凍える朝
12月。ここは東京都心、某所にあるお屋敷。
昨日の夜から降り続いていた雨は何時からか雪に変わり、朝には街を白く彩りつつあった。
すきま風一つ作らない現代の建築技術を持ってしても自然の力には勝てず。
室内の温度計は零度近い値を示していた。
そんなとある朝。
起こしに来たメイドと、ベッドの中で布団を被るお嬢様――ジルとアメリアの攻防が始まっていた。
「『布団』とは、神が与えたもうた地上に残る最後の楽園……」
寝言を言って再び眠ろうとするアメリアの布団をメイドのジルが力ずくで引き剥がす。
「あああ……寒いいい……神よ、御許しを……」
「HEY! バカなこと言ってないでさっさと起きてくださいよ! 遅刻しますよ!!」
実際、もう時間はギリギリだ。
今すぐこの怠惰なお嬢様を部屋の窓から叩き出したとしても、猶予があるか保証出来ないぐらいには。
こんなことなら三十分前でなく一時間前に起こしにくれば良かった、とジルは後悔した。
「あと五分寝ても、着替えと歯磨きと朝食を同時にやりながらバスに乗れば間に合うわよ。 大体こんな寒さじゃ今頃はサンタクロースだって暖炉の前でのんびりピザでも食べてるわ……」
アメリアが身を縮めながら呻く。
「……OK、分かりましたアメリアお嬢様」
そう言って早足で部屋を出たジルは、一分後にバケツを抱えて戻って来た。
「バケツに水を汲んできました。 これならバッチリ目が覚めますでしょう」
そう言ってジルは最終手段とばかりに、本当にアメリアに向かってたっぷりの水が入ったバケツを振り被り――。
「わかった、わかったわよ! 起きた! バッチリ目が覚めたから、その水は風呂場に捨ててきてちょうだい」
その様子を見て、流石にアメリアも飛び起きた。
「Good morning。 白雪姫。 今度からは声を掛けたらすぐにちゃんと起きてくださいね? OK?」
「Okey dokey……。 次からはkissで起こしなさいよ。 あんな起こされ方したら永眠しちゃうわ」
アメリアは文句を言いながらパジャマを脱いで忙しく制服に着替える。
何故か部屋のテレビはついておらず――古くさいラジオから流れるノイズだらけの『防災情報』だけが大音量で流れ続けていた。
ヘリの音が少し遠くから聞こえる。
どうやら――『お迎え』が到着したらしい。
ジルは、一旦、準備をしてきます。と言って部屋を出ていった。
その間、アメリアはリュックサックの中身を点検し、忘れ物がないかチェックを済ませる。
そして、アメリアが最後の仕上げに髪を結び終わった――その瞬間だった。
けたたましく部屋の窓ガラスが割れて吹き飛び――かつて『人間だったもの』達が雪崩れ込んで来る。
腐臭とともに咆哮をあげて、何十体ものアンデット達がアメリアに向かって襲い掛かって来た。
アメリアは後ろに飛び下がりながら、ベッドシーツ下に隠していた二丁のグロック19を回収しアンデットに向ける。
「“Sweet Dreams(良い夢を)“」
激しいマズルフラッシュと発砲音が部屋に何度も響き渡る。
弾幕を抜けた一体がアメリアに迫る――が、その手がアメリアを捉える前に、戻って来たジルがAK47の正確無比な一撃でアンデットの頭を吹き飛ばした。
「お嬢様! こっちです!! 急いで!!」
「遅いわよジル! ああもう、せっかく着替えたのに台無しよ!!」
アメリアは用意していたリュックサックを引っ掴み、アンデットの『色々なあれそれ』が点々と付いた制服をハンカチでひっ叩きながら愚痴る。
「すみません、『化粧直し』に時間がかかってしまいまして」
――手にはAK。背中にはCA870が一丁。オマケで腰のベルトには手榴弾がアクセサリーのように大量にぶら下がっている。
背中のナップサックには恐らくマガジンや缶詰その他……。
一個中隊を一人で相手する気なのか、と言いたくなるような重武装だった。
「いいわ、さっさと行きましょう」
アメリアとジルは屋敷の出口に向かい全力疾走する。
屋敷の中にはどこからか侵入したアンデットが徘徊し道を塞いでくる。
先頭を走るジルがセレクターをセミからオートに切り替えたAKで掃討し、道を開く。
玄関を開けると、そこには雪の中を歩き回るアンデットの群れが待っていた。
「Wow、大歓迎ね。 合流地点は……確かあのビルの屋上だったわね!」
「yes。 さあ、走りましょうお嬢様! 置いていかれたら……私たちも『彼ら』の仲間入りです」
「笑えないわね。 まあ、そうなるつもりはないけど」
アメリアとジルは、アンデット達を蹴散らしながらヘリの待つビルへと急ぐ――。
その時、突如として街全体に黒電話のようなベルがけたたましく鳴り響く。
瞬間。眩ゆい閃光が辺りを包み、何もかもを呑み込んで――。
「……んあ?」
アメリアが目を覚ますと、そこはいつもの――何の変哲もない普通のアパートの自室だった。
枕元には食べ終えたピザの空箱と昨日開けた空のビール缶が何本も転がっており、テレビはつけっぱなしだった。
「……寒っ」
アメリアは、ぶるっと身震いする。
窓の外は、いつの間にか降り始めた雪が街を白く染め上げていた。
――なんか、すごい夢を見た気がするのだけど……。何だったかしら。
大抵夢は起きてすぐに忘れてしまうものだ。
アメリアは思い出すことを諦めて、ブランケットにくるまりながら起きてカーテンを開けた。
寒さと雪のせいか行き交う人の数もまばらで、皆どこか猫背になり滑らないようにぎこちなく歩いている。
ふとカレンダーを見ると――何と言うことか。今日は午後からコンビニでバイトのシフトが入っていた。すっかり忘れていた。
「……oh my……」
日本に来てもうすぐ三年が経つが……マイペースなアメリアにとって、何もかもが分刻みなのが普通な日本のペースはまだ少し慣れないままだった。
アメリアは、降り続ける雪を窓越しに見ながら、いっそのこと今日地球が滅びればこんな日にバイトに行かなくて済むのに……と心の中で愚痴りながら、トースターに食パンを投げ入れ、コーヒーを注ぎ、パジャマを脱いで身支度を済ませて玄関を開けた。
光と影
姉の名は、日名月光(ひなづき ひかり)。
妹の名は、日名月影(ひなづき えい)。
私たちは、一卵性の双子の姉妹として産まれた。
――光は真昼の太陽のように朗らかに。
――影は一夜の月のように淑やかに。
二人、支え会いながら生きて行って欲しいという両親の願いが込められた名前だった。
数十年後――。
20歳になった私たちは、とあるマンションの一室で、同じ大学に通いながら、仲良く――――。
「光お姉ちゃん……私の! それ私の分!!」
「えいは買う時、試食で食べたじゃん! だから二つとも私のでいいでしょ!!」
「よくない! 意味不明すぎ!! てか私のケーキ返せ! この食い意地お化け!!」
……一応、仲良く暮らしていた――。
・第一話
――東京都心。とあるマンションの一室。
早くに両親を亡くした私たちは、幼い時から両親と住んでいた場所を引き継ぎ、二人で暮らしていた。
「……ごめんって。 期限、直してよーえい~……」
「…………」
さっきのケーキ騒動ですっかりヘソを曲げてしまった妹のえいに機嫌を直してもらおうと奮闘中なのは、姉である私。光だ。
妹はというと――私から奪い返したケーキを片手に、部屋のすみっこで黙々と壁を見ながらケーキを頬張っている。
私としては、ちょっとからかおうとしただけのつもり……だったのだけど――結果は見事なディスコミュニケーション。
ちょっとしつこすぎたかな。と反省はしたものの。
反面、そんな怒んなくったっていいじゃん……という気持ちも捨てきれない。
その半端な心中を見透かしてか。
妹のえいは相変わらず姉に背を向けたまま、壁に向かってケーキを頬張っている。
と、その時、私のスマホが着信音を鳴らす。
「あ、龍次からだ」
龍次――というのは、私がつい最近交際を始めたばかりの男性だ。
大学の先輩の龍次とは、映画の話から仲良くなり、今は月一でデートをする仲だった。
その龍次から『大事な話をしたいから、明日ファミレスで会わないか?』とLINEが来たのだ。
「大事な話って…………まさか、け」
「っこん、とか言わないでよお姉ちゃん」
いつの間にか――妹の影が私の真後ろに立っていた。
びっくりして思わずひぇっと声が出てスマホを落としかけた。
「……ちょっと、勝手に覗かないでよ人のスマホを! エッチ!!」
「ちょっ……気色悪い反応しないでよ! 鳥肌立ったじゃん…… 」
そんな奇天烈なやり取りをしていると、龍次から再びLINEのメッセージが届いた。
「ほら早く返信しないとフラれるよ、お姉ちゃん」
「言われなくてもすぐ返すわよ……てかさらっと不吉なこというな!」
私はしばらくスマホとにらめっこして龍次とやり取りして――。
その後、ホワイトボードの明日の予定欄に『夜七時ジャスト 龍次とファミレスで会う♡』
と書き記した。
――龍次が『大事な話』って何だろう……。
流石に結婚はなさそうとしても……その半分くらいは期待しても良いのかな?
――ヤバい。ニヤニヤが止まらない。
キモい、と言いながらホワイトボードの♡を消そうとする妹をアームロックで押さえ込み、タップする妹を締め上げながら私は妄想に更けっていた。
翌朝――。
「三十八度。 軽い風邪か疲れだね、多分」
昨日の夜、姉は寝付けなかったのか夜通しひとりゲーム大会を開催して――見事に熱を出した。
「最後に……龍次に、会いたかった……なあ……うう……」
「元気そうで何より。 朝食、食べられる?」
「……うう……特Aの松阪牛のステーキなら食べられそう」
「よし、じゃあ大学行ってくるね」
「ああ! ごめんなさい! おかゆ……おかゆでいいです……作ってください……」
しょんぼりと布団の中で丸まっている姉を見やると、私はくすりと笑い、台所に向かった。
――可愛いなあ、お姉ちゃんは。
おかゆを準備しながら、私は今日これから行おうとしている『とある計画』を思い、妄想に更ける。
――まずい、ニヤニヤが止まらない。
私はおかゆと飲み物を布団にくるまっている姉の枕元に置いて、「何かあったらすぐ電話してね」と伝えて、家を出た。
玄関を閉めて鍵を掛ける。
今から、私の長い一日が始まるんだ、と心の中で決意を新たにする。
そう。私は今日――姉に成り済まして龍次さんと会うつもりだ。
人の恋路を邪魔するつもりはないけど……私の大好きなお姉ちゃんをタダで渡すつもりは、ない。
もしも想定以上にいい加減なやつだったら――その時は、ドラム缶に積めて海に放り込んでやるつもりだ。
大学の中庭。時は十月の中旬。
寒空の下を舞う紅葉の雨が、秋の訪れを感じさせる。
私はベンチに座り『ターゲット』を待つ。
本名――伊藤 龍次。二十一歳。
身長182cm。体重72kg。牡牛座。
テニス部部長。彼女歴、なし。
趣味は映画鑑賞、囲碁、麻雀、読書。
運動だけでなく、成績も優秀な文武両道の優等生タイプ。
好物は福神漬け多めの辛口のカレー。
反対に甘いものも好きな所謂『スイーツ男子』でもある。
姉のことは『光』と下の名で呼んでいる。
姉も『龍次』と下の名で呼んでいる。
……スマホに記録した『ターゲット』のデータを眺め、様々なシミュレーションを頭の中で繰り返す。
そうしてしばらくベンチに座っていると――。
「あれっ、奇遇だね。 光。何してるの? こんなとこに一人で座ってさ」
龍次さんが、私のことを姉と勘違いして隣に座ってくる。
「あ、龍次! 別になにもしてないよ。 ただ暇だっただけ。……龍次こそ、どうしたの?」
私は姉の仕草、口調、態度を完全にコピーして話を合わせる。
「僕もべつに……ただ本を読む場所を探しててさ。 ここならあんまり人も来ないし……景色もいいかなって」
眼鏡のよく似合う爽やかな笑みを浮かべる。
……なるほど、確かにイケメンだ。
姉が落とされる訳だ。
私も敵と見なしていなかったらワンチャンやられていたかもしれない。
その後、私は姉のふりをしながら言葉巧みにこれまでの一ヶ月。
私の知らない姉と龍次の二人の時間の情報を引き出してイメージの空白を埋めた。
私は――今この瞬間、『龍次の恋人の光』
を完全にコピーした。
時は過ぎて、夜。七時。
私は、ファミレスの奥の四人がけの席に座り、龍次さんを待っていた。
姉には『バス遅れてるー! サイアク! 買い物して帰るから帰りは夜の八時過ぎになりそう! ごめんね!』
とLINEを飛ばして。
五分ほどして、龍次さんが私を見つけて息を切らしながら駆け寄ってきた。
「ご、ごめん! 遅れて!!……待たせちゃったよね?」
龍次さんは、私の顔色を伺いながらおずおずとした様子で座る。
「ううん、全然。 それより大事な話って……何かな?」
私はズバリといきなり本題に斬り込んだ。
回答――ことと次第によってはドラム缶を用意せざる得ないが。
「光は相変わらずせっかちだなあ……まあそういうとこも好きなんだけどさ」
龍次さんは私を姉だと思いこんで言っていると分かってはいるが。
何だろう、この恥ずかしさと罪悪感は。
まあいい。とにかく、問題は龍次さんが言う『大事な話』が一体何なのか。それが全てだ。
「本当は、もうちょっと話したりして雰囲気作りたかったんだけど……まあ、いいか」
龍次さんは、ぽりぽりと頭を掻いてから、咳払いを一つして核心を切り出す。
「光――」
龍次さんが、小さな紙袋から、小さな箱を取り出した。
――まさか……。いやそんなバカな。マジですか?
「もし、お前さえ良ければ……」
――まてまてまって龍次さん。
それはダメだって!私たち……じゃなかった。お姉ちゃんとはまだ付き合い始めたばかりでしょ?
なのに、そんな――。
龍次さんが、箱の蓋を開ける――。
「光。これを、受け取ってくれないか」
私は――覚悟を決めて『それ』を確認する。
「…………ん?」
箱から出てきたのは――小さなショートケーキだった。
「いやあー……朝から並んでようやく買えたんだよ……」
よく見ると、箱が入っていた紙袋には『スイーツ工房』と洋菓子店らしきロゴが描かれていた。
「 大事な話がー何てカッコつけてさ。 ……買えなかったらどうしようかと」
「あの……これって……?」
「え? もしかして忘れてたの? ……今日は光の誕生日だっただろ?」
……あっ。しまった。完全に忘れてた。
――私たちは……両親が亡くなってから、一度も誕生日を祝わなくなってしまっていた。
だから、すっかり平日のように過ごしてしまっていた私と姉は、自分たち二人の誕生日など頭の片隅にも思い出さなかったのだ。
私は姉になりきったまま、その紙袋を受け取って、少しだけ雑談してから家に帰った。
鍵を開けて、玄関を開けて「ただいまー……」と大きめの声で呼び掛ける。
遅ーい!おかえりー! と、すぐに姉の声が返ってくる。
龍次さんはまあ、悪い人じゃなさそうだったし……お姉ちゃんにはちゃんと謝って……龍次さんにも後でちゃんと謝っておこう。
私は、そんなことを思いながら、龍次さんからの『預かりもの』を姉にお土産として渡した。
ネタばらしという名の謝罪は、もう少し姉が元気になってからにしよう。
そう決めた私は、ちょっとお高めらしい洋菓子店のショートケーキを一口一口大事そうに味わいながら頬張る姉の笑顔を見ながら――今日は、二人で、長らく忘れかけていた誕生日を祝うことにしたのだった。
お題:「そして、」
注意 ※ホラーです。苦手なかたはご注意ください。
―――――――――――――――――――
部屋を片付けていると、押し入れの奥から見覚えのない小さな段ボール箱が出てきた。
開けてみると、箱の中には一冊のノートが入っていた。
「これは……何だっけ……日記かな?」
どこにでも売っている、A4サイズのノート。
一人暮らしなのだから、どう考えても私が書いた物なのは間違いないはずなのだが。
一体、何が書いてあるのかさっぱり記憶にない。
ノートを開くと、最初のページには左上に小さく「そして、」とだけ書かれていた。他の行には何も書かれていない。
「何これ……?」
裏返すと、背表紙の下のほうに小さく「茜川 佳奈」と書かれていた。
……私の名前だ。やっぱりこれ、私が書いたノートなのかな……?
少し、好奇心がくすぐられて、私は次の頁を捲ろうとした。
その時、電気が一瞬だけ明滅して、すぐに元に戻った。
おかしいな。昨日の昼に替えたばかりなのに……。
このマンション自体が古いので、配電設備が壊れかけているのかも知れない。
あまり続くようなら、面倒だけど役所か業者に連絡しないといけないな。
そんな事を考えていると、飼い猫の『つな』が小さく一鳴きしてから部屋に入ってきた。
「つな。 珍しいね」
普段、この子は私の部屋にだけは何故か頑なに入って来ようとしない。
無理に抱き抱えて入れようものなら、私の腕を噛んででも逃げ出すぐらいだ。
理由は分からない。
しかし、無理強いする理由もないので放っておいたのだが。
「なあに? ご飯ならもうあげたでしょ?」
私はつなを膝に乗せようと手を伸ばした。
が、つなはくるりと踵を返し、何も言わず部屋を出ていってしまった。
「なによ。 変なヤツ」
私は少し寂しさを覚えつつ、気を取り直してノートに手を伸ばした。
最初の頁をめくり、次の頁へ指をかける。
が――。
「……あれ?」
開かない。
まるで糊でひっつけられたかのように、びくともしないのだ。
そして、気が付いた。
少しだけ捲れた頁の端から、二頁目の角が見える。
その色は、白ではなく黒。
乱暴に、がしゃがしゃと筆を走らせた隙間のある黒ではなく、まるで墨に浸したような真っ黒だった。
「なによ、これ……」
私は流石に薄気味が悪くなり、手早くノートを元通り箱に戻して蓋を閉め、押し入れの奥へと放り投げた。
そして、押し入れの戸を閉めようとしたが。――何かに引っ掛かって、戸が閉まらない。
いくら力を入れてもびくともしない。
その時、スマホが鳴った。
件名もない差出人不明の一通のショートメール。
開くと……そこには「そして、わたしは」とだけ書かれていた。
「何これ……誰?イタズラにしてもダルすぎでしょ」
私は少しいらっと来て、スマホをベッドに投げようと顔を上げ、そして、見てしまった――。
押し入れの暗がりの中から、白い顔の女がじっとこちらを見つめていることに。
私は自分の部屋から逃げ出して、裸足のまま玄関から外へと飛び出した。
全身が総毛立ち、心臓が破裂しそうなほど激しく鼓動し、気が遠くなる。
私は無我夢中で階段を目指し、廊下を走り抜けた。
最悪なことに、私の部屋は二十階建の高層マンションの最上階で、一階まで階段で降りるのはかなりの時間が掛かる。
しかし、エレベーターを待ってる時間でさっきの女が追い付いて来るかもしれない。
エレベーターは使えない。
私は足を止めず、飛び降りるように階段を駆け降りる。
早く、早く、早く――!
しかし、次の瞬間――私は足を滑らせて階段から落下し、勢いのまま踊り場の手すりに捕まった。
が、その衝撃で老朽化した手すりがへし折れ、私は十九階からまっ逆さまに夜の闇へと投げ出された。
血だまりの中に沈むスマホの通知音が鳴る。
ひび割れた液晶には、新たに届いた差出人不明のショートメールが勝手に開いて表示されていた。
そのメールにはこう綴られていた。
「そして、わたしは、しんでしまったの」
tiny love(小さな愛)
彼女は、何でもない人間だった。
高校だけは何とか卒業させてもらえたが。大学生になるには、学力も気力も、何よりお金が足りなかった。
でも、これといって不幸だとか思ったり、特段の不満は感じなかった。
その理由は、彼女には分からなかった。
そうして彼女は卒業してからすぐアルバイトを始めて、気が付けば二十歳の誕生日を迎えていた。
両親からの『二十歳、おめでとう!これからも頑張れよ!お父さんはずっと――――の味方だからな!』
『――――。たまには帰ってきてね。心配してるからね。母より』
というメールに『ありがとう。がんばるから。』と短く返して携帯を閉じた。
社会から「フリーター」にカテゴライズされた彼女は、アルバイトで得た僅かなお金から生活費や貯金を引いた残り少ないお金を、小さな趣味に費やして。
そうして、せめて、自分が人である事だけは忘れないように努めて暮らし、日々をやり過ごしていた。
そうして不自然に安穏とし、淡々とした。しかし確かに暗澹とした人生に運ばれるまま、彼女は三十歳の誕生日を迎えた。
その頃には親兄弟も、古い友達も、何かしらの形で彼女の元から離れて行ってしまっていて。そして、彼氏のかの字もない。
彼女は、沢山の人間が交差する東京という都市で、いとも簡単に独りになってしまっていた。
お金もなく、人の繋がりもなく、ただ唯一の救いは日々の平穏と体の健康だけ。
そんなアラサーの女性になってしまった今。
それでも何故か、彼女は相変わらず人を羨む事すらしなかった。
その理由は彼女にも分からなかった。
彼女はスマホを取り出して、時間を確認すると、簡易の防音室に移動してPCの電源を着けた。
―――――――――――――――――――
『ハロー! 今日もみんなの夜に、光を灯すよ!! 青星はるかで~っす!』
元気なアニメ声の女の子の声がスピーカーから流れ、跳び跳ねるように手を振る快活なVTuberの姿がPCの画面に映されている。
アバターから何もかも自作の、低予算VTuber。
登録者の数はもう少しで数千人に届くかという、クローズドな界隈で少しだけ話題の個人勢VTuberだった。
VTuberの殆どは、半ば「暗黙の了解」という形ではあるが、所謂「中の人」と呼ばれる画面向こうのリアルには触れないのが習わしだ。
だから、誰も彼女の事は知らない。
知ろうともしない。
ただ、だからこそ『青星はるか』はインターネットという世界で、夜を照らす星として、そこそこの人に愛される存在になれたのだろう。
――それから十年。
『青星はるか』というVTuberは、コアな数百人のファンに惜しまれつつも、インターネットの世界から姿を消した。
同時にリアルのとあるアパートの一室では、今日四十歳の誕生日を迎える独りの女性が、しかし特別な感慨もない日常を変わらず過ごしていた。
それが人並みなのか、そうでもないのかは彼女自身にも分からないままだったが。
近所の小さな繋がりや、商店街のコロッケ屋のおじさんのサービスが、今の彼女にとって唯一他人の温もりを感じられる瞬間で、どんな贅沢よりも大切な、ささやかな楽しみだった。
大した人生ではなかったといっそ胸を張って言えるほどに、彼女の人生は変わらず平坦に流るるまま過ぎていくだけの、安穏として、一方でやはりどこか暗澹としていたが。
それでも彼女は現状には、どこか満足すら感じていた。
その理由は、勿論分からなかったが。
彼女は、幾度かの季節を過ごし、五十歳の誕生日を迎えた。
世間では、もうあれだけ騒がれた『青星はるか』という存在は、すっかり忘れ去られていた。
時の力は恐ろしい。
あったものはなかったことになり。
沢山の悲しみも、かけがえのない繋がりも、時は全てを平等に儚く消しさってしまう。
彼女の人生の唯一の結晶だった貯金も底をつき始めた頃、彼女は六十歳の誕生日を迎えた。
腰は曲がり始め、思い通り動かなくなり始めた身体と心を引きずりながら、何とか生きるためだけに毎日を過ごしていた。
付きっぱなしのテレビからは、世界中のショッキングで、残酷で凄惨な地獄が、音と映像を駆使してセンセーショナルに報道され続けていて。
やかましさに耐えかねた彼女は、「テレビ、消して」と短く呟くと、AIがテレビの電源を落とした。
暫くすると、インターホンがなった。
そうだった。
今日は、若いヘルパーが来て、掃除をしてくれる日だったか。忘れていた。
彼女が短く『玄関のドアの鍵を開けて』と言うと、従順なAIが彼女の代わりに鍵を開けてヘルパーを迎え入れてくれる。
彼女はそれなりの幸せを得ては失いを繰り返して、今は動かなくなりつつある身体に鞭を打って、「生きるために生きている
」有り様だった。
流されるまま生きて、それを受け入れ続けるしかないとしてどこか道を外れた筈の人生は、想像したより平坦な結末に向かいつつあるように彼女は感じていた。
しかし、決して彼女は自分を不幸だとは思えなかったし、特に後悔も感じてはいなかった。
やはり、その理由は今も分からないままだったが。
散歩をして家に帰える頃には、彼女は七十歳の誕生日を迎えていた。
町並みすらすっかり様変わりし、とうとう彼女の知る場所さえ何処にもなくなってしまった。
今は、AIとヘルパーだけが友人のような存在だった。
そろそろ流石に寂しさこそ感じたが。やはり彼女の心中には、むしろどこか静けささえ漂っていた。
八十歳の誕生日は、老人ホームで迎えた。
施設の若い職員に車椅子を押されて大広間に出ると、施設の職員がみんなで祝ってくれた。
インターネットの画面越しにではなく、リアルでこんなに盛大に誕生日を祝って貰えたのは……子供の時以来かもしれない。
少しだけ、顔がほころぶ。
彼女はその日、夜に散らばる星のような、沢山の拍手と小さな愛に囲まれていた。
名前も知らない職員が口に運んでくれたケーキは、甘くて。懐かしくて。少しだけ涙が目尻に滲んだ。
その夜。
彼女は電動ベッドの上で、人生を振り返っていた。
彼女は、ようやく分かった気がした。
何故、こんなにも不自然に安穏として、淡々と過ぎて、暗澹としていたはずの道のりを自分が迷いなく歩いて来れたのは。
ある時は、親、兄弟が。
ある時は、画面向こうの名も知らぬリスナー達が。
また、ある時は近所の人やヘルパーさん達が。今は、ここの施設の職員さん達が。
いつも、気が付かない程に近くで、彼女の心を支えてくれていて。
沢山の人たちの小さな愛が、バトンを繋ぎながら彼女を支えてくれていたからなのだ、と。
不幸もやっかみも感じなかったのは――彼女が、実はずっと最初から幸せだったからだったんだ。と。
彼女は、ようやく自分の人生の姿をはっきりと見つめる事が出来た。
彼女は満足気に微笑むと、「ありがとうございました」と誰ともなく呟き、ゆっくりと目蓋を閉じた。
窓から見える冬の夜空に青星が光っていた。
その横を一筋の流れ星が一瞬だけ輝いて消えて行くのが、遠くからでもはっきりと見えた。
おもてなし
――某日、東京秋葉原。
俺――高崎隼人(たかさきはやと)は今、20年の人生で一番胸を高鳴らせている。といっても過言ではない。
そう。今日、俺は人生で初めて『猫カフェ』という非日常の世界に足を踏み入れようと、この地にやって来た。
猫と戯れる為だけの至福の一日――。
うっかり知り合いにでも出くわして台無しにされたくなかった俺は、わざわざ二時間もかけてここ秋葉原にまでやって来たのだった。
しかし、正直勢い任せで来たせいで、どこが良いとかは全くさっぱりだった。
てか、秋葉原自体が初めてで土地勘も何もない。
仕方なく、俺は雰囲気が良さそうな所をテキトーに選んで……深呼吸を一つしてからドアを開けた。
「お帰りなさいませ! 旦那……さ、ま……」
――そこには、衝撃の光景が広がっていた。
確かに猫はいた。にゃあにゃあと可愛らし声を上げ、猫同士なにか話しながら自由に店のあちこちでくつろいでいる。今すぐ一匹持って帰りたい愛くるしさだ。
が、店員も何故か着物服に猫耳を着けた、半分平成の萌えスタイルで決めポーズをしていて。
こっちの二足歩行の猫は、別方向の可愛さであざとく客にアピールして来るのだった。
しかし、何よりも衝撃的だったのは……。
「……お前、こんなとこで何を……」
「ああああんたこそ、何でこんなとこに……っっっ!!?」
そう、そこに居たのは――同じ大学の一つ下の後輩であり、俺がよく知る幼なじみの「春咲花音(はるざきかのん)」だった。
―――――――――――――――――――
花音が働く『猫猫(ねこねこ)カフェ』は、いかがわしいコンセプトとは真反対の落ち着いた……どこか大正浪漫を思わせる雰囲気の内装の店だった。
そう見ると、確かに花音の着ているお店の制服も、露出を押さえた和風の花模様をあしらった上品なものだった。
猫耳のアクセだけは、ちょっと目立つけど。
「……ご注文は何に致しますか? だっ、旦那様」
花音はお店の仕組みや料金の説明を終えると、左手で机の上を滑らすようにメニュー表を差し出してきた。
……その間、お冷やを運んできた「お盆」を右手に持って顔を完全に隠したまま。
「とりあえずドリンクバーと、猫アイスを一つ……」
「畏まりました、だ……旦那様」
「無理しなくていいぞ、今は店ん中誰もいないんだから」
「いえ、私めはプロでございますから。 お気遣いは無用でございますわだっだだだ旦那様」
「そ、そうか……お前がいいならまあ……いいけど」
――顔をお盆で隠して噛みまくりながら接客するプロがどこにいるか、などとツッコミたかったが。流石に俺にも人の心はある。
そこはあえてスルーして、手早く注文を済ませた。
花音は、顔をお盆で隠したまま、ふらふらとした足取りのまま店の奥へと消えて行った。
……しかし、何と言うことか。
知り合いどころか、隣の家に住む幼稚園からの幼なじみとこんな遠方の辺境の地で出くわすなんて……しかも、猫カフェの皮を被ったコンカフェの店員と客という立場で。
「何か、とんでもないことになっちまったな……」
しばらく店内を眺めながら待っていると、一匹向こうから近寄って来る猫が居た。
所謂、長毛種といわれる猫で。確かラグドールって種類だったかな。
その猫は、ジュリエットも裸足で逃げ出す悲劇に今しがた見舞われたばかりの俺を慰めるように、足に頭をこすりつけてにゃーと短く鳴いた。
「おお……何と愛らしい……生き物よ」
あまりの可愛さに口調がおかしくなってしまった。
どうしたらよいか分からず、とりあえず頭を撫でる。
一応「猫の安全を考えて『抱っこ』は禁止されている」と先ほど「妖怪お盆メイド」に説明されたばかりだったので、あらんかぎりのテクニックを駆使して猫の満足するポイントを片手で撫で繰りまわす。
猫も満足気ににゃーと鳴きながら、さらにすりすりと身体をこすりつけてくる。
――生まれてきて良かった。俺は今日この日の為に、生きてきたに違いない。
「……お待たせ致しました旦那様。 ご注文の品『猫アイス』を持って参りました。 ドリンクバーはあちらの奥の席の方にございます。 どうぞ、ゆっくりとおくつろぎくださいませ」
感慨に耽っていると、いつの間にか妖怪お盆メイド……じゃなくて、花音が横から注文した猫のおやつの『猫アイス』を差し出してきた。
覚悟を決めたのか、もうお盆は下ろしていて。顔を隠すのは止めたようだ。
机に置かれたアイスを見て、先ほどから俺の足に頭をぐりぐりし続けていたラグドールがぴょいと机の上に乗ってきた。
俺はうっかりひっくり返したりしないよう、アイスの入ったグラスを左手で支えて上げる。
――長い沈黙。
花音は横で何やら言いたげに、しかしだんまりのままただ立っている。
俺は、すっかり懐いてくれたラグドールにアイスを舐めさせながら、とりあえず口を開く。
「花音は、猫が好きなのか?」
こういう時は、まずは無難な手札から切るのが定石だろう。
俺は至極当たり障りのない質問を投げて、返答を待った。
「はい、旦那様。 ……実は、花音は、猫のことになると、恥ずかしながら目がないのであります……うふふ」
わざとらしく頬に手を当て身体をくねらせ、芝居がかった口調で照れたフリをする花音。
こわい。こんなの、俺の知ってる花音じゃない。
俺の知ってる花音は……もっとこう負けん気が強くて男勝りな、小学生の頃に倍近い体格の上級生の顔面を正拳一発でKOした。そんな女の子だったはずだ。
……いや、今の方がマシか?
そんな失礼極まりないことを考えていると、はたと花音と目があってしまった。
そこで、気が付いた。
――いかん、目が据わってる。
親の顔より見た幼なじみの思考は手に取るように分かる。
あの目は間違いなくこう言っている。『店から出たら覚悟しときなさいよ』
と。
自分の恥ずかしい秘密を知ってしまった幼馴染みを容赦なくこの世から消し去るつもりに違いない。
良かった。あれはやはり俺のよく知る花音だ。いや、ちっとも良くない。
接客スマイルで誤魔化してはいるが、視線から静かな殺気を感じる。
こ、ころされる……。
机の上でぺろぺろとご機嫌におやつのアイスを舐めるラグドールだけではなく、目の前で静かに殺気を放つ幼馴染みのご機嫌も取って店を出なければ、俺に明日はない。そんな予感がする。
しかし、どうすればいい?
どうすれば、花音は機嫌を治してくれる?
いや、ていうか、そもそも俺は偶然この店に入ってしまっただけで、むしろ悪いと言うなら花音の方じゃないか?
などと言えば今すぐ猫の餌にされかねない。
そこで、瞬間。俺はあることを思い出した。
「お前、確か明日誕生日……だったよな?」
「……へっ?」
予想外だったのか、花音が間の抜けた声を上げる。
よし、手応えあり。
俺は左手でラグドールを撫でながら、言葉を続ける。
「明日は休日だろ? だから二人でどっか出掛けてさ、何か美味いものでも食いに行こうぜ! 勿論全部俺が奢る! お前の誕生日だからな!! はっはっは!」
……どうだ?効いたか?
いや、今のは流石に効いただろう。
どんな人間でも、美味いメシには勝てない。
例え、どんな拷問にも耐える訓練を積んだ特殊部隊の隊長でも、目の前に松阪牛のステーキを出されれば全て喋って楽になる道を選ぶはずだ。
しかし、現実は――全く予想外の反応だった。
「そ、そ、それって……二人きりでって……でぇと?」
……ん?
おかしいな。俺は耳は悪くないはずだ。
店内も、BGMのクラシックと猫の声しか聞こえない。いたって静かな空間だ。
今、こいつ……「でぇと」とか言わなかったか?
見ると、顔を赤らめてなにやらもじもじとお盆で口元を隠しながら、顔を背けている。
その仕草は、どうも演技には見えない。
「隼人……いえ、旦那様がそのように私めのことを見ていただなんて……恐れ多くございます」
雲行きが怪しい。
何か、意図せぬ方向に話がずれて行ってしまっているような……。
「えーっと……花音さん?」
「でぇと……ふふ……。 てか隼人、誕生日覚えててくれてたんだ……ふふ……はっ! ごほんげふん! ……はい? 何でございましょう旦那様?」
何か独り言をぶつぶつと呟いてから、わざとらしい空咳をして、また役に入る花音。
さっきよりも頬は赤く、役作りも相まってか、いじらしい仕草が妙に板についている。というか……。
――あれ?……こいつ、結構可愛い?
幼稚園の頃からずっと隣の家に住んでいて。
小学校も、中学も高校も大学も一緒で。
そのせいか、ずっと男友達のような感覚の距離感で今日のさっきまでいて。
こいつのこと……女として見たことなんて一度もなかった……はず。
だった、けど――。
「……旦那様」
花音の声が、耳をくすぐる。
聞き慣れたはずの幼馴染みの声が、今は妙に色香を感じる声に聞こえて……俺は思わずじっと見つめてしまう。
花音から、なぜか目が離せない。
「私めは……実はずっと前から……」
彼女の髪の香りが。吐息がかった声色が。一つ一つの仕草が、俺に意識させる。
いや、そうか。そうだったのかもしれない。
何でもっと早く気が付かなかったんだろう。
しばし、二人の時間が止まる。
撫でるのを止めた俺の左手を、とっくにアイスを食べ終えたラグドールがかじりつき、遊び始めていた。
俺も、花音のことをずっと――。
「花音。 今、ようやく気が付いたんだ。 俺も――お前のことが……」
大正浪漫の雰囲気が満ちた店内と、「旦那様と給仕係」というこの店の、今この場所限りの二人に与えられた役柄が、いつからか奥底に隠されていた二人の心の内の想いを顕にした。
相変わらず、他の客が来る様子もなく。
店内には、静かなクラシックと猫の声だけがゆっくりとした時の流れに会わせて流れていた。