逃げ出した。周囲の取り巻く環境と蠢く変化を比較して、焦りで嘔吐く。うずくまって横たわる自分に気づきたくなかった。
淀んだ瞳はテレビに向けて何度もチャンネルを切り替えた。成人式の晴れ姿。色鮮やかに着飾って綻ぶような笑みを浮かべながら口々に感謝と喜びを伝えている。切り替わる画面は萎びれた部屋着がうっすらと浮かび上がらせた。みすぼらしい姿だ。薄汚れた自身をつきつけられた気がして、喉はいつも以上にカラカラと乾いた。
ぼんやりと持て余す時間は思考はぬかるんで沈みだす。無気力な姿勢のまま適度にビールを煽ぐ。タバコは死骸のように積まれて崩れ落ちそうだ。
成人したら生きたいように生きられる。当たり前のように一人暮らしをして、ぎこちなく足を踏みしめる。そうやって自立するのだと、夢を描いていた。
けれど現実は実家ぐらしのまま、窮屈に自分の意志を曲げながら生きている。顔色を伺って、遠慮して、卑屈になっていく。
悪癖だった。中学生になったら。高校生になったら。……成人したら。きっと人生の節目とともにまばゆい日差しがさして変わっていける。報われるはずだ。
けれど光は届かずに、変わることなく俯いてばかりいた。こんな自分に何を期待していたのだろう。乾燥と湿気が入り混じる部屋のなかで足元からスマホの通知音が無機質に鳴り響く。聞こえる賑やかな声が尾を引いて、もう一度画面を見つめる。
放棄したくなる投げやりな感情とともに浮かんだものは憧憬だった。祈るように硬く瞼を閉じ、膝を抱えながら深く深く吐き出す。そしてまた願ってしまうのだ。溢れんばかりの光がいつか自分のもとへ注がれることを。何度も何度も繰り返すように。
吸い殻は底と崩れていった。音もなく、気づかれることもないままに。
愛した人が遺した指輪をのみこんだ。
ないはずの熱が蝕んで脳をちりちりと焦がす。大切なものが掠れた感触を忘れたくなくて、喉仏を抑えて欄干に凭れかかる。春の風が耳の裏を撫で上げた。
手を繋ぐとくすぐったそうに笑う人だった。離さないように指の付け根まで握り込むと熱の籠もった指輪が食い込む。その存在が震えるほどに心を満たして、緩む表情筋を隠すことにどれだけ苦労したことか。けれどそれすら掬い上げて、柔らかな微笑みを浮かべる彼は金木犀のような香りがした。
三日後の朝、彼は亡くなった。
甘い香りが満たされた部屋。開ききったベランダから誘われる花弁は残骸のように横たわる。ゆらゆらと広がるカーテンの影は透き通って、夢のようだった。
取り残されて、もう藻搔くことに疲れてしまった。心の澱は積もって息の根を奪う。綿毛のように掴みどころがない彼もとっくに息が出来なかったのだろうか。
薄く笑って涙が薄い膜を貼った。視界はこんな時ですら、彼の影をうつすことはない。乗り越えた欄干と向かい合う。背には大空が広がっていた。澄んだ蒼が染みて瞼が痙攣した。
ふわりと風が舞い上がる。視界の端にゆったりと流れる花弁を握り潰すように瞼を閉じて、束の間の夢から落ちていった。
澄み切った空気は少しだけ舌先が痺れるような味がする。呑み込む唾液も温度がない。通り過ぎる笑い声を遮りたくて冷えきった耳朶を守る素振りで耳当てを装着した。ホッと息を吐く。溶けていく白い靄は塵ひとつない空気を汚しているようで気分がいい。自分の存在をようやく主張できた気がしたのだ。ちっぽけな解放感は足取りを軽くさせて、子供のように霜柱を踏みこませる。柔らかな氷の砕ける音は耳あてが邪魔で聞こえない。けれど靴裏から伝わってくる、サクサクと潰れていく感触だけでも十分に満たされてしまった。見慣れた光景を忘れたようにはしゃいで、子どもの自分を取り戻していく。なんとなく耳当てを外した。積もった雪を集めて笑い合う子どもたちの声は優しく鼓膜を揺らす。耳朶は冷たくなっていたが寒くはなかった。ゆったりとした時間を味わいながら漂うようにまた歩いた。