「遠い日のぬくもり」
おばあちゃんちのこたつ。野菜たっぷりのお鍋。乾燥機がかけられたふかふかの布団。
冬になると思い出す、遠い日のぬくもり。
子供の頃、冬休みはおばあちゃんの家で過ごしたことを思い出す。実家には無かったこたつ。灯油のストーブ。田舎の古い家は隙間風が多くて、あんまりエアコンも使わないから、どの部屋もどこか寒かった。お行儀悪く肩までこたつに潜り込むともう出られなくて、一日中殆どの時間をこたつで過ごしては、逆上せていた。
もう住む人の居ないあの田舎の家は、今は潰されて更地になって売りに出されている。駅も学校もスーパーも絶妙に遠くて、少し不便な田舎の土地は中々買い手が付かないみたいで、今もまだ土地の権利はウチにあるらしい。
夏は暑くて冬は寒い。日本の四季をこれでもか、と体感させてくるあの家が、大好きだったかと言われるとそうではない。それでも、思い出の中にはいつまでもあの頃のぬくもりが残っていて、もう無くなったのかと思うと、少し寂しい気持ちになる。
冬になる度に思い出す、隙間風で寒かったあの家の、暖かいぬくもり。いつかこれも忘れてしまう日がくるのだろうけど、今はまだ心の中に大事に取って置くことにする。
「揺れるキャンドル」
年の瀬。忙しなく働いて、心も身体も疲弊する。ようやくやってきた束の間の休日にはしっかりとリラックスして疲労回復に努めたい。
自分では買わないけれど、ギフトで時々貰うものにアロマキャンドルがある。火を付けなくても良い香りで落ち着くけれど、火を付けて、正しくキャンドルとしての役割を果たしてもらうと部屋が途端に特別な空間になる。
お風呂もご飯も済ませて、あとは眠るだけの21時。大きめのマグカップにたっぷりと暖かいハーブティーを入れる。カフェインは精神を興奮させるから、疲労回復させたい日にはよくない。アロマキャンドルに火をつけると、部屋の中に香りが広がった。
部屋の明かりを落として、薄暗くする。テレビもスマホも消して、キャンドルに集中する。何も考えずに、揺れるキャンドルを眺める。ゆらゆらと小さな炎が踊る。蝋がとろとろと蕩けていく。頭がぼんやりとしてきて、心が空っぽになる。
「あ……」
手に取ったマグカップが空っぽになったことで思考が現実に戻ってきた。キャンドルの小さな炎から視線を外す。テレビ台に置いた時計を見ると、22時。一時間も経っていたなんて気が付かなかった。
不思議と頭はスッキリしていて、最近の心のモヤモヤもマシになった気がする。今日はよく眠れそうだ。
「光の回廊」
十二月も後半に入った。今年の終わりもすぐそこまで迫ってきている。街はクリスマスに乗っ取られて、あらゆる所がイルミネーションで彩られた光の回廊と化している。
クリスマス。キリスト教の降誕祭。イエス・キリストが産まれたことを祝う日。日本においては由来なんて気にせずにサンタクロースの訪れを楽しんだり、恋人同士が愛を確かめ合ったりする方が一般的だ。ちなみにフィンランドにはサンタクロース協会という組織があって、そこには公認サンタクロースが所属している、というのは知る人ぞ知る事実である。
サンタクロースの真実を知って、サンタクロースの訪れがなくなって幾年か。恋人もいないとなるとクリスマスの訪れを感じるのは街のラッピングくらいだ。あちこちにあるイルミネーションは年々派手さを増すようで、ライトアップが映えるような時間まで働いた後の目には沁みる。色とりどりの電気を見て、感じることが電気代の心配になってしまった寂しい大人としては、クリスマスも年末の繁忙期の一日に過ぎない。
曜日感覚も失うような慌ただしい日常の中で、クリスマスイブに残業をせずに済んだのは、他の社員皆に大切な予定があるからだ。残業なんてしてたまるか、といつになく仕事に集中する同僚が多かったおかげで、予定のない寂しい私も定時で退勤できたのだから、浮ついたイベントにも感謝すべきなのかもしれない。
この時期には珍しく早くに帰宅できたけれど、外食するには肩身が狭い。夕食はいつも通り冷凍ストックを使った鍋にすることにして、折角だからたまにはゆっくりお風呂にでも入って自分を甘やかすことにする。貰い物のバスボムを使って熱めのお風呂でのんびりと。脱衣所に置いたスマホから流れるクラシックが、心の緊張もほぐしてくれて、久しぶりに心も身体も温まった気がした。
聖夜に考えることでもないかもしれないけれど、結局自分を一番に大切にできるのは自分だ。愛も恋もなくたって、サンタクロースが来なくたって、毎日それなりに幸せにやっていける。数日前に届いて、見て見ぬフリをしていた、母親からの『そろそろ結婚とか考えてるの?』なんていう耳に痛い連絡に、そろそろ返信しようと思えた。
『流石のサンタクロースも私以上に私を大切にしてくれる人を届けるのは無理だったみたい』
『一人でも充分幸せだから心配しないで』
「降り積もる思い」
小学校で教わったこと。
チクチク言葉は使わない。
ふわふわ言葉を心掛ける。
自分が言われたら嫌なことは言わない。
自分は嫌じゃなくても相手が嫌かも知れないと思うことは言わない。
口に出す前に一呼吸考える。
素直で柔らかい子供の心にしっかり染み込んで定着した教えは、私から口数を減らした。話すことが怖くなった。
言葉は伝える側よりも受け取る側の方が優位だ。傷付けようという意図が一欠片もなくったって、受け取る誰かが傷付いたら、それはその言葉を発した方が悪いことになる。どれだけ言葉を尽くしても一部を切り取られて、誤解されたら。
沈黙は金。雄弁は銀。
私は誰にも誤解されたくなかったし、誰のことも傷付けたくなかった。思ったことを一切の誤解なく伝えるほどの言語力はないし、心の全てを開示する勇気もなかった。
意見が違うというだけで否定された気分になって傷付く人がいることを知った。そういう人に限って、自分の意見を言うのが得意で、悲しみや怒りの感情を露わにすることも得意だった。
否定されるのが悲しいことはよく分かる。私に否定したつもりがなくても、否定されたと感じられた時点で私が加害者だった。話すことが怖くなった。
言葉を飲み込むことが癖になって、心の底に吐き出せない思いが降り積もった。重なって堆積した思いは硬くなって、元がどんな形だったのか分からなくなった。どんどん心が硬く、重くなって、苦しくなった。吐き出さないと、と思った。
話すことは怖いから、書き出すことにした。文字は良い。読みたくなければすぐに読むことを中断できるから。聞かせるのは簡単で、読ませるのは難しい。読みたい人しか読まないという事実は私の筆を進ませた。話すことは怖くって、書くことは楽しい。
私は口を慎むけれど、言葉を惜しむのは嫌だ。私は筆を執って、言葉を尽くすことにした。
心に降り積もった思いを少しずつ。丁寧に掬い上げて。どこかにいるあなたに届けば良い。
「時を結ぶリボン」
歴史の年表を覚えるのが昔から苦手だった。教科書の最後の方のページに付録みたいに付いているバラララと開く年表。殆ど存在すら忘れたまま卒業してしまった。
紀元前から令和の今まで、過去から今を通って未来まで、時を結ぶリボンのように長く紡がれた歴史。その美しさとか尊さとか、そういう何かを受け取る感性が育ったのは最近で。もっと真面目に授業を受けていれば良かったなんて、遅過ぎる後悔だ。
怠惰で無為にただ生きてきただけの私の人生を紡いだとして、それはきっと細くて頼りない糸にしかならないだろう。そんな私もただ生きているだけでこの時代を形作る一員で、つまり、いつか歴史というリボンの中に紡ぎ込まれて小さな模様の一欠片くらいにはなれるのかもしれない。それならせめてほんの少しでも、未来でリボンを手に取る誰かの、心に残るような、そんな彩りになりたい。
そんなことをふと思った。