鯖缶

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3/6/2023, 1:39:44 PM

(この先が、最下層の最深部…。)
最も強い者だけが辿り着けるという、世界最古にして最も危険な場所。
一見ただの岩壁だが、向こうに確かな魔力を感じる。
俺は柄を握る手に力を入れる。旅の初めの頃、まったくの偶然から手に入れた強力な魔剣。
(お前とも長い付き合いになったな。でもこれでようやく終わるんだ。あと少し、頑張ろうな。)
俺は岩壁に向けて魔剣を振り下ろした。
(あれ?)
空振りしたかのように、何の手応えも感じられず、そして目の前にあったはずの岩壁はいつの間にか巨大な銀の狼の顔に変わっていた。
「え?」
ドスンと地面に座り込んだ衝撃で俺は我に帰った。
震えが止まらない。
『待ち侘びたぞ。』
頭の中に、女の声が響く。俺はそれが目の前の狼の声だということを知っていた。
『しかし、よくぞわたしを自由にしてくれた。わたしの尾から作り出した魔剣は、役に立ったであろう?』
「わた、しの、お?」
握っていたはずの魔剣はどこにも見当たらない。
『お前の質は、人間にしてはわたしと相性が良かった。わたしは体の一部を魔剣に変え、それを絆し《ほだし》としてここまでお前を導いたという訳だ。』
いくら繋ぎ易くとも牛馬では地下迷宮には入れなくてな、と狼は嗤う。
『さあ、わたしはそろそろ鈍っている体を存分に動かさなければならない。』
銀の狼の体が妖しく輝き出す。
俺は最初に座り込んだ状態からピクリとも動けずにいた。
(俺は何をしてしまったんだろう。)
『お前はよく働いた。』
銀の狼の鼻先が近づく。
『人間など食べるに値しないが』
白銀のような牙。燃えるような息が顔を炙る。
『その働きに報いて』
だが、なんて気高く
『我が身の糧としてやろう。』
うつくしい




やっぱり食べられたら可哀想か。
蛇足ですが続き。


「おい、起きろ。」
顔に何かが押し付けられている。
ぼやけた視界には白い何かが動き、それが顔をぐりぐりと押しているのがわかる。
「うぅ…?」
「お? 起きたか? まったくこのわたしに手間をかけさせるとは。」
銀細工のような繊細な髪、満月のような瞳、その光のように白い肌の…女神?
「う、」
理解した瞬間、俺はバネ人形のように上体を起こし、思うように動かない手足をバタバタとさせ後退りする。
「ヴゴゥッ!」
そして後頭部を激しく打ちつけのたうち回った。
「おい、なんだ…。」
全裸の、月の化身みたいな女性が冷え切った目でこちらを見る。
俺は地面にうずくまりながら混乱した頭で周囲を見回し、そこが地下迷宮の最深部、銀の狼が現れた場所であることをようやく思い出した。最後に見たのは灼熱の熔岩のような口の中。
「生きてる…?」
「おい、わたしを待たせるな。」
ドンと脇腹に軽い衝撃があり、そちらに顔を向けると女神に足蹴にされている。
「ほら。」
野良犬にエサでもやるように、目の前に剣が放られる。俺の、魔剣。いや、銀の狼の尾だ。
「気が変わった。焦土にするのは、お前と今の世界を見て回ってからにしよう。」
女神が妖しく嗤う。
こうして俺と銀の狼の、世界の存亡を左右する旅が幕を開けたのだった。

3/6/2023, 5:25:52 AM


家族が寝静まった深夜のことだった。
俺はベッドに寝転がりながら映画を観ていた。
コンコン
ノックの音が聞こえた気がして「どうぞ?」と声を出し、体を起こす。
ドアが開いて入ってきたのは今年小学6年生になった7つ違いの弟だった。布団を抱えてキョロキョロと目を動かし、落ち着かないようすで中に入ってくる。
「お前、まさか…おねしょか?」
「そんなわけあるか!」
「じゃあ、まさかお前、俺のことすき」
「キモい! バカにぃ!」
「ふ、冗談だ。わかってるって。夢精だろ? 洗面台で洗って洗濯機に放り込んどけよ。」
「え?」
「え?」
「あ、ごめん、違うけど…次はそうする。」
「おう、そうしとけ…で、今日は、何?」 
「こわくてねられないからいっしょにねて。」
「え?」
「間違えて怖い動画見ちゃったから一緒に寝て!」
「お前…めっちゃガキだなぁ。」
「ガキなの! 早くベッド入れて! 後ろが怖いの!」
「はいはい。あ、後ろの方はお連れ様ですか〜?」
「あーー! もう、そういうのいいから!」
俺はベッドの窓側に体を寄せようとしたが「オレ、窓側!」と弟は俺の体を乗り越えて窓側に寝転がった。
「ベッドの下から出てくる系だったのか?」
布団にすっぽりともぐり込んだ弟の隣りで、俺も自分の体勢を整え直し、また映画の続きを見始めながら尋ねる。
「出てくる系だった…。」
今さっき丸まったばかりなのに、弟の声はもう眠気を宿していた。
布団はいつもより温かい。
規則的に、微かに上下する布団。
聞こえる呼吸の音に俺まで眠くなってくる。
このシチュエーション、なんで彼女じゃなくて弟なんだよ、と自分で自分にツッコミをいれてしまう。
映画の内容はもう頭に入ってこない。
すっかり寝入った弟の頭はもう布団から出てきていた。ガキ扱いするなと、最近あまり触らせなくなった頭を軽く撫でる。
(まあ、たまにはいいか。)
大きな欠伸が出たのを境に、俺はいつもより少しだけ穏やかな気持ちでまぶたを閉じた。

3/5/2023, 8:59:48 AM

俺は苛立っていた。
最近何かと忙しくて会えなかった彼女との2ヶ月ぶりのデート。
それなのに朝からまた電話で呼び出され、待ち合わせに間に合うかどうかギリギリの時間になっていたのだ。
彼女より早く待ち合わせ場所に行き、遠くから俺を見つけた彼女が少し早歩きになって、軽く手を挙げて合図する俺に「待たせちゃった?」と彼女が照れ笑いする。
それを待ち合わせの密かな楽しみにしている俺は、時間ギリギリになったことに、むしろ久々のデートの朝に電話があったことに、そもそも2ヶ月も彼女と会えない今の状況に苛立ちを募らせていた。
待ち合わせ場所にはもう彼女の姿があった。
まだ約束の時間にはなっていないしあまり慌てた様子で行くのもと、歩調を緩めたときだった。
「イテッ、うぉ、こぼれたぞ、おい。」
隣りの男と肩がぶつかり、男の持っていた飲み物がばしゃりとお互いの袖を濡らす。男はこちらにギロリと目を向け、連れなのかもう一人の男も威圧するようにこちらを見る。
「おい。」
俺は言いながら、肩をぶつけてきた男の胸ぐらを軽く掴み顔を寄せる。
「後で事務所に顔出せ。」
男の顔から一気に血の気が失せる。口をぱくぱくさせながらも、一言も発せぬまま立ち尽くす男の横を俺は通り過ぎる。

いけない、彼女がすぐそばにいるのに。
幸い彼女はこちらに気づいておらず、近くの女性が連れている犬を見て一人にやけている。
彼女と出会ったのは、初めて取立てを見に行った時だった。床に額を擦り付ける父親の向こうで、母親と抱き合ってこちらを見ていた中学生の君。怯えて震える君を見下すように見ていた俺。それに気づいた君は、強い怒りをあらわにした。
その瞳の美しさ。俺は君に恋をした。

「ごめん、待たせちゃったかな?」
「ううん、全然。見てあのコーギー、すっごく可愛いの。」
ずっと見ちゃった、と言う君のうっとりするような表情が、茶色く濡れた袖に気づくとくるりと気づかわしげなものに変わる。
「あぁ、さっきそこでぶつかった時に濡れたのかも。」
言われて初めて気づいたとばかりに驚いてみせると「シミになるから」と彼女はジャケットを抱え近くの化粧室に洗いに行ってしまう。俺は「捨てるからいいのに」という言葉をどうにか飲み込む。
また、電話が鳴る。非通知だ。
「はい、…おじさん? えぇ、はい、わかってます。はい、おじさんの気持ちは十分に。今どちらに? ……わかりました。はい、親父には取り計らって貰えるよう若輩ながら俺からも力添えを…はい、すぐに向かわせますので。では。」
俺は別のスマホを取り出す。
「橋本のビル、です。早急に手配を。もうこの件、俺の所には持ち込まないで下さい。よろしくお願いします。」
相手の返事も待たず通話を終え、電源も切る。この2ヶ月、ずいぶん煩わされたがようやく片が付く。

彼女が渋い顔で戻ってくる。袖のシミは満足できるほど落ちなかったのだろう。
色んな表情を見せてくれる可愛い君。
下らないことに金を遣う馬鹿な父親にも優しい笑みを向け、今の環境を嘆くだけの母親のために涙する。
あの時から、ずっと君を見てきた。
彼女はあの時怒りの眼差しを向けた相手が俺だとは気づいていない。気付かれないようにしてきた。
そしてまったく知らない素振りで彼女に近づき、今のポジションを手に入れた。
優しくて、スプラッターが苦手で、蜘蛛も殺せない気弱な大学院生の俺。
彼女が申し訳無さそうな顔でジャケットを広げる。
「ごめん、思ったより落ちなかったし、これから出掛けるっていうのにびしゃびしゃにしちゃった。」
「いいよ。じゃあ、一度家に来ない? 論文も片付いたし、明日ものんびりできそうなんだ。」
それを聞いて、君はぱっと花が咲くような笑顔を見せる。
真相を知った時、君はどんな顔を見せてくれるんだろう。
俺はそれが楽しみでならない。
だから今日も、俺は大好きな君に心からの笑顔を向けるんだ。
いつかくるその日のために。

3/4/2023, 10:16:24 AM

「あ、ここのお店寄っていい?」
彼女と朝からショッピングモールで映画を観たあと、軽く何か食べようと飲食店に向かっている途中だった。「ん? いいよ。」と返事をしてからそこが雑貨屋のたぐいであることを認識し、俺は少し後悔する。
「ありがと。ちょっと見るだけだから。」
その言葉に何度裏切られたことだろう。
彼女に続いて店内に立ち入ると、花のようなお菓子のような甘い匂いがする。

キラキラ、ふわふわ、モコモコ、プクプク、ひひら…と俺は彼女が手にする品に心の中でオノマトペを当てていく。
「これいいなぁ。」「かわい~。」「置くとこがなぁ。」「いい香り。」「手触りいい。」
なぜ、彼女はほぼほぼ買いもしない店の物をこんなにじっくりと見て回るのだろう。
(お腹空いたなぁ…。)
空腹を紛らわそうと興味のない店内をざっと見回したとき、それが目に飛び込んできた。
ガラスでできた小さなひな人形。
それと共に、建て替えられて今はもうない子供の頃の実家の景色が蘇る。

深い海のような青をメインに作られた男雛。
淡い桜色をメインに作られた女雛。
雛祭りの時季が近づくと、靴箱の上に綺麗な布を敷き、ちょこんと並べて置かれていたそれ。
俺の家は兄貴と俺の二人兄弟だったから、それは母か祖母の物だったのだろう。
日の光に当たると揺れるような青とピンクの光が透けてうつった。
子供の頃の俺には宝石のように輝いて見えて、触らないよう言われていたのについ手に取ってしまった。
「ガラスの雛人形?」
隣から不意に彼女の声がして、俺は雑貨屋に引き戻された。
「あ…子供の頃、実家で見たやつに似てて…。」
たぶん母さんのだったんだけど俺が壊して、と歯切れ悪く続けた俺に対し彼女はにっこりと笑いながら言った。
「買っちゃいなよ。」
「え?」
「買い物は出会いだよ。」
「いや、でも…。」
「毎度毎度君が嫌になるくらい店内をぐるぐるうろつき回って手にとってぐりぐり見回しても買わない私が言うんだから間違いないって。」
説得力があるような、ないようなよくわからない言い分だったが彼女の顔は自信に満ち溢れている。
「で、お母さんに送ってあげなよ。」

後日、メッセージアプリに母から写真が届いた。
それを彼女に見せると「お父さん、お母さん、君だね。」と笑った。
今の実家の靴箱の上に並んだのは3体の雛人形。
女雛を挟んで男雛が2体。
あの時、割ったのは女雛だけだったことをその写真を見て思い出した。



あぁ、タイムオーバー…。



3/3/2023, 9:59:02 AM

仕事の昼休み、会社を出て足早にいつもの場所へ向かうと、あれがなくなっていた。
(あぁ、とうとう来たか…。近くて良かったのになぁ。) 
俺はすぐに気持ちを切り替え次の場所へと向かう。(次に近いのは、と。)
こんな日が来たときのために、チェックを欠かさず行っていた甲斐があった。
(この先の喫茶店…げ、臨休かよ。)
コーヒーを一杯頼むのは懐に響くけど、なんて考えている場合じゃなかった。
会社から次第に離れて行き、気持ちが急く。
足は小走りに近くなっている。
(あの角の自販機の隣に…なくなってる!)
会社を始点としたうずまきは終点を見つけられずに大きくなっていく。
(あそこの工事は先週末で終わりだったからもうないし、バス停のベンチのは…バス待ちの人がいるか。あとは、)
ちらりと腕時計を見る。そろそろ会社に戻らないと休憩時間内に戻れなくなる。
(あいつの家!)
恥も外聞もなく走り出し、アパートへ向かいながらスマホを取り出し電話をかける。
聴き慣れた呼び出しの音楽が鳴り始めてすぐに『どした?』と応答があり「今から家行く!」と間髪入れずに答える。
『え? 今、外だわ。』
今、最後の、たった1つの希望が潰えた。
『何? どしたの?』
俺は立ち止まり天を仰ぐ。
「喫煙コーナーが見つからないんだ。」

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