810

Open App

「ねぇ。せんぱいせんぱい」
 これから内緒話でもするような小さな声。それに甘さを含んでいるような錯覚をしてしまう。視界を塗りつぶすピンク色の小物たちが並ぶ彼女の部屋はラフな格好をしている自身を場違いだと告げているようだ。足元に落ちているクマのぬいぐるみに逃れるように視線を落とす。見た目は少しだけ気味悪く、縫い付けられたボタンの目がこちらをじっと見張っているようだ。恋人という立場に収まってから初めて踏み入れる空間に嫌な汗が止まらない。
「……ん、どうしたの?」
「ふふ。なんか、いいなぁって」
 間延びした声が緊張の糸を少しだけ緩ませる。いつもと同じような表情を浮かべていた彼女は、今は少しだけ違う気がした。砂糖が蕩けて、捉える視線になんだか不自然に心臓が脈打ってしまう。
「せんぱいがよーやく、となりにきてくれたなぁって」
「……私、いつもきみの隣りにいたんだけど」
「えー。ちがうんだよねぇ、そういうのじゃ。こうね、捕まえたって感じ」
 彼女と話しているとふわふわと綿菓子のような中身のない会話にペースを崩される。「きっとわからないでしょ」と問いかけるような素振りをしているのに、きっと彼女のなかではとっくに自己完結しているだろう。今回もそうして振り回すだけ振り回して、満足気にするのだ。──そう思っていたのに、彼女はふっと表情を消していた。蝋燭の火が揺らいで消えてしまうような、無機質な儚さだ。
「……はは。ほんとうに、大変だった」
 掠れて消える声は、ひどく凍りついて、なぜだか息が詰まる。俯くと影で隠れる表情にほっと安心したのも束の間だった。
「あのね、せんぱい。おねだりしてもいいかな」
「はっ、え?なにきゅうに」
 急な問いかけに動揺すると、その隙を逃さないとばかりに彼女は距離を詰めた。甘い香りとバクバクと音を立てる心臓。そして引き攣る口角とともに警告音が響いた気がした。彼女の前にこれ以上居てはいけない。ねっとりと嫌な予感が纏わりつく。彼女の瞳が光を集めた金平糖のようににきらきらと輝いた。
「──あいしてるって言って?」
「……、え?」
 首を傾げて、耳にかけていた髪がはらりと落ちる。透き通った紅茶のような瞳は濃度が増して熱を含んでいた。
「だーかーらー。愛してるって言ってよ」
「はっ、な、なんできゅうに」
「だってぜんっぜん物足りない。お堅すぎるよせんぱい。ほら、言って。ね?」
 カッと顔が羞恥で熱くなる。彼女が好きなのは本当で、抵抗はないはずだ。けれど昨晩観た恋愛ドラマのようなことを自身が口にするのかと思うと躊躇いしかない。ただそれ以上に今言わなければ彼女の関心が失ってしまいそうで。そっちのほうが恐ろしいのも事実で。焦りと羞恥心の狭間で溺れる。
「あ、あい……して……」
 喉の奥が閉まって、やっとの思いででた声は情けなく、頼りない。視界はゆっくりと涙で歪んでいく。
「はは、かぁわいー」
「……?」
「なんでもないよ。……んー、そうだなぁ。……ああ!英語で言ってみたらいいんじゃないかな」
 濡れた瞳の中で、彼女は水を得た魚のように生き生きと続きを促す。まだ足りないと迫る彼女は優しく頬を撫でた。その指先はひどく冷たい。もしかして彼女も緊張しているのだろうか。──そうやって少しでも思考をそらしてしまった。軋むフローリング。影が視界を覆って、彼女の吐息が甘く残った。耳朶に濡れた声が響く。
「ほら、あいらぶゆー。ね?……じゃないと、もっと先にすすめない」
 鼓膜にどろりと甘い蜜を流し込まれたようだ。目を瞠って、はくはくと口を開く。おねだりなんてものじゃない、悪魔の囁きだ。思わず呑み込んだ生唾の音。戸惑いの声は部屋に転がって、近づく影に呑み込まれた。

/ love you

2/24/2023, 11:56:21 AM