鯖缶

Open App

俺は苛立っていた。
最近何かと忙しくて会えなかった彼女との2ヶ月ぶりのデート。
それなのに朝からまた電話で呼び出され、待ち合わせに間に合うかどうかギリギリの時間になっていたのだ。
彼女より早く待ち合わせ場所に行き、遠くから俺を見つけた彼女が少し早歩きになって、軽く手を挙げて合図する俺に「待たせちゃった?」と彼女が照れ笑いする。
それを待ち合わせの密かな楽しみにしている俺は、時間ギリギリになったことに、むしろ久々のデートの朝に電話があったことに、そもそも2ヶ月も彼女と会えない今の状況に苛立ちを募らせていた。
待ち合わせ場所にはもう彼女の姿があった。
まだ約束の時間にはなっていないしあまり慌てた様子で行くのもと、歩調を緩めたときだった。
「イテッ、うぉ、こぼれたぞ、おい。」
隣りの男と肩がぶつかり、男の持っていた飲み物がばしゃりとお互いの袖を濡らす。男はこちらにギロリと目を向け、連れなのかもう一人の男も威圧するようにこちらを見る。
「おい。」
俺は言いながら、肩をぶつけてきた男の胸ぐらを軽く掴み顔を寄せる。
「後で事務所に顔出せ。」
男の顔から一気に血の気が失せる。口をぱくぱくさせながらも、一言も発せぬまま立ち尽くす男の横を俺は通り過ぎる。

いけない、彼女がすぐそばにいるのに。
幸い彼女はこちらに気づいておらず、近くの女性が連れている犬を見て一人にやけている。
彼女と出会ったのは、初めて取立てを見に行った時だった。床に額を擦り付ける父親の向こうで、母親と抱き合ってこちらを見ていた中学生の君。怯えて震える君を見下すように見ていた俺。それに気づいた君は、強い怒りをあらわにした。
その瞳の美しさ。俺は君に恋をした。

「ごめん、待たせちゃったかな?」
「ううん、全然。見てあのコーギー、すっごく可愛いの。」
ずっと見ちゃった、と言う君のうっとりするような表情が、茶色く濡れた袖に気づくとくるりと気づかわしげなものに変わる。
「あぁ、さっきそこでぶつかった時に濡れたのかも。」
言われて初めて気づいたとばかりに驚いてみせると「シミになるから」と彼女はジャケットを抱え近くの化粧室に洗いに行ってしまう。俺は「捨てるからいいのに」という言葉をどうにか飲み込む。
また、電話が鳴る。非通知だ。
「はい、…おじさん? えぇ、はい、わかってます。はい、おじさんの気持ちは十分に。今どちらに? ……わかりました。はい、親父には取り計らって貰えるよう若輩ながら俺からも力添えを…はい、すぐに向かわせますので。では。」
俺は別のスマホを取り出す。
「橋本のビル、です。早急に手配を。もうこの件、俺の所には持ち込まないで下さい。よろしくお願いします。」
相手の返事も待たず通話を終え、電源も切る。この2ヶ月、ずいぶん煩わされたがようやく片が付く。

彼女が渋い顔で戻ってくる。袖のシミは満足できるほど落ちなかったのだろう。
色んな表情を見せてくれる可愛い君。
下らないことに金を遣う馬鹿な父親にも優しい笑みを向け、今の環境を嘆くだけの母親のために涙する。
あの時から、ずっと君を見てきた。
彼女はあの時怒りの眼差しを向けた相手が俺だとは気づいていない。気付かれないようにしてきた。
そしてまったく知らない素振りで彼女に近づき、今のポジションを手に入れた。
優しくて、スプラッターが苦手で、蜘蛛も殺せない気弱な大学院生の俺。
彼女が申し訳無さそうな顔でジャケットを広げる。
「ごめん、思ったより落ちなかったし、これから出掛けるっていうのにびしゃびしゃにしちゃった。」
「いいよ。じゃあ、一度家に来ない? 論文も片付いたし、明日ものんびりできそうなんだ。」
それを聞いて、君はぱっと花が咲くような笑顔を見せる。
真相を知った時、君はどんな顔を見せてくれるんだろう。
俺はそれが楽しみでならない。
だから今日も、俺は大好きな君に心からの笑顔を向けるんだ。
いつかくるその日のために。

3/5/2023, 8:59:48 AM