そっと
言いたいことは山程あった。頭の中を整理して、相手にできる限り伝わる言葉を選んで今まで感じていた?の件をつらつらと書き綴る。
読み返してみた。プライドの高い彼女なら、猛反撃に出るであろう文にまとまっていた。
これで縁が切れるならそれでも良いと思っていた。
そんな関係なら、最初から無かったことにするに限る。
私としては、彼女からの謝罪の言葉だけが欲しかった。
でもそんな理想的な返事は返ってこないだろう。
何しろ彼女は自分の時間だけが尊い人種なのだから…。
思いの丈を書きき終えて、そっとペンを置いた。
後はポストに投函するのみ。
楽しかった思い出だけを残して、後は全て忘れたいと思う。
もう、そっとしておいて欲しい。
絶縁状は静かに机の上に置かれた。彼女にさようならと言いながら…。
Ring!Ring!
クリスマスの鈴の音なら、耳心地は良い。
あのリンリンという軽い音色は好きだ。
でも私は、電話のベルが大嫌いだ。あまりに嫌で、家の電話をとうの昔に解約してしまった。
あの、唐突でドキリとする「りーん!りーん!」
という音は一種の図々しさまで感じられる。
急用でも今は、スマホもメールもLINEもあるから、何も不便ではない。
今は、詐欺も多いので私は家電がなくて清々している。
おしゃべり好きな女友達が、こちらの都合も忙しさも関係なく、いきなり話し始めたり…これ又愚痴しか電話してこない実姉に電話は好都合だったようだ。
だから、私は家電を止めて心の底から嬉しい。
時は金なり…。その心境である。
新年
新しく年を迎える。まっさらな状態で、こたつに入りながらお雑煮やらみかんを食べて、ゆったり寛ぐ。
お正月の醍醐味である。ついつい食べ過ぎて体重計を敬遠したくなるのも常である。
私の推しの黒柳徹子さんが、新年の挨拶をYouTubeにアップしてくれて「今年は巳年なので、何事も執念深くいきましょう♡」と笑顔でおっしゃるから、私の中の執念深いという言葉がポジティブに変換されて推しの一言は、世界をパッと変える魔法だと感心してしまった。
新しい年は、昨年より良い年に…と皆口を揃えて言うけれど何をもって良い年と判断するかは、千差万別だろう。
あれもこれもと欲張らずに、健康と安穏を願い日々暮らしていきたいものだ。
そんな偉そうなことを言ってる私が、食欲という欲に負けているのも真実である。
新年明けましておめでとうございます。
全く…めでたい話しでかたじけない…。
変わらないものはない
変わらないものはない。
確かに…。人、テクノロジー、自然、環境も変わっていくのが常だろう。
でも、と私は声高に申し上げたい。
変わらないものもある。変わる人もいるだろうが、私には胸を張って言い切れるものが、1つだけある。
今は亡き、私が師匠と呼べる唯一の方へ対する尊敬の念だ。
それだけは、私が人生を全うするまで変わらないだろう。
変わらないものはない、の逆説的な文になってしまったけれど。
人の心が変わりやすいものだけに、変わらない心の真実は強い柱のように私の体の中心を貫く。
変わりゆくものが当たり前のようにある中で、私は変わらないという強くてしなやかな、強靭な人でありたい。
寂しさ
私の息子には父親がいない。彼が小さな頃離婚が成立したからだ。
男の子にとっての父親という存在は特別なのだと思う。幼少期祖父母も近くに住んでいて、可愛がってもらったけれど、父親代わりにはやはりならなかった。
息子は穏やかで優しい性格で、私に「何で俺には父親がいないんだよ!」と反抗期の男の子なら言いそうな時も、一切言わず私を責めた事は一度もなかった。
ただ、保育園に通う頃クリスマスが近づくと、「サンタのプレゼントは、パパが良い!」と本気で言ってきたときは、私も困った。
要望に応えられなくてごめんね、と心で詫びて、口では明るく「サンタさんはね〜ナマモノは禁止なんだってー!お肉とか動物もだめなんだよ〜。」と軽いブラックジョークで納得してもらった。
でも、彼が幼い頃お正月などいとこも集まったりする日に、義理の兄が自分の二人の男の子を高い高いしたあと肩車したりする時、とても羨ましそうに見ていた息子の目を、私は鮮明に覚えている。
それと同時に、気の利かない義理の兄にもちょっと残念な気持ちになった。
「翔太くんも高い高いだぞー。」と一緒に仲間に入れてくれたら息子はどんなに嬉しかっただろう。
彼が歳を重ねて、幾つになろうと心に寂しさを抱えていることは母親ならわかる。
彼も紆余曲折あった。山あり谷ありの人生だ。今は褒めすぎかも知れないけれど、人の痛みが分かる、ある意味私より大人な面が沢山ある人格者になったのでは…。
寂しさも抱えながら、彼はこれからも強く強く生きていくだろう。