私の倫理観は欠如している。
価値観という指標がズレていることを群衆の中で何度も感じることがあった。けれどそれは感覚の問題で、違和感だけが付き纏う。私は理解できない感情の正体を暴きたかった。
中学生の私は模範的な優等生を演じる。周囲を取り囲む人間関係は蟻の巣のようで、観察することに没頭できる有意義な時間を過ごす。
私に欠如しているのは、美醜に対する相互理解だとすぐに分かった。『醜い』ことへの不快感の味は知っている。教室の端の方、黄ばんだ歯を覗かせながら棒のように立ち竦む、眼鏡の少女を罵倒する女子たち。品性のかける笑い声は卑俗さを剥き出しにしている。露骨に見せつけることによって自身の地位を確立しようと縋り付いているのだろう。それが私には浅ましく醜い存在として視界に写った。
対して、『美しい』とは何か理解ができない。判断する基準が私の中になく、想像上の産物のように不確かだ。相対的に評価される美しさなら理解できるのに、私の中で姿をあらわすことはなかった。
美しさとはどんなものなのか。心を揺さぶる。惹き付けられる。……自然と目で追ってしまうものなのか。裸でいるときの、開放感に溢れるものなのか。逡巡して思いを馳せながら嘆息する。憂いに帯びた瞳は少し熱に帯びて、憧憬は偏執へと変わっていた。
その日、私は貸出日が間近に迫った本を余裕を持った足取りで返却した。夕暮れに染まる廊下は夜の影に呑み込まれていく。下校時間は過ぎて、すれ違う人は誰もいない。階段を降り、廊下を突き当りまで進もうとして、───足を止めた。
血を吐くような掠れた声。静寂のなか、微かに聞こえた声は聞き覚えのあるものだ。耳をそばだてる。何故か分からないのに、心臓は早鐘を打った。
息を潜ませてゆっくりと扉へと近づき、無人の教室を覗き込む。
揺れるカーテン。ふわりと髪が揺れる。
ああ、虐げられていた子だ。濁っりきった、噎せ返るような香り。彼女は特定の机の前で嘔吐きながら、しかしその横顔は笑っている。醜いと感じていた人間の机だと私は気付いた。唇の端を痙攣させながら銀色の糸をひいて、べちゃりと吐瀉物は落ちていく。燃えるような暮れの空が沈んで、汗だくの彼女を隠す。浅い息と紅潮する頬がまろやかで、心臓を捕まえられた。私はそれを美しいと網膜に焼き付ける。喉がカラカラに乾いて、余波が脳をちりちりと焦がす。振り返る彼女は、私を視界に映すと表情を凍りつかせる。子鹿のように足元を震わせる幼気な姿はひどく美味しそうで余韻に浸りそうになった。こんなにも綺麗で、可哀想で。この子を私のものにしたい。色付いた欲望は暴れ出す。私は教室へと踏み込み、閉じ込めるように後手で扉を締めた。
1/17/2023, 10:23:52 AM