義務教育を受けられず、親から放り出された私にとって対話とは感情を剝き出しにした獣のように取っ組み合う拳のことだった。
考えて行動することは嫌いだ。嫌いだし、そもそも出来ないものだと諦めている。欲しいと胸が乾いたのだから、行動するのだ。理由なんてゴミでしかなかった。
そんな私はきっと単純だったのだろう。差し伸べられた真っ白な手に恋をした。知らない人間だった。
月明かりさえ見えない暗がりの公園で、私は空腹に負けて倒れ込んでいたのだ。あと少しで水飲み場に辿り着いたのに。冬の空気が容赦なく体温を奪って、それでも死にたくないと、細い糸みたいな意識を繋ぎ止めていた。
ぱちんと音がした。じわりと右頬が熱くなって、痛みがやってくる。頬を張られたことにようやく気付いた。
虫の息である私をサンドバッグにでもしたいのだろうか。抗う体力なんてとっくに尽きている。好きにすればすればいいんだと自暴自棄になった。けれどもし体力が持ち堪えたら必ず相手を打ちのめそう。雪辱を晴らす相手の顔を、せめて目に焼き付けて置こうと思った。
視界に黄色い物体が目一杯に飛び込んでくる。表面がきらきらと輝いて何故かそれが無性に欲しくなった。唇にぐりぐりと押し付けられて、半ば反射で齧り付く。
ほわりと甘くて、温かなふわふわの食感。喉が乾いているのに壊れた蛇口みたいに涙が溢れていた。
「メロンパン、気に入ったの?」
囁やくような、くすぐったい声に私は必死に首を縦に振る。
「そっか。私は嫌いだから、処分できて良かったよ。貰い物でね、存分にお食べ」
初めての優しさは甘砂糖のように、染み付いて、じんと身体が熱くなった。ドクドクと打ち鳴らす心臓と駆け出した恋心。
ぽん、ぽんと頭を撫でられると、目を瞑ってそこだけに意識を集中させる。ありつける食事を前に優先させたいと求めたのは初めてだ。視界を閉ざしても良いと思えたのは初めてだ。膨れ上がる感情が何度も私の中で爆発して止まらない。
「かわいいね。素直な子は好きだよ。またゴミを渡されたらきみにあげる」
雲の切れ間から覗く銀色の月明かりが彼女を包み込む。息を呑むような、美しさだ。汚れきった世界が彼女を中心に色付いていく。
こんな感情知らなかった。微笑んだ彼女は私を優しく抱きしめる。頭の中で星が散った。柔らかくて、細くて、メロンパンよりも甘い香りに口の中で涎が溢れる。私の大切な人だ。刻みつけるような喜びに心は緩みきった。
/ 溢れる気持ち
仕切られているカーテンは遠慮なく開け放たれている。白を基調とした一人部屋の病室。清潔感の保たれたベッドに彼女はいた。緊張感のある病室の冷たさを春の暖かな陽気が多少は和らげているようだった。
ふわりと揺らす亜麻色の髪は透き通って、のんびりと目を合わせる彼女は花が咲いたように美しかった。
彼女の余命は僅かだ。宣告された言葉を理解した瞬間の肺を押し潰す重苦しい感覚はいまだに忘れられない。延命の余地はあった。けれど可能性は限りなく低い。ただ苦痛だけが延長するかもしれない賭けに彼女は首を横に振った。
「生きてほしい」と切に願う家族の叫びを彼女は最後まで振り切った。凪いだ横顔を見つめるたびに共に生きてくれと喉元まで零れそうになった。その度にゆっくりと混ざり合う瞳の奥、水底に吸い込まれるような感覚に息が詰まらせて踏みとどまる。
彼女はこれまでも何度となく千切れた糸を結び直すような手術をしてきた。可能性も繰り返してしまえば、具体性を失ってしまう。施された続けた彼女は、どれだけの希望と絶望をの中を彷徨っていただろうか。その手をもっと早く握り返してやればよかったのに。湖面のような瞳には全てが平坦に映し出されていた。
死なないでほしい。頼むから、足掻いて、そばにいて───ひとりに、しないでくれ。
縋り付く先を求めているように、震える指先。浅い息を吐いて、それを無理やり飲み込む。生きてほしいと彼女に訴えることは浅はかな欲望なのだろうか。ただそれをしてしまえば、彼女との繋がりが途絶えてしまう予感がした。微かに残された時間と向きうこと。彼女をひとりにしないことだけが、今の自分に求められた唯一なのだろう。
今にしてみれば、この頃からだろうか。彼女が浮世離れして、夢を見る少女のような空想を語り出すようになったのは。まるで全てから目を逸らしてしまったようだった。
執念深く抉じ開けるように時間をつくっては、そのまま焦がれたように早歩きで彼女の病室へと押しかける。そんな日々が習慣になりつつあった。
「ふふ、ついに仕事クビになっちゃった?……ほんと、犬みたい」
呆れたように眉を潜ませる。口調とは裏腹な声色が鼓膜を震わせた。とくりと、脈打つ心臓にはいつだって慣れなくて、ふわふわとした心地になる。
「そんなことにはならない、はず」
「弱々しい声だなぁ」
「……早く会いたかったんだからしょうがないだろ」
「ふぅん?……ならしょうがないのかな。いつが最期の日か分からないもんね」
恐ろしいブラックジョークとして彼女は容易く自身の寿命を口にするようになった。正直、とても肝が冷える。
彼女はふと、床頭台へと視線をずらす。花を散りばめたハーバリウムは彼女の隣で枯れることなく存在している。
一度だけ、花を贈ったことがある。桃色のカーネーションだった。仄かな甘い香りが消毒液のツンと刺す独特な匂いを薄れさせてくれればいいと、少しでもそう思ってしまった。いつもの変わらない表情で「私にみせて」と柔らかな唇を動かした。
慈しむように受け取った彼女は、無造作に花を千切る。惨めたらしく散る花びらが視界を横切って足元へ落ちていく。ゆっくりと時間を置き去りにして流れていくようだった。
「私と同じものを置かないで。慰めにもならない」
いつもと変わらない表情のはずだった。口端は弧を描く。固執したように朽ちていくものを避ける彼女は、枕元に死神が佇むことに怯えている。
まとわりつく恐怖を拭い去ることが出来ない。平坦な明日を迎え続ける自身の言葉は軽くて、喉が引き攣った。それは今も変わることなく、彼女の救いになることも出来ないままだ。
「ねぇ。これね、読み切ったんだよ」
細い枝のような心許ない指先は、本を背表紙を撫でている。彼女に強請られて買った代物だ。鯨の表紙が大きく描かれているのが印象的だった。
「52ヘルツの鯨、知ってる?」
「いや、何も調べないで買ったから、初めて知ったが」
「……へぇ。知らないで渡してきたんだ?」
猫のようにじっと目を細めて楽しげに反応を伺っている。
「ふふ。世界一孤独な鯨って言われてるらしいよ」
「……孤独?鯨がか?」
「うん。誰にも届かない周波数を持っていてね。言葉を交わすこともできずに独りで漂い続けるんだってさ。……それって寂しいのかな」
一瞬、彼女の言葉尻が弱く、掠れていた。太陽が隠れて暗い影が落ちる。冷たく吹いた風は灰色の雲を押し流す。湿気が籠もって、急いで窓を締めた。叩きつける雨が窓を揺らした。水滴が伝って、とどまることなく流れていく。
「……もしかしたら、寂しくないのかもしれないだろ」
「……それはどうして?」
「温もりを知らないんだろう?最初から独りぼっちなら、痛みも知らないままなんじゃないか」
「そっか。ははっ、うん、そうなのかもしれない」
「……自分自身と重ね合わせたか?」
息を呑むような彼女の表情。重苦しい沈黙が横たわった。
「あー、うん。少しだけ。気を紛らわせようとした程度だけど。孤独感に浸ってる間はさ、頭の中のものを鈍らせてくれるんだよね」
瞼を閉じた彼女は傷跡を何度も確認しては安堵しているようだった。起こした体をゆっくりとマットレスへと沈ませる。軋むスプリングの音が大きく響いた。
「他にね、夜になると星のこととか考えたりするんだ。いま見えてる光はもうないこととか、今更知ったよ。きみは知ってた?」
「確か、光の速度……だっけ。遠い星の光は、地球に到達するのに時間がかかるから」
「うん。気付いたときにはもう、存在してない星ってさ。ぼんやり考えるのには丁度良いかなって」
「……思惑通りにできたか?」
「うーん。存外、真剣に考えちゃったよね。あと夜に合うお酒が呑みたくなった」
顔をそらして居心地悪そうに視線を逸らすと乾いた笑いを溢した。ふ、と漏らした息に、呆れられたと勘違いしたのだろう。
安心させるようと、手を伸ばす。震える瞼。細い息遣い。彼女はふわりと微笑むと手のひらに頭を擦り付けて甘えてくる。
長い夜の付き合い方が分からないまま、思考を重ねて夜空を眺める姿が脳裏をよぎる。寂しく心細い。ぐっと心臓が苦しくなる。添え木のような存在になれたなら、どれだけ良かっただろう。
「変わるものばっかりで飽き飽きだよ。……きみの中の私もさ、変わったでしょ」
首を傾げて顔を覗き込む。耳朶にかかった横髪がさらりと落ちてカーテンのように揺れる。
「……いやだなぁ。私ね、猫を被ってたから。大切に、大切に。君の前だけの私を作ってさ、君を箱庭に飼う感覚でね。育て上げるつもりだったのに」
「……そんな気はしていたって言ったらどうする?」
「え。あれ?……えぇっと、性格悪いって思ったり」
「思ったよ」
意趣返しのように答えると酷く狼狽してあどけない表情を浮かべた。
「えー……想像と違ったな。もっと慌てふためくきみを見たかったのに」
口惜しげに、ぼそりと呟く。容赦なく額を折り曲げた中指で弾いた。鈍い悲鳴をあげる声が聞こえだが今は清々しい。
「ひどい、いたい、横暴だ」
「自業自得の間違いだろ」
「だからって、こんな可愛らしい彼女にする?」
「もう一発もらいたいのか?」
こんな弾むようなやり取りは、いつぶりだろう。傷を抉らないように、選んでばかりでの慎重な言葉はどれも薄っぺらなものばかりだった。
「でもそっか。なら、もう遠慮はいらないね。……私はね。きみの中で変わらない存在になりたい」
「それなら、もうとっくに」
「足りない。夕暮れとか、真夜中とかさ。哀愁の漂う時間はずるいよね、全部物足りなくなる」
段々と吐き出すように早口になっていく。取り憑く焦燥感。積み上げたものを彼女は自分の手で崩そうとしているのだと、そのときようやく気付いた。
「ははっ、ねぇ。体温も、香りも、声もね、鼓膜に刻みつけて。誰の呼びかけにも応えないで、ひとりでいて。おねがいだから。……できるよね?」
繰り返し吐き出される言葉にぐんとお腹が重くなる。冷たい指先から伝わる緊張。
それでも止まることのない願いは彼女の血を吐くような叫びだった。応えるように、指の付け根を絡ませて抱き寄せる。彼女は昂ぶる感情に声を詰まらせていた。子守唄で寝かしつけるようにそっと背中をさすることしか、できない。
「ひとりでいる。君みたいな厄介な子だけで、俺はもう充分しあわせだ」
鮮やかな夕空が滲んで、雲の切れ間から差し込む。雫がきらきらと光っている。ハーバリウムが作り出す影は幻想的だった。その光景にも彼女は恐怖しているのだろう。必死に自身の存在を焼き付ける。大切な宝物を仕舞い込むように。
/ 1000年先も
先輩は懐いた猫のように私の膝枕を強請る。
「ねぇ。いいでしょ?」なんて図々しく首を傾げてみせた。さらりとした長い髪から覗く耳朶は少し染まっている。ふてぶてしさも補強してしまうほどの愛らしさ。美人というものは卑怯だ。翻弄されているというのに、風船みたいなふわふわとした心地になる。意地悪で狡いこの人は分かっていて、愉しんでいるのだろう。それが少しだけ癪だった。
私の倫理観は欠如している。
価値観という指標がズレていることを群衆の中で何度も感じることがあった。けれどそれは感覚の問題で、違和感だけが付き纏う。私は理解できない感情の正体を暴きたかった。
中学生の私は模範的な優等生を演じる。周囲を取り囲む人間関係は蟻の巣のようで、観察することに没頭できる有意義な時間を過ごす。
私に欠如しているのは、美醜に対する相互理解だとすぐに分かった。『醜い』ことへの不快感の味は知っている。教室の端の方、黄ばんだ歯を覗かせながら棒のように立ち竦む、眼鏡の少女を罵倒する女子たち。品性のかける笑い声は卑俗さを剥き出しにしている。露骨に見せつけることによって自身の地位を確立しようと縋り付いているのだろう。それが私には浅ましく醜い存在として視界に写った。
対して、『美しい』とは何か理解ができない。判断する基準が私の中になく、想像上の産物のように不確かだ。相対的に評価される美しさなら理解できるのに、私の中で姿をあらわすことはなかった。
美しさとはどんなものなのか。心を揺さぶる。惹き付けられる。……自然と目で追ってしまうものなのか。裸でいるときの、開放感に溢れるものなのか。逡巡して思いを馳せながら嘆息する。憂いに帯びた瞳は少し熱に帯びて、憧憬は偏執へと変わっていた。
その日、私は貸出日が間近に迫った本を余裕を持った足取りで返却した。夕暮れに染まる廊下は夜の影に呑み込まれていく。下校時間は過ぎて、すれ違う人は誰もいない。階段を降り、廊下を突き当りまで進もうとして、───足を止めた。
血を吐くような掠れた声。静寂のなか、微かに聞こえた声は聞き覚えのあるものだ。耳をそばだてる。何故か分からないのに、心臓は早鐘を打った。
息を潜ませてゆっくりと扉へと近づき、無人の教室を覗き込む。
揺れるカーテン。ふわりと髪が揺れる。
ああ、虐げられていた子だ。濁っりきった、噎せ返るような香り。彼女は特定の机の前で嘔吐きながら、しかしその横顔は笑っている。醜いと感じていた人間の机だと私は気付いた。唇の端を痙攣させながら銀色の糸をひいて、べちゃりと吐瀉物は落ちていく。燃えるような暮れの空が沈んで、汗だくの彼女を隠す。浅い息と紅潮する頬がまろやかで、心臓を捕まえられた。私はそれを美しいと網膜に焼き付ける。喉がカラカラに乾いて、余波が脳をちりちりと焦がす。振り返る彼女は、私を視界に映すと表情を凍りつかせる。子鹿のように足元を震わせる幼気な姿はひどく美味しそうで余韻に浸りそうになった。こんなにも綺麗で、可哀想で。この子を私のものにしたい。色付いた欲望は暴れ出す。私は教室へと踏み込み、閉じ込めるように後手で扉を締めた。
夜の緞帳を降ろした静かな海。鏡のように広がる星々は海面に光を纏わせて波打っている。裸足で踏み入れたことを咎めるような冷たく刺す痛みははだんだんと薄れていた。
月の光は真っ直ぐに銀色の道を浮かび上がらせる。漂うように、何度も、何度も波に攫われながら足を踏みしめた。ゆらゆらと揺蕩いながら波紋は外側へと広がっていく。服が鉛のように重い。吐き出される息は掠れて、苦しくてたまらない。必死に生きようと藻掻いているみたいだ。震える瞼を持ち上げて、痺れる唇を噛み締めた。
希死念慮というものは私から付き纏って離れることはなかった。「消えてしまいたい」と現状から逃れたい空っぽの言葉はぐるぐると心臓へと渦を巻いて、気付けば私をゆっくりと飲み込んでいく。その衝動だったのかもしれない。ただ不意に何かを求めるように私は突き動かされて、ゆっくりと今も死へと向かっている。
ふと腕を引かれるように背後を振り返った。頼りない影が足元で揺れている。体力はとっくに尽きて後戻りすることは出来ない。心は澄み切って、導かれるように光の中へと沈んでいく。
神秘的でどこまでも果てがない。頭上に美しく佇む満月は祝福するように輝いていた。