「寒さが身に染みて」
やけに早く目が覚めた。枕元の時計を見れば、まだ5時にもなっていない。カーテンの向こうはまだ夜のようで、街は暗く静まり返っている。いつもならこんな時間に目が覚めたとて、すぐに二度寝してしまうのだが、今日はやたらとスッキリと頭も目覚めていて再び眠ることが出来る気がしない。仕方がないので、早起きを堪能することにした。
寝室を出ると、暖房の効いていない廊下の寒さが身に染みて、身体の芯がキュッと縮まるような感覚がする。早足でリビングに入ると、暖かな空気が広がってホッとした。
ケトルにたっぷりの水を入れて火にかける。いつもはインスタントで済ませるところを、今日は豆を挽くところから丁寧にコーヒーを淹れることにした。
朝食には冷凍してあったクロワッサンを温めて、インスタントのスープも添える。最後まで丁寧に、を出来ないのはご愛嬌だ。
朝食を終えて、ソファでのんびりコーヒーを啜っているうちに、窓の向こうが明るくなってきた。カーテンを開けると、空の下からオレンジが広がってくる。薄い雲が淡く色付く。美しい日の出だ。この景色を見られただけでも、早く起きた甲斐があった。
「20歳」
成人式が近づいてきた一月上旬の週末。男は憂鬱な気持ちで家にいた。祖母と母がやたらと張り切って袴を用意しているのを見るとどんどんと気が滅入っていく。
『成人式の後、同窓会しようよ』
『いいね!どこ行く?』
『飲み行ってからカラオケとかでいいんじゃない』
『それアリ!さんせー』
『それじゃあ来れる人投票よろしくー!』
『はーい!絶対行く!!』
中学を卒業して以来ほとんど動いていなかったLINEグループからの通知がピロピロと止まらない。鬱陶しくなった男は傍らに置いていたスマホを手に取って、既読をつけないまま通知をオフにした。
成人式が行われるのは地元の施設だ。中学までは近くの公立校に通っていたが、高校は電車で通う程度の少し遠くに進学し、今は一人暮らしをして県外の大学に通っている男は、地元の友人とはすっかり疎遠になっていた。
そして成人式当日。式は午後からだが、男は昼前には袴に着替えさせられていた。
『あなたもついに成人したのねぇ』
『もう20歳なんて信じられないわ』
袴姿の男を見て、祖母と母が大興奮している。嬉しそうな顔で四方八方から写真をパシャパシャ撮られる。正直なところこれほどに喜んで貰えたならもう成人式の思い出としては十分でないかと男は思った。しかし、この様子の家族に今更成人式に行きたくないだなんて言える訳もなく、男は渋々成人式の会場へ向かった。
「久しぶり!元気だったか」
「あぁ、久しぶり」
「同窓会来るよな?」
「や、行かない」
「えぇ!なんで」
「家族で外食するんだ」
会場に着いて早々、男は名前も朧げな同級生から声を掛けられた。顔に見覚えはあるし、同窓会について聞いてきたのだから同じクラスだったのだろうがピンと来ない。名前を言わずになんとか会話を切り上げて、ひっそりとため息をついた。
憂鬱な成人式も始まって仕舞えばあっという間だ。うとうとしながらありがたいお話を聞いているうちに市長が最後の挨拶をしている。参加者全員で記念撮影をすれば、解散していいとアナウンスがあった。
俄かに会場が騒がしくなるのを他所目に、さっさと出口に向かう。ちらほらと掛けられる声に適当に返事をしながらも足は止めない。駐車場で迎えにきてくれていた父と合流する。会場の喧騒から離れられた安堵で、ようやく肩の力が取れた。
「三日月」
やけに暗い夜だった。雲一つない空にはポツポツと星が瞬いている。低い位置には三日月がポツンと浮かんでいて、ぼんやりと薄く光っていた。
その日は、男にとって厄日だった。朝はなぜだかアラームが鳴らなかったせいで遅刻してこっぴどく叱られた。寝坊のせいで朝食もろくに食べられず、昼休みまで空きっ腹を抱えて働く羽目になったし、昼休みは昼休みで後輩に泣き付かれたせいで落ち落ちと食事も出来なかった。
そんなわけでとっくに夜も更けた今まで、ろくに食べられないままだったのだ。空腹を通り越してもはや痛みを感じるまである胃を摩りつつ、ふらつく身体を引きずってどうにかここまで帰ってきたのだ。家まではあと五分ほど。暗い夜道に目を凝らし、先を急ぐ。
マンションの隙間から三日月が視界に入った。ぼんやりと光る月に視界を奪われる。月を見たまま、一歩、二歩足を進める。
視界が上になったせいで足元が疎かになったのか、男はふらついて電柱にぶつかった。額を強かに打ち付けた衝撃で蹲る。蹲る拍子に膝まで打ち付けたせいで足まで痛い。
月なんか見ていたせいだ。地面に這いつくばったまま、月を睨みつける。黒い空の上、三日月がニヤニヤと笑っていた。
「色とりどり」
そこは夢の世界、色とりどりの草木が豊かに育つ幻想郷。そこには、たくさんの動物たちが肉食も草食も関係なしに仲良く暮らしています。大きい動物、小さい動物、みんな協力して、野菜を育て、果物を育て、毎日のんびり生きています。そこに弱肉強食の摂理はなく、あるいは死の概念すら存在しません。まさしく、夢の世界です。
さて、そんな平和な世界に今日も一人、人間が迷い込んできました。
「……んん」
柔らかな緑の草原で、男は目を覚ましました。確かにベッドで眠りについたはずなのに、今背中に感じるのはチクチクとこそばゆい芝生です。暖かな日差しに再び瞼が落ちそうになるのをこじ開けて、男は身体を起こしました。
「?……どこだ。ここは」
身体を起こした男が辺りを見渡すと、そこには草原が広がっていました。どうやらなだらかな丘の中腹で寝ていたようで、少し遠くには整備された様子の林が見えます。
「いつまでもここにいても仕方がない」
誰か人がいると信じて、男は林へ向かうことにしました。立ち上がって自分の身体を見てみると、どうやら眠りについた時のままのようです。つまり、男は寝巻き姿だし、裸足でした。
幸い足元に広がる芝生は柔らかく、裸足で歩いても少しくすぐったいだけで痛くはありませんでした。それでも念のため足元を見ながら進んでいくと、あっという間に林に辿り着きました。
「おぉ、立派な樹だ」
林の入り口に辿り着いた男は辺りを見渡します。丁寧に世話をされたことがよくわかる生き生きとした樹々には、大きさも色もさまざまな果物がたわわに実っていました。
「お、林檎だ。こっちには蜜柑もある」
「……んん?あっちにあるのは桃か?」
季節感を無視して、そこにはありとあらゆる果物がありました。男が食べたことのあるものもないものも。男はあっちこっち歩き回っては果物を見てまわりました。春なのか秋なのか、夏なのか冬なのか、ここがどこなのか少しは分かるかと思っていた期待は裏切られ、ますます不安に駆られます。
「おや、おやすみなさい。迷子さん」
そこに声が聞こえました。よく聞き慣れた言語です。驚いて肩を跳ね上げた男は勢いよく声のした方向へ顔を向けました。しかしそこに人の姿は見えません。男は辺りを見渡しました。右、左、後ろ、もう一度前を見ても、そこには誰もいません。
「誰だ!?どこにいる!?」
「ここです。ここ」
男は声のした方を見ます。何もいません。
「そこじゃなくて、もう少し上ですよ」
「あぁ、行きすぎた。ちょっと下です」
「次は右に逸れました。戻って」
「やっと目が合いましたね」
ようやく見つけた声の主は小さなリスでした。艶やかな林檎の実を抱えて、枝の上に立っています。
「リスが……喋った!!?」
「わ!そんなに大きな声を出さないでください。ここは夢の世界。私たちもお喋りくらいするものです」
「夢の世界?」
「えぇ、あなたも眠ってここにきたんでしょう」
「どうやったら帰れるんだ!?」
「何もせずとも自然と帰れますよ」
リスは穏やかな声で男に説明をしました。ここは夢の世界であること。動物たちが仲良く暮らしていること。稀に眠っている人間の意識が迷い込んでくること。迷い込んだ人間はそのうち自然と消えていくこと。それはきっと現実世界での目覚めだということ。迷い込んできた人間を動物たちは迷子と呼んでいること。
「大きな迷子さんを見つけたのは久しぶりですねぇ。迷子さんは子供の方が多いんです」
説明を終えたリスは男を上から下からじっくりと観察しました。リスから見ると男は随分と大きくて、それから随分と登りにくそうでした。なんせ毛は頭にしか生えていないし、柔らかくてスベスベした服を着ているせいで掴めるところもなさそうなのです。それに脚も腕も細くて弱々しく見えました。仲良しの熊さんの方が、よっぽど安定していて落ち着くだろうと思いました。
リスの説明を飲み込むのに苦労している男をよそに、リスはのんびりと林檎を齧っていました。たくさん話して喉が渇いたのでしょうか。しゃくしゃくシャリシャリ、小気味良い音がして、男は自分が空腹であることに気がつきました。リスの言うことを信じると、ここは夢の中で何もせずとも時間がくれば帰れるらしいのです。
なんとか理解してほっとすると、途端にさっき見た果物が気になってきました。先ほどは季節感を無視している植生にばかり目がいって不気味でしたが、よく見なくてもどれもとても立派で美味しそうだったのです。男は最近どうにも忙しく、新鮮な果物などいつ食べたか、というところでした。
「おひとついかがですか。ここの果物はどれもとっても美味しいですよ」
「え……いいのか」
「えぇ、どれでもお好きなのをどうぞ。あなた一人くらいがお腹いっぱいになるまで食べたって無くなりやしませんよ」
「それなら……遠慮なく」
リスに勧められた男はまず林檎に手をつけました。リスが随分美味しそうに食べるので、自分も食べたくなったのです。ツヤツヤと輝いている色の濃い真っ赤な林檎を選んで手を伸ばします。実を掴んでグイッと捻ると簡単に収穫出来ました。
表面を軽く拭ってかぶりつきます。パンと張った皮がパリッと音を立てました。果実は水分をたっぷり含んでみずみずしく、口の中いっぱいに甘酸っぱい果汁が広がります。草原で目覚めてから、不安や緊張でカラカラだった喉が癒やされていくようでした。
それからしばらく、男は夢中で果物を食べました。林檎を食べ終えたら蜜柑。その次は桃。さくらんぼに梨。バナナ、葡萄。ザクロなんかもありました。時々リスにも食べてもらうことで、たくさんの種類を少しずつ。時間も忘れて食べるうちに、男はようやく満腹になりました。
「あぁ、もう食べれない」
「たくさん食べましたねぇ。満足しましたか」
大きくなったお腹を抱えて、地面に腰をつけます。初めにリスがいた樹にもたれて座ると、リスがスルスルと樹から降りて膝に乗ってきました。
「満腹になるとなんだか眠くなってきた……」
「おや、もうお帰りですか。おはようございます」
暖かな木漏れ日の中で男は目を閉じました。とろとろと意識が溶けるように落ちていきます。リスの声が遠くに聞こえたような気がしました。
ピピピピ。ピピピピ。
うるさいアラームの音で男は目を覚ましました。いつものベッド、いつもの天井。やけにお腹が空いていました。無性に果物が食べたい気分です。
「なんか、変な夢を見た気がする……」
「雪」
雪の降る夜。郊外のアパートの一室。四人用のテーブルに向かい合って座る二人の男がいた。
「兄さん、オレ、進学はせずに就職する」
高校三年の弟が言った。向かいに座る八つ年上の兄は、ちょうど今の弟と同じ歳の頃に両親を失い、大学進学を諦めた。その頃まだ十歳だった弟は、頭の良かった兄が進学を辞めることを決めた時の顔をよく覚えている。大切な何かを諦めた顔を。
突然に両親を失った兄弟はあまりに無力だった。親戚に二人を引き取って育てる余裕のある家庭はなく、兄は施設に入れる年齢ではなかった。二人が引き離されずに済む方法は、兄が弟を養うことだけだったのだ。両親の残した遺産は多少あれど、二人分の学費と生活費を考えると、到底充分とは言えなかった。
やりたかったことを諦めて、がむしゃらに働き自分を養ってくれる兄を一番近くで見てきた弟としては、少しでも早く就職することで、兄に自由を与えたかった。兄は事ある毎に大学には行け、勉強しろ、と言ってきていたが、弟としてはこれ以上兄へ負担をかけるのは嫌だったのだ。
「……は?」
兄は低く唸るように一言だけ声に出した。
「俺はずっと大学に進めって言ってたよな。お前もこれまでは進学するって言ってたじゃないか。」
「……ごめん。でもやっぱりこれ以上兄さんに負担をかけたくない。」
「なんで!!お前の学費は父さんたちの残してくれたお金を貯めてあるから、心配要らないって!」
「近くの大学はオレにはレベルが高すぎるし、地方で一人暮らしするとなると家賃もかかるだろ。そんなに勉強したいこともないしさ。」
弟の言葉を聞いた兄は声を荒げた。弟は一つ深呼吸をしてから、なるべく落ち着いた声で説明をする。
「オレに金が掛からなくなったら、兄さんも好きな事できるだろ。ほら、仕事辞めて大学入るとか。」
「はぁ!?なんで、今更!!俺はお前の将来を思って……!!」
「そもそもオレ、そんなに勉強好きじゃないし。兄さんが行った方が世の中のためになると思う。」
弟はずっと、兄が自分を殺して、弟のためだけに生きてきたことを憂いていた。少しでも早く自立して、兄にも自分を大切にして欲しいと思っていたのだ。それに、兄は昔から勉強が好きだったけど弟はそれほどでもない。兄に心配をかけない程度にはやってきたつもりだが、大学に入ってまで勉強したいと思えるようなことはなかった。弟が進学するよりも、頭の良い兄がした方がよっぽど世の為になるだろうとも思っていた。
「今はお前のことを話してるんだ。俺のことはいい。」
はぁっと深いため息をついた兄が、頭を冷やしてくると言ってベランダに出た。窓の向こうでタバコを吸う兄を見つめる。兄の横顔とタバコの煙の向こうに、チラチラと雪が舞っているのが見えた。
「……どうして分かってくれないんだろうな。」