すごい雨だなあ、だなんて思っていたときだった。いつ止むのかなあとか早く止んでほしいなとか、そんなことを思い描きながら、ぼんやり雨の灰色の空を見上げたとき。
街灯の上に、鳥がとまっていた。
じっとうつむいて、その姿はくろくくろく、濡れそぼってほそくほそくなっていった。
そんなところにいたら危ないよ。声をかけても、雨音で聞こえるわけも、ひとの言葉を解するわけもない。
そんなんじゃ飛べないでしょ。なんて、傘の下からのうのうと、声をかけても、聞こえてもわかっても、鳥は動かないのだとなんとなく察せられた。
そういうときだったのだろう。自分がそういうときになってわかる。うるせえよと。
「雨に佇む」
小学生の頃、親から「あんたは糸の切れた風船だ」とよく言われていた。知らないうちにどこかへふらふら行ってしまうからだそうで、良い気持ちはしなかった。しなかったけど、笑ってやり過ごしていた。
どうしてどこかへ行ってしまうのか考えたりはしないのかな、とは思った。家にいてもつまらないし、世の中には自分が知らないだけで楽しいことがたくさんあるのだと思っていた。自分以外の外の人はみんなそれを知っているんだって気がしていた。でも、どうやってそれを知ったらいいのかはわからなかった。
だからいつも安全ぽい範囲をぐるぐるして、今にして思えばふらふらしていた。小学生の行動範囲なんて大したことないんだから、そんなに楽しいことが転がっているわけもない。
そういうとき、いつも自分が空っぽな気がして、すうすうした。でも、その分身体が軽かったような気もした。
どうせなら風船じゃなくて鳥に例えてくれればよかったのに。どうせ家には帰ってくるんだからさ。鳩じゃん。
「鳥のように」
己の成したことを自慢に思うとき、同時に胸に隙間風が吹く。
このトロフィーに刻まれた名前は自分のことであるはずなのに、苦さと辛さから記憶を離してみれば、自分のことではないかのようだ。
雨粒が窓を強く叩いている。こんな夜はすぐ眠ってしまうべきだ。苦い酒を舐めながら古いトロフィーを撫でるなんてことは、みじめったらしくて仕方がない。
「誇らしさ」
「わたし、あなたがきらいよ」
焚き火から逃げるみたいに歩いていった三角帽子の魔女が、振り返りもしないで言った。
わかってる。これは本心じゃない。本気でこっちを突き放したいんじゃない。それでも付いてくるのか試していて、とにかく甘え下手ってことなのだ。
「はい、あたしも嫌いですよ。ノシアさんのそういう素直じゃなくて意地悪なところ」
ノシアが振り返る。三角帽子の陰から、あおい眼がびりりと輝いている。
無謀な旅をする年端もいかない少女と少年と、なにかと理屈をつけて格安で雇われてくれる頑強な傭兵、たまたま危ないところを助けてもらえた狩人のあたし。そんな一行に参謀として参加してくれた孤高の魔女は辛い過去を持っていて、だからとても気難しい。
「あなたは……いつもそうやって……」
いつもなら無視するのに、今回は違った。ノシアは決意めいた眼を揺らがせて、なにか言葉を探している。
なにか伝えたいこと? 相談?
話があるふうだなとは思った。目が合ってから立ち上がったし、あとの三人にも気取られないようにしていた。
しつこくつきまとうなとか、そういう感じを想像していた。だから、ちょっと冗談めかして、それから謝るつもりでいた。
のだけど、ちょっと違う。ノシアはぎこちなく、つっけんどんだけど、思いやりめいたものを感じる。
「あなたにも、あるでしょう、いろいろと。それなのにそうやって、人のことばかり」
「え、あの?」
別にノシアの過去に踏み込んだことはない。あたしだって踏み込んでほしくないから。そうやって気をつけてきたはずだ。完璧に。
「あなた、海のことにとても詳しいのね。こうやってわたしを追いかけてきても、砂に足を取られることもない」
「あの?」
確かに、少年たちにはペラペラと海について話しすぎたかもしれない。でも常識ぐらいのことだ。
「あなたは、海を見ない。日が落ちてから一度も」
「そんなことはないです」
暴くような物言いに、あたしも語気が強くなった。
「ごめんなさい。暴き立てたいわけではないの。ただ、それほどのことがあるなら、ここは嫌だと言って」
もっと柔らかく言うことはできないのだろうか。かたい眼と口と、睨めあげる様はなんだか喧嘩を売られているみたいだ。
「ノシアさんは、かわいいですね」
ノシアはかちこちに固まった。あたしもなんてことを言ったんだろう。だってかわいいと思ったんだ。怖くてたまらなかった夜の海で、向き合うこともできない怯えの中で、この人はあたしより小さいのに年上で、それなのに人と関わることには幼稚で、それでいて、心配してくれる。あたしを。
「あたし、夜の海が怖いんです。だって、のっぺりして、深くて、どこまで行くんだかわからないじゃないですか」
それに、すごく嫌な目にあって。でもそんなことは、今は話さないままでいい。今のところは。
「夜の海」
自転車に乗るのなんて何年振りだろう。
グーグルマップで条件を変えて何度検索を繰り返しても、ここから先は徒歩もしくは配車サービスを利用するしかない。それか、コンビニで奇跡的に残っていた最後の一台のレンタルサイクルを借りていくかだ。
問題は二つ。この自転車を返すことのできるスポットにこの先出会うことができるのかということ。私が自転車に乗ることができるかということ。
三十分は悩んだが仕方がない。自転車を借りた。スマホの充電も怪しいので切れる前にモバイルバッテリーも借りておく。めちゃくちゃ暑いので飲み物も買う。
前に乗ったのがいつだったか思い出せない。ふらふらして危ないからと、高校の通学に使わせてもらえなかったのだ。その頃から計算すると、もう二十年近く乗っていないことになる。
乗れないなんてことはない。ちょっとは転ぶかもしれないけど、車通りも少ない田舎道だ。誰に見られることもない。
またがって、サドルを下げるのにしばらく苦労した。ようやく足が付くようになって、よし、出発。
ペダルを踏むと、前に進む。思ったよりすごく軽い。道に出るのにぐらぐらしたけど、道に出てからは安定した。まっすぐだから。なんと電動自転車だ。すごい。こんなに軽くてぐんぐん進む。どこまでも進んでいけそうだ。
もっと、もっと行けそう、行きたい、と調子に乗っていたところで目的地に着いた。観光地らしい広い駐車場には観光バスが何台も停まっているし乗用車もギチギチ。え、こんなに人どこから出てきた?
見回すと駐車場は見当たらないし、そのくせレンタルサイクルのステーションはいっぱいだった。
自転車返せないし、停められそうにないし、え、これここまんま中入るの? 神社なのに?
ひと通り戸惑った後、神社の様子を見てみる。本殿までがものすごく長くて、半ば公演になっているような境内。
あれ、いけそうだな。
そろそろ、自転車を押して、一歩踏み込んでみる。
「自転車に乗って」