tiny love(小さな愛)
彼女は、何でもない人間だった。
高校だけは何とか卒業させてもらえたが。大学生になるには、学力も気力も、何よりお金が足りなかった。
でも、これといって不幸だとか思ったり、特段の不満は感じなかった。
その理由は、彼女には分からなかった。
そうして彼女は卒業してからすぐアルバイトを始めて、気が付けば二十歳の誕生日を迎えていた。
両親からの『二十歳、おめでとう!これからも頑張れよ!お父さんはずっと――――の味方だからな!』
『――――。たまには帰ってきてね。心配してるからね。母より』
というメールに『ありがとう。がんばるから。』と短く返して携帯を閉じた。
社会から「フリーター」にカテゴライズされた彼女は、アルバイトで得た僅かなお金から生活費や貯金を引いた残り少ないお金を、小さな趣味に費やして。
そうして、せめて、自分が人である事だけは忘れないように努めて暮らし、日々をやり過ごしていた。
そうして不自然に安穏とし、淡々とした。しかし確かに暗澹とした人生に運ばれるまま、彼女は三十歳の誕生日を迎えた。
その頃には親兄弟も、古い友達も、何かしらの形で彼女の元から離れて行ってしまっていて。そして、彼氏のかの字もない。
彼女は、沢山の人間が交差する東京という都市で、いとも簡単に独りになってしまっていた。
お金もなく、人の繋がりもなく、ただ唯一の救いは日々の平穏と体の健康だけ。
そんなアラサーの女性になってしまった今。
それでも何故か、彼女は相変わらず人を羨む事すらしなかった。
その理由は彼女にも分からなかった。
彼女はスマホを取り出して、時間を確認すると、簡易の防音室に移動してPCの電源を着けた。
―――――――――――――――――――
『ハロー! 今日もみんなの夜に、光を灯すよ!! 青星はるかで~っす!』
元気なアニメ声の女の子の声がスピーカーから流れ、跳び跳ねるように手を振る快活なVTuberの姿がPCの画面に映されている。
アバターから何もかも自作の、低予算VTuber。
登録者の数はもう少しで数千人に届くかという、クローズドな界隈で少しだけ話題の個人勢VTuberだった。
VTuberの殆どは、半ば「暗黙の了解」という形ではあるが、所謂「中の人」と呼ばれる画面向こうのリアルには触れないのが習わしだ。
だから、誰も彼女の事は知らない。
知ろうともしない。
ただ、だからこそ『青星はるか』はインターネットという世界で、夜を照らす星として、そこそこの人に愛される存在になれたのだろう。
――それから十年。
『青星はるか』というVTuberは、コアな数百人のファンに惜しまれつつも、インターネットの世界から姿を消した。
同時にリアルのとあるアパートの一室では、今日四十歳の誕生日を迎える独りの女性が、しかし特別な感慨もない日常を変わらず過ごしていた。
それが人並みなのか、そうでもないのかは彼女自身にも分からないままだったが。
近所の小さな繋がりや、商店街のコロッケ屋のおじさんのサービスが、今の彼女にとって唯一他人の温もりを感じられる瞬間で、どんな贅沢よりも大切な、ささやかな楽しみだった。
大した人生ではなかったといっそ胸を張って言えるほどに、彼女の人生は変わらず平坦に流るるまま過ぎていくだけの、安穏として、一方でやはりどこか暗澹としていたが。
それでも彼女は現状には、どこか満足すら感じていた。
その理由は、勿論分からなかったが。
彼女は、幾度かの季節を過ごし、五十歳の誕生日を迎えた。
世間では、もうあれだけ騒がれた『青星はるか』という存在は、すっかり忘れ去られていた。
時の力は恐ろしい。
あったものはなかったことになり。
沢山の悲しみも、かけがえのない繋がりも、時は全てを平等に儚く消しさってしまう。
彼女の人生の唯一の結晶だった貯金も底をつき始めた頃、彼女は六十歳の誕生日を迎えた。
腰は曲がり始め、思い通り動かなくなり始めた身体と心を引きずりながら、何とか生きるためだけに毎日を過ごしていた。
付きっぱなしのテレビからは、世界中のショッキングで、残酷で凄惨な地獄が、音と映像を駆使してセンセーショナルに報道され続けていて。
やかましさに耐えかねた彼女は、「テレビ、消して」と短く呟くと、AIがテレビの電源を落とした。
暫くすると、インターホンがなった。
そうだった。
今日は、若いヘルパーが来て、掃除をしてくれる日だったか。忘れていた。
彼女が短く『玄関のドアの鍵を開けて』と言うと、従順なAIが彼女の代わりに鍵を開けてヘルパーを迎え入れてくれる。
彼女はそれなりの幸せを得ては失いを繰り返して、今は動かなくなりつつある身体に鞭を打って、「生きるために生きている
」有り様だった。
流されるまま生きて、それを受け入れ続けるしかないとしてどこか道を外れた筈の人生は、想像したより平坦な結末に向かいつつあるように彼女は感じていた。
しかし、決して彼女は自分を不幸だとは思えなかったし、特に後悔も感じてはいなかった。
やはり、その理由は今も分からないままだったが。
散歩をして家に帰える頃には、彼女は七十歳の誕生日を迎えていた。
町並みすらすっかり様変わりし、とうとう彼女の知る場所さえ何処にもなくなってしまった。
今は、AIとヘルパーだけが友人のような存在だった。
そろそろ流石に寂しさこそ感じたが。やはり彼女の心中には、むしろどこか静けささえ漂っていた。
八十歳の誕生日は、老人ホームで迎えた。
施設の若い職員に車椅子を押されて大広間に出ると、施設の職員がみんなで祝ってくれた。
インターネットの画面越しにではなく、リアルでこんなに盛大に誕生日を祝って貰えたのは……子供の時以来かもしれない。
少しだけ、顔がほころぶ。
彼女はその日、夜に散らばる星のような、沢山の拍手と小さな愛に囲まれていた。
名前も知らない職員が口に運んでくれたケーキは、甘くて。懐かしくて。少しだけ涙が目尻に滲んだ。
その夜。
彼女は電動ベッドの上で、人生を振り返っていた。
彼女は、ようやく分かった気がした。
何故、こんなにも不自然に安穏として、淡々と過ぎて、暗澹としていたはずの道のりを自分が迷いなく歩いて来れたのは。
ある時は、親、兄弟が。
ある時は、画面向こうの名も知らぬリスナー達が。
また、ある時は近所の人やヘルパーさん達が。今は、ここの施設の職員さん達が。
いつも、気が付かない程に近くで、彼女の心を支えてくれていて。
沢山の人たちの小さな愛が、バトンを繋ぎながら彼女を支えてくれていたからなのだ、と。
不幸もやっかみも感じなかったのは――彼女が、実はずっと最初から幸せだったからだったんだ。と。
彼女は、ようやく自分の人生の姿をはっきりと見つめる事が出来た。
彼女は満足気に微笑むと、「ありがとうございました」と誰ともなく呟き、ゆっくりと目蓋を閉じた。
窓から見える冬の夜空に青星が光っていた。
その横を一筋の流れ星が一瞬だけ輝いて消えて行くのが、遠くからでもはっきりと見えた。
10/29/2025, 4:56:06 PM