑みが溢れてしまわないように我慢する。でもときどきは先生にクスッと笑われることがあって、あたしが喜んでしまっているのがバレたのかもと焦っている。

それから数年後、先生は開業するからと同じ病棟のナースを数人引き抜きにかけた。あたしは、そのメンバーに入らなかった。同期は引き抜かれたのに。
あたしの実力不足だ。あたしは患者の状況報告が苦手だった。看護師にとっては致命的だ。
来年度から先生はいない。でも、ここで頑張ろう。あたしは先生に告白する勇気もないまま、あたしの恋心がバレているかを確かめることもせずに、相変わらず医師と看護師の関係で仕事をした。

その頃、外科病棟50床のうちの25床を小児科の子たちが入院していた。小児科病棟の改装工事のための一時的な子どもたちのお引越しだ。
元々は小児科ナースになるのが夢だったあたしは、未経験の小児看護で緊張しながら、小児病棟から一時的に配置換えになった先輩ナースの指導を受けながら業務を覚えていった。
子どもの病状が悪化するスピードは速い。けれど、回復スピードも驚くほど速い。驚異的に完治していく子どもたちに感嘆しながら、子どもたちに安心してもらえる看護をする。子どもたちの反応は素直で、笑顔が可愛くて、癒されながらの看護は楽しい。
外科と小児科の混合病棟は、しばらく半月間のローテーションでそれぞれの看護を行なっていたが、そのうちあたしは小児科の担当を多く割り振られるようになった。
好きな人と一緒に仕事をすることがなくなってしまったのは寂しいけど、同じ病棟だから、廊下やナースステーションですれ違ったり、一言二言会話することはできる。それだけでも楽しかった。

冬が終わる頃、小児科病棟の改装工事が終わり、子どもたちは小児科病棟へ戻って行った。症状の軽い外科の患者さんが外科病棟へ舞い戻って、最近まで小児科病棟だった雰囲気はなくなった。
寂しいけど、私は外科病棟で働いていた看護師。本当に残り少なくなった先生との仕事時間を有意義に過ごそうと考えていた。

そんなある日、あたしが日勤を終えてナースステーション奥の休憩室に入ると先客がいた。先生が1人、コーヒーを飲んでいた。
「仕事終わった?」
「はい」
「コーヒー、残ってるけど飲む?」
コーヒーメーカーには1人分のコーヒーが残っていた。残っているって言うし、良いかな?不意に訪れた先生とのコーヒータイムにドギマギしながら、「はい」と返事をしてマグカップを掴むと、先生がマグカップにコーヒーを注いでくれる。なんて贅沢な時間。どこに座ろうと考えた結果、広いテーブルの奥に座る先生の斜め前の席に座った。
暫く雑談をした後、先生が「宮島さん」とあたしの名前を呼んだ。
「はい」
「宮島さん、1年目はどうなることかと思ったけど、よく頑張ったよね。よく成長したよ」
不意に、とても優しい声で、暖かな瞳でそんなことを言うから。
驚いたのと恥ずかしいのと嬉しいのとで、あたしの感情が一気にぐちゃぐちゃになった。
「ありがとうな」
初めて聴く感謝の言葉に、俯いてるあたしはまだ顔を上げられない。あたしも「ありがとうございました」と言うべきだし、言いたいのに感情が昂りすぎて、今はまだ声が震えそうで言葉にできない。先生はあたしの沈黙をどう受け取ったのかはわからない。少し沈黙が続いた後、質問された。
「宮島さんは、子どもが好き?」
「え?はい。そうですね」
「好きです」が子どもへかかる言葉でも、先生に口にするのは気が引けるし恥ずかしい。あたしは「そうですね」と咄嗟に答えた。
「だと思ったよ。小児相手にしている宮島さん、楽しそうだったから」
「え?」
「わからないことがたくさんあって緊張もしてたんだろうけど、でも、イキイキしているなって見てて感じたからさ。外科でも頑張ってくれていたけど、小児科が合うんだろうなって思った」
「…ありがとうございます」
先生から離れていたと思っていたのに、先生は見ててくれていた。驚きと嬉しさと。外科で頑張っていたと言いつつも、小児科が合うと言われる寂しさ。……自分でも気づかなかったわけじゃないけど、でも、あたしは先生と共に仕事をするためにずっと外科で頑張ってきたのに。
「佐々木先生の誘いを断ったんだって?」
「えっ?あ…はい…」
「残念がっていたよ。宮島さんと一緒に働きたかったのにって」
佐々木先生は小児科医で、来年、小児科を開業する。あたしは佐々木先生に一緒に仕事をしたいと誘われていた。嬉しかった。まだ小児看護に触れて間もないあたしを認めてくれて、一緒に働きたいと思ってくれるほど伸びしろを感じてくれていることが。だから正直、この病院を辞めて佐々木先生の下で働こうか迷ったけれど、転職するために引っ越さなければいけないということがネックになった。佐々木先生しか知り合いのいない土地で、看護師として働く。絶対に辛いことが起きる看護師の仕事を、引越しまでしたら、すぐに辞めることができない。
「誰も知らない土地、新しい仕事って不安だよな。でもさ、宮島さんと3年一緒に働いて感じるのは、宮島さんは努力家で困難なことも逃げ出さずに継続して自分のモノにできる人だよ。小児科の宮島さん、いつも笑顔で良かったからさ。佐々木チルドレンクリニック、もう一度考えてみなよ」
「…先生は、あたしは外科よりも小児科の方が合うと思いますか?」
「…そうだね。子どもの接し方が上手だから」
先生が微笑む。先生とのお別れの時間が近づいている。あたしが知らなかった仲間として大切にしてくれていた時間の終わりがすぐそこに。
「わかりました。もう一度、考えます」
安心したように先生が笑った。
「何かあっても、佐々木先生が助けてくれるよ。宮島さんは、佐々木先生のお気に入りだから」
先生はあたしの頭をポンッといつもそうするように叩いた。
先生が首から提げた医療用のスマホが鳴る。
「カップ、洗いますよ」
「悪い。じゃあ」
先生は外科医として休憩室を颯爽と去っていった。

佐々木先生のお気に入り、そんな言葉を先生から聴きたくなかった。まだ終わらせたくないのに「これで終わりだよ」と先生から幕を下ろされたような気持ちになる。

先生、終わらせないでください。

あたしの瞳から涙が溢れた。




終わらせないで

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