夕暮れは間もなく濃い藍色へと染まっていく。教科書をとん、と机に置くと大きな窓を開け放った。白く透けたカーテンは空の色を纏ってふわりと中へと風を運ぶ。パンにあうミルクの芳ばしい香り。向かいの雨戸から溢れた光から賑やかな声が聞こえた。ご近所さんはシチューなのかもしれない。そう思うと少しお腹が切なくなった。
/ 遠い日の記憶
午後の透明な光を背に、彼女は一冊の本を差し出す。
『この本を読めばね。心が豊かになる。そして視野が広がって世界の彩度が上がるんだ』
慈悲を与えるような微笑み。鼓膜を揺らす声は柔らかで、愛を注がれるように満たされる。
ただ、その言葉につられるべきか悩んだのは、四十分程で読み終えそうな薄い本に価値があるとは思えなかったからだ。表紙の男性は寄り添いながら頬を染めて、気恥ずかさを誤魔化すように笑い合う。気になったのは、何故か二人は濡れた瞳をしていたから。その理由を知りたくてページを捲ってしまったのがきっと純粋な自身の最後の姿だ。
溢れるような劣情だった。野獣のように獰猛で、綱渡りをするような恋の駆け引き。視野は狭くなっていき、溺れるように夢中になって本の世界へと沈んでいく。気づけば最後のページまで辿り着き、余韻を引き摺ったまま表紙からまた何度も読み直す。
生活は性活へと変貌し、汗と色香の迸る言葉に頭は塗り替えられてしまった。朝とともに目を滑らせるように悦びを求め人間観察に没頭。夜になるとゆだれをたらして本の世界に入り浸る。増え続ける本は自分の性への渇望を体現していた。
/ 好きな本
きらきらと星が輝いていた。
瞬きも忘れて見惚れてしまう眩しさ。裸足の足をゆっくりと海へ向けると、思わずといったように息を吐いた。
冬の海は澄みきって、美しい月が海面で冴えた光を滲ませる。黄金の光は溶けて、真上にある月へと続く光の道を浮かび上がらせていた。どこか切なくて、胸の奥が掻き乱される悲哀の色。まるで酸素を求めるように私は海へと駆け出した。裸足の指に冷たい空気にがはいりこむ。久しぶりの走り出しは不格好で、何度も足を取られる。砂浜へと転びそうになって、そんな自分に笑った。
こんなにも無我夢中になったのはいつぶりだろうか。どこまでも遠くへ逃げ出したい欲求が、きっとたまたま、今弾けてしまったのだろう。孤独の色を秘めた月の輝きはそれほどまでに蠱惑的で、私には救いの手に見えたから。消えてしまいたい希死念慮も、生きていたいと気付いてしまう願いも、あの海は泡になって呑み込んでくれる気がした。最期の願いをあの月に託すように、私は瞬きの輝きに足を沈ませる。
/「ただ、必死に走る私。何かから逃げるように」
湿った空気を胸いっぱいに吸い込む。嵐の前触れだと肌がざわついた。重たい雲がゆっくりと空を遮って、絶え間なく降り注ぐ雨が街全体を濡らしていく。光を反射する玉粒の水は私の身体を、濡らすことなくすり抜けていった。
私は半透明で、居てもいなくても構わない存在だった。余計なことはせずに、必要なときに求められたことをする。相手にとって都合のいい言葉を吐き続ける。人形のままごとをさせられている、そんな日々を繰り返した先に「自分の意志がないんだね」と嘲笑だけが待っていた。もう、疲れた。私にだってほしかったものくらいある──ただ、褒めてほしかった。頑張ったね、偉いねって受け入れてほしかった。そうしたら私はまだ生きていたかったのに。
「ねぇ。せんぱいせんぱい」
これから内緒話でもするような小さな声。それに甘さを含んでいるような錯覚をしてしまう。視界を塗りつぶすピンク色の小物たちが並ぶ彼女の部屋はラフな格好をしている自身を場違いだと告げているようだ。足元に落ちているクマのぬいぐるみに逃れるように視線を落とす。見た目は少しだけ気味悪く、縫い付けられたボタンの目がこちらをじっと見張っているようだ。恋人という立場に収まってから初めて踏み入れる空間に嫌な汗が止まらない。
「……ん、どうしたの?」
「ふふ。なんか、いいなぁって」
間延びした声が緊張の糸を少しだけ緩ませる。いつもと同じような表情を浮かべていた彼女は、今は少しだけ違う気がした。砂糖が蕩けて、捉える視線になんだか不自然に心臓が脈打ってしまう。
「せんぱいがよーやく、となりにきてくれたなぁって」
「……私、いつもきみの隣りにいたんだけど」
「えー。ちがうんだよねぇ、そういうのじゃ。こうね、捕まえたって感じ」
彼女と話しているとふわふわと綿菓子のような中身のない会話にペースを崩される。「きっとわからないでしょ」と問いかけるような素振りをしているのに、きっと彼女のなかではとっくに自己完結しているだろう。今回もそうして振り回すだけ振り回して、満足気にするのだ。──そう思っていたのに、彼女はふっと表情を消していた。蝋燭の火が揺らいで消えてしまうような、無機質な儚さだ。
「……はは。ほんとうに、大変だった」
掠れて消える声は、ひどく凍りついて、なぜだか息が詰まる。俯くと影で隠れる表情にほっと安心したのも束の間だった。
「あのね、せんぱい。おねだりしてもいいかな」
「はっ、え?なにきゅうに」
急な問いかけに動揺すると、その隙を逃さないとばかりに彼女は距離を詰めた。甘い香りとバクバクと音を立てる心臓。そして引き攣る口角とともに警告音が響いた気がした。彼女の前にこれ以上居てはいけない。ねっとりと嫌な予感が纏わりつく。彼女の瞳が光を集めた金平糖のようににきらきらと輝いた。
「──あいしてるって言って?」
「……、え?」
首を傾げて、耳にかけていた髪がはらりと落ちる。透き通った紅茶のような瞳は濃度が増して熱を含んでいた。
「だーかーらー。愛してるって言ってよ」
「はっ、な、なんできゅうに」
「だってぜんっぜん物足りない。お堅すぎるよせんぱい。ほら、言って。ね?」
カッと顔が羞恥で熱くなる。彼女が好きなのは本当で、抵抗はないはずだ。けれど昨晩観た恋愛ドラマのようなことを自身が口にするのかと思うと躊躇いしかない。ただそれ以上に今言わなければ彼女の関心が失ってしまいそうで。そっちのほうが恐ろしいのも事実で。焦りと羞恥心の狭間で溺れる。
「あ、あい……して……」
喉の奥が閉まって、やっとの思いででた声は情けなく、頼りない。視界はゆっくりと涙で歪んでいく。
「はは、かぁわいー」
「……?」
「なんでもないよ。……んー、そうだなぁ。……ああ!英語で言ってみたらいいんじゃないかな」
濡れた瞳の中で、彼女は水を得た魚のように生き生きと続きを促す。まだ足りないと迫る彼女は優しく頬を撫でた。その指先はひどく冷たい。もしかして彼女も緊張しているのだろうか。──そうやって少しでも思考をそらしてしまった。軋むフローリング。影が視界を覆って、彼女の吐息が甘く残った。耳朶に濡れた声が響く。
「ほら、あいらぶゆー。ね?……じゃないと、もっと先にすすめない」
鼓膜にどろりと甘い蜜を流し込まれたようだ。目を瞠って、はくはくと口を開く。おねだりなんてものじゃない、悪魔の囁きだ。思わず呑み込んだ生唾の音。戸惑いの声は部屋に転がって、近づく影に呑み込まれた。
/ love you