あたしには好きな人がいる。
彼は年上の外科医で…既婚者。
好きなことに気づいたときには既に失恋していたわけだけど、あたしは全然構わなかった。彼のことを好きな人は大勢いて、あたしはその内のひとりで良くて、彼の特別な存在になりたいとは思わなかったから。
右も左もわからない新卒ナースも1年間働けば、なんとなく業務をこなせるようになった。処置の介助に入るときは医師のやりやすいようにと考えながら動く余裕もだんだんとでてきた。それが好きな人なら尚更注意を払う。
あたしは処置の手順に沿って、必要物品を先生が使いやすいように介助する。ちゃんとできたときは、「やりやすかったよ」と頭にポンッと手を乗せてくれるようになった。ひゃあ、と思いながら、笑みが溢れてしまわないように我慢する。でもときどきは先生にクスッと笑われることがあって、あたしが喜んでしまっているのがバレたのかもと焦っている。
それから数年後、先生は開業するからと同じ病棟のナースを数人引き抜きにかけた。あたしは、そのメンバーに入らなかった。同期は引き抜かれたのに。
あたしの実力不足だ。あたしは患者の状況報告が苦手だった。看護師にとっては致命的だ。
来年度から先生はいない。でも、ここで頑張ろう。あたしは先生に告白する勇気もないまま、あたしの恋心がバレているかを確かめることもせずに、相変わらず医師と看護師の関係で仕事をした。
その頃、外科病棟50床のうちの25床を小児科の子たちが入院していた。小児科病棟の改装工事のための一時的な子どもたちのお引越しだ。
元々は小児科ナースになるのが夢だったあたしは、未経験の小児看護で緊張しながら、小児病棟から一時的に配置換えになった先輩ナースの指導を受けながら業務を覚えていった。
子どもの病状が悪化するスピードは速い。けれど、回復スピードも驚くほど速い。驚異的に完治していく子どもたちに感嘆しながら、子どもたちに安心してもらえる看護をする。子どもたちの反応は素直で、笑顔が可愛くて、癒されながらの看護は楽しい。
外科と小児科の混合病棟は、しばらく半月間のローテーションでそれぞれの看護を行なっていたが、そのうちあたしは小児科の担当を多く割り振られるようになった。
好きな人と一緒に仕事をすることがなくなってしまったのは寂しいけど、同じ病棟だから、廊下やナースステーションですれ違ったり、一言二言会話することはできる。それだけでも楽しかった。
冬が終わる頃、小児科病棟の改装工事が終わり、子どもたちは小児科病棟へ戻って行った。症状の軽い外科の患者さんが外科病棟へ舞い戻って、最近まで小児科病棟だった雰囲気はなくなった。
寂しいけど、私は外科病棟で働いていた看護師。本当に残り少なくなった先生との仕事時間を有意義に過ごそうと考えていた。
そんなある日、あたしが日勤を終えてナースステーション奥の休憩室に入ると先客がいた。先生が1人、コーヒーを飲んでいた。
「仕事終わった?」
「はい」
「コーヒー、残ってるけど飲む?」
コーヒーメーカーには1人分のコーヒーが残っていた。残っているって言うし、良いかな?不意に訪れた先生とのコーヒータイムにドギマギしながら、「はい」と返事をしてマグカップを掴むと、先生がマグカップにコーヒーを注いでくれる。なんて贅沢な時間。どこに座ろうと考えた結果、広いテーブルの奥に座る先生の斜め前の席に座った。
暫く雑談をした後、先生が「宮島さん」とあたしの名前を呼んだ。
「はい」
「宮島さん、1年目はどうなることかと思ったけど、よく頑張ったよね。よく成長したよ」
不意に、とても優しい声で、暖かな瞳でそんなことを言うから。
驚いたのと恥ずかしいのと嬉しいのとで、あたしの感情が一気にぐちゃぐちゃになった。
「ありがとうな」
初めて聴く感謝の言葉に、俯いてるあたしはまだ顔を上げられない。あたしも「ありがとうございました」と言うべきだし、言いたいのに感情が昂りすぎて、今はまだ声が震えそうで言葉にできない。先生はあたしの沈黙をどう受け取ったのかはわからない。少し沈黙が続いた後、質問された。
「宮島さんは、子どもが好き?」
「え?はい。そうですね」
「好きです」が子どもへかかる言葉でも、先生に口にするのは気が引けるし恥ずかしい。あたしは「そうですね」と咄嗟に答えた。
「だと思ったよ。小児相手にしている宮島さん、楽しそうだったから」
「え?」
「わからないことがたくさんあって緊張もしてたんだろうけど、でも、イキイキしているなって見てて感じたからさ。外科でも頑張ってくれていたけど、小児科が合うんだろうなって思った」
「…ありがとうございます」
先生から離れていたと思っていたのに、先生は見ててくれていた。驚きと嬉しさと。外科で頑張っていたと言いつつも、小児科が合うと言われる寂しさ。……自分でも気づかなかったわけじゃないけど、でも、あたしは先生と共に仕事をするためにずっと外科で頑張ってきたのに。
「佐々木先生の誘いを断ったんだって?」
「えっ?あ…はい…」
「残念がっていたよ。宮島さんと一緒に働きたかったのにって」
佐々木先生は小児科医で、来年、小児科を開業する。あたしは佐々木先生に一緒に仕事をしたいと誘われていた。嬉しかった。まだ小児看護に触れて間もないあたしを認めてくれて、一緒に働きたいと思ってくれるほど伸びしろを感じてくれていることが。だから正直、この病院を辞めて佐々木先生の下で働こうか迷ったけれど、転職するために引っ越さなければいけないということがネックになった。佐々木先生しか知り合いのいない土地で、看護師として働く。絶対に辛いことが起きる看護師の仕事を、引越しまでしたら、すぐに辞めることができない。
「誰も知らない土地、新しい仕事って不安だよな。でもさ、宮島さんと3年一緒に働いて感じるのは、宮島さんは努力家で困難なことも逃げ出さずに継続して自分のモノにできる人だよ。小児科の宮島さん、いつも笑顔で良かったからさ。佐々木チルドレンクリニック、もう一度考えてみなよ」
「…先生は、あたしは外科よりも小児科の方が合うと思いますか?」
「…そうだね。子どもの接し方が上手だから」
先生が微笑む。先生とのお別れの時間が近づいている。あたしが知らなかった仲間として大切にしてくれていた時間の終わりがすぐそこに。
「わかりました。もう一度、考えます」
安心したように先生が笑った。
「何かあっても、佐々木先生が助けてくれるよ。宮島さんは、佐々木先生のお気に入りだから」
先生はあたしの頭をポンッといつもそうするように叩いた。
先生が首から提げた医療用のスマホが鳴る。
「カップ、洗いますよ」
「悪い。じゃあ」
先生は外科医として休憩室を颯爽と去っていった。
佐々木先生のお気に入り、そんな言葉を先生から聴きたくなかった。まだ終わらせたくないのに「これで終わりだよ」と先生から幕を下ろされたような気持ちになる。
先生、終わらせないでください。
あたしの瞳から涙が溢れた。
終わらせないで
11/28/2024, 10:42:30 PM