私は愛想笑いばかりを浮かべる自分自身に辟易していたのだろう。笑顔の中にねっとりとした泥が混ざって、誰もいない空間で表情を削ぎ落とす。嫌わないように誰に対しても当たり障りなく振る舞いながら、求められた言葉を吐き出す。
周囲に対する同調と表面的な笑顔を積み重ねは、否定されることの恐怖が根にこびりついていた結果だった。
幼少期を私は情緒不安定に暴れ出す母に怯えて過ごしていた。暫くすると落ち着き始めて、バツが悪くなり猫撫で声で甘えながら特別な料理を作り始める。そのあとは決まって「私のこと好き?」と尋ねてくるのだ。私は震えそうになる声を抑えつけて「好きだよ」と血の気が引く思いで微笑む。満足な答えに柔らかな声で厨房に戻っていく姿が私をひどく安堵させて、機嫌をとるように望まれた言葉だけを吐き出すようになった。そしていつしか、擦り減っていく自分の気持ちが分からなくなった。
染み付いた言動は社会に出ても変わらずに私の一部となっている。敵をつくらないための生き方は、周囲の人間こそが私の敵そのものだったから。綱渡りのようで息苦しい。
本当は私が私らしくいられる居場所が欲しかった。何をしても赦されて、縛り付けるものがない。息苦しい自分を解き放てる、そんなものを。
一歩を踏み出すことに躊躇し続けていた普段なら何もしなかっただろう。けれどこのときは気持ちよく酒に酔っていたのだ。手近なものを探した。
机いっぱいに広がったレシートの山と一冊のノート。それに落書きのように日記を書くとこれが面白かったのだ。上司の愚痴と季節限定のコンビニスイーツを買い損ねた嘆き。
踊るようにさらさらとペンを動かすたびに胸に重くのしかかっていたものが軽くなる。爽やかな風が通っていったような清涼感があった。
この日を境に文具店に通い詰め、可愛らしいノートやマスキングテープを見かけるたびに欲望のままに買い漁った。お花のシールで飾られたページとは裏腹に書いてある内容が物騒だったけれど、眠った感情を一ピースずつ拾い集めている実感が堪らなく安心感を与えてくれた。
少しずつ、少しずつ。身動きの取れない疲弊したときははしっかりと休んで、体力があるときは多少つらくても書き出す。すっかりと慣れた頃には話のネタ探しに、旅行にも行くようになった。そして今日もまた、電車に身を委ねながら小な旅行へと出かける。窓の向こうは、重い雲がゆっくりと流れていた。雨の玉がきらきらと光を反射させて落ちていく。以前なら陰鬱と捉えていたのに、川の流れのように穏やかだ。私は緩い微笑みで鞄に眠っている日記帳をそっと撫でた。
/ どこにも書けない
2/8/2023, 9:31:32 AM