「手のひらの贈り物」
夢を見た。子供の頃の夢。ちっちゃな私がお母さんに何かを渡してるシーン。何を渡してたのかは忘れてしまった。というよりもそんなことがあったってことすら夢を見るまで忘れていたくらいだ。
小さな私の小さな手のひらに収まるような小さな贈り物を受け取った母がどんな顔をしていたのか覚えていない。もしかしたらそもそも見ていないのかも知れない。恥ずかしがって俯いていたのか、あるいは母に抱きついたりしていたのかも。
そんなことを思い出したのは多分、年末の大掃除の最中に子供の頃に作った工作とか夏休みの宿題で書かされた絵とかが全部丁寧に保存されているのを見つけたせいだ。宿題を早く済ませるって点でだけ真面目だった私がやっつけで完成させた適当な作品が十年以上も残されているのが恥ずかしくって捨ててしまいたい。こんな、心の一欠片もこもっていない、やらされただけのガラクタだ。そんなものすら親にとっては宝物なのかも知れない、なんて気づいてしまって、きっと照れくさいってこういう感情をいう。
私はもう覚えていない、あの日の手のひらの贈り物も、きっとこの家のどこかに大切に仕舞われているんだろう。なんだか無性に親孝行がしたくなった。贈り物をしよう。誕生日も母の日も待たなくって良い。何かの理由がなくても、母は今でも私からの贈り物を大切にしてくれるはずだから。
「心の片隅で」
なんでもないよ、が口癖になったのはいつだったっけ。口数少ないね、って言われるようになったのはいつからだったか。
昔はもっとお喋りでその日の出来事とか好きなものとか、あるいは嫌なこととか、なんだって話していた気がするのに。いつからか全部飲み込むのが癖になって、相槌ばっかり上手になってしまった。
自分の心の中を見られるのが怖くなったのはきっと悲しいことがあったからだ。一生懸命話したことに「へぇ。それが?」なんてそっけない反応ばっかり返されたら話すのだって嫌になる。楽しかったことを伝えて「そんなのが?」なんて言われてしまったらもう。好きなものも嬉しかったことも話せなくなってしまった。嫌だったことを愚痴って「そんなことで?」なんて。
誰に言われたのか、いつ言われたのか、なんの話題だったのか、そんなことはもう覚えていなくて、本当にそんな風に言われたことがあったのかすらあやふやだ。記憶力の良かったはずの私の記憶に残っていないことこそが忘れようとした防衛反応だったのかも知れない。っていうのは流石に被害妄想が過ぎるのかな。共感も理解もしてもらえなかったいつかの私の傷はもうとっくに治ってると思ってたけど、まだまだ完治なんて程遠かったみたいだ。
「どうしたの?なんか嫌なことあった?」
そっと寄り添ってくれる君の顔が心配に染まっているのに気がついた。
「なんでもないよ」
それでも口から出るのはいつも通りのこの言葉で、心の片隅で無邪気でお喋りだった子供の頃の私が泣きじゃくっているのにも、気がついていながら目を背けた。
「雪の静寂」
トンネルを抜けたら雪国だった。そんな感じの一節が出てくる小説があったような気がする。SNSで流れてくるネットミームで構成された知識は最早知識なんて言えそうもないけれど、情報の消費に慣れたこの脳は質より量を求めてしまうので、いつまで経ってもSNSの中毒から逃れられそうもなかった。
暖かいこの土地で、雪が積もっているのを見るのは久しぶりだ。確か小学生くらいの時に一度雪遊びが出来るくらいに積もったことがあったような。
朝の冷え込みが一段ときつく、布団から出るのに大いなる覚悟が必要だったのは決して気のせいなんかではなく積雪のせいだったのかと気づくことができたのはゴミ出しのために外に出たからだった。
道路一面に積もった雪は真っ白で未だ誰の足跡もついていない純白だった。柔らかくふかふかとした新雪は音を飲み込むようで、辺りはシンと静寂に包まれていた。すぐ近くにある踏切の音がやけに遠く、小さく感じる。雪というものはどうしてこんなにも音を吸収するのだろうか。
まるで世界にたった一人になってしまったのかと思ってしまうような静けさがゴミ出しに来たお隣さんの挨拶で壊されて、世界に音が戻って来た。さっきの少し恐ろしさを感じるほどの孤独感は消えて、そこには安堵と少しの淋しさが残っていた。