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2/11/2023, 12:32:35 PM

 茜色に滲んだ空はゆっくりと夜へと呑み込まれていく。鈍く響きわたる町内放送のメロディー。大きな影を蠢かしながら翔び立つ烏。カーテンの裏に隠れながらぼんやり眺めるのが私は好きだった。眠りにつくまえのホットミルクのような微睡み。緩ませてくれるこの時間が私を現実から遠ざけてくれるのだ。


 私はいつからか学校に通うことが出来なくなっていた。イジメに合ったわけではない。けれど酸素のない水槽のような息苦しさに溺れながら、必死に笑って人付き合いをしていく日々は私を体から蝕んでいった。

 だんだんと、ご飯を美味しいと感じられなくなった。咀嚼している間、ふらついて宙ぶらりんになったような不快感がふつふつと沸いてくる。

 夜に眠れない日が続いた。部屋の角から目が離せないまま明日が来ることを考えないように固く瞼を閉じてやり過ごす。朝に起きれない日もあったし、早く起きると進んでいく時計の針を血の気を引いたように見つめてしまう。そして、玄関の前でしゃがみこむ。

 あっという間に不登校へと雪崩込んいた。一歩でも外を出歩くと同級生に会ってしまうだろう。怖くて引き籠もってしまった。お母さんは呆れたような声を上げながら、保健室登校や相談室に登校することを勧めてくれたが、教室でそれを冷ややかに話のネタにして嘲笑っていたのを私は知っていた。鼓膜に張り付く、ねばついた声が私を動けなくさせていく。

 機械的な軽い音楽が微かに聞こえる。お風呂の沸いたことを知らせるチャイムだ。ゆっくりと立ち上がるともう一度だけ窓枠へと肩越しに振り返る。
 
 闇は覆い隠すように広がって、人工的な橙色がぽつぽつと浮かび上がる。呼吸をしているような夜景は、人との繋がりを私から絶ってしまったはずなのに、なぜだか恋しいと心がざわつく。

 ひとりぼっちになりたかった訳ではなかった。なぜ私はあの場所で息ができなかったのだろう。けれどひとりになりたいとあの瞬間、根付いてしまった。いつか時間が私を変えてくれるのだろうか。あるいは、教室以外のもっと自然でいられる場所を見つけられたなら。呼びつけるお母さんの声に我に返って部屋を出る。焦がれたような夜を千切るように扉を閉めた。

/ この場所で

2/10/2023, 9:14:32 AM

 雪面に落ちる木立の影が美しかった。腰からゆっくりと根本に座り込む。首から下げられた一眼レフを弄りながら肩を撫で下ろした。ふ、と吐く息を追いかけるように見上げると突き抜けるような真っ青な空が目に染みて、喉奥を引き攣らせる寒さを一瞬忘れてしまう。雪を掻き分けるように咲く花。小鳥の囁やくような囀り。枝に積もった雪が溶けて葉に弾かれる音。雪解けとともに連なる冬木は、満開の桜へと大空に枝を伸ばすのだ。少しずつ歩み寄る春の気配に心を踊るとともに今ある景色を宝物のように抱きしめる。
 青々と咲く花だけが全てではない。吹き付ける風と混ざりながら舞い上がる雪の粒は六角形の結晶であり、冬に降る花なのだとレンズを通して視てきた。牡丹雪や花弁雪。段々と強くなる風に押し上げられると、迷ったようにしばらく漂いながら銀世界へと姿を隠していく。幻想的な花束が滲ませる光に、自然と指はカメラのシャッターを切っていた。春の陽だまりの中へと移ろいゆく瞬間を永遠に残していたい。消え行く影へと手を伸ばすように。

/ 花束

2/9/2023, 6:45:50 AM

 猫とは、春の陽だまりのようだ。
 ぼんやりとした昼下がりの午後。柔らかな温もりが腹の上で丸まっている。硬い床の上で冷凍マグロのように横たる俺が少しでも身動ぐものなら、吊り目の猫さまからじろり非難される。
 日が傾く度に室温もますます低下していく。正直なところ、布団を渇望していたが猫さまの好感度が下がってしまうのが口惜しい。諦めて手足を投げ出すと、猫さまは小さく「にゃあ」とよくやったニンゲンとでも労うように満足げだ。
 猫という生き物には無限の可能性を秘めている。春のように手を伸ばしていたくなると愛おしさとか手放し難いふわふわとか。俺は改めて感慨深くなりながらゆっくりと目を閉じた。

2/8/2023, 9:31:32 AM

 私は愛想笑いばかりを浮かべる自分自身に辟易していたのだろう。笑顔の中にねっとりとした泥が混ざって、誰もいない空間で表情を削ぎ落とす。嫌わないように誰に対しても当たり障りなく振る舞いながら、求められた言葉を吐き出す。
 
 周囲に対する同調と表面的な笑顔を積み重ねは、否定されることの恐怖が根にこびりついていた結果だった。

 幼少期を私は情緒不安定に暴れ出す母に怯えて過ごしていた。暫くすると落ち着き始めて、バツが悪くなり猫撫で声で甘えながら特別な料理を作り始める。そのあとは決まって「私のこと好き?」と尋ねてくるのだ。私は震えそうになる声を抑えつけて「好きだよ」と血の気が引く思いで微笑む。満足な答えに柔らかな声で厨房に戻っていく姿が私をひどく安堵させて、機嫌をとるように望まれた言葉だけを吐き出すようになった。そしていつしか、擦り減っていく自分の気持ちが分からなくなった。

染み付いた言動は社会に出ても変わらずに私の一部となっている。敵をつくらないための生き方は、周囲の人間こそが私の敵そのものだったから。綱渡りのようで息苦しい。
 本当は私が私らしくいられる居場所が欲しかった。何をしても赦されて、縛り付けるものがない。息苦しい自分を解き放てる、そんなものを。
 一歩を踏み出すことに躊躇し続けていた普段なら何もしなかっただろう。けれどこのときは気持ちよく酒に酔っていたのだ。手近なものを探した。
 机いっぱいに広がったレシートの山と一冊のノート。それに落書きのように日記を書くとこれが面白かったのだ。上司の愚痴と季節限定のコンビニスイーツを買い損ねた嘆き。   
踊るようにさらさらとペンを動かすたびに胸に重くのしかかっていたものが軽くなる。爽やかな風が通っていったような清涼感があった。
 この日を境に文具店に通い詰め、可愛らしいノートやマスキングテープを見かけるたびに欲望のままに買い漁った。お花のシールで飾られたページとは裏腹に書いてある内容が物騒だったけれど、眠った感情を一ピースずつ拾い集めている実感が堪らなく安心感を与えてくれた。
 少しずつ、少しずつ。身動きの取れない疲弊したときははしっかりと休んで、体力があるときは多少つらくても書き出す。すっかりと慣れた頃には話のネタ探しに、旅行にも行くようになった。そして今日もまた、電車に身を委ねながら小な旅行へと出かける。窓の向こうは、重い雲がゆっくりと流れていた。雨の玉がきらきらと光を反射させて落ちていく。以前なら陰鬱と捉えていたのに、川の流れのように穏やかだ。私は緩い微笑みで鞄に眠っている日記帳をそっと撫でた。


/ どこにも書けない

2/6/2023, 5:24:00 PM

 
 眠れない夜がやってくる。
 淹れたての珈琲から漂う湯気は頬をふわりと撫であげる。たっぷり注いだミルクは夜を思わせる苦さをまったりしたカフェオレへと色づかせた。
 秒針の刻む細かい音。長い夜の付き合い方をぼんやりと考える時間は落ち着く。角砂糖のようにぽちゃんと沈んで、底へと溶けてしまいそうになるのだ。
 一口すするとほんのりと甘いミルクが胸の内側にじんと染み渡り、微睡むような温かさに瞼がどんどん重くなる。
 チクタクと規則正しい秒針は子守唄のようで夜の底へと包み込まれた。



/ 時計の針

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