「現実逃避」
今度こそ死んでしまう。手が届かない。あと少し、ほんの少しだけだから、だから__。
願いは虚しく散るものだと、神はいないのだと知らしめられる。彼を救えなかった。2回だ。1回目は、彼の自己犠牲によるもの。その時は、みんなが協力してくれた。
2回目、今回はわたし一人だけ。今回も彼がわたしを助けてくれた。
救助が来たのは、彼が死んだすぐ後だった。
なんてひどい悲劇だろうか。わたしが手を伸ばして彼の腕を掴めたら、彼と手を離さなければ、彼は死んでいなかったのに。
泣いた。無様に、哀しみに、自己嫌悪に、助かったことへの安堵感に、彼を失ってしまった喪失感に暮れ、ずっとずっと泣いた。そうすれば、彼は同情して今にもわたしを慰めてくれると思っていたから。
彼がわたしを抱きしめてくれると思い込んでいるから。
なんてひどい自分勝手な現実逃避であろうか
「今日にさよなら」
彼は記憶が一日でなくなる。なので、毎日自己紹介から始まり、彼が、次は覚えておけるようにと言って書いていた日記を見せる。
もう少しで日付が変わってしまう。また、彼と別れなければならない。いつものことだけれども。
今日の彼は死んでしまう、けれど生きている。
なんと残酷だろう。なんと悲劇的だろう。
傷つき合うことで愛を確かめるのは愚かにも程がある。
彼はまた、明日には自分のことを忘れている。
だから、今日の彼にさようならを告げる。
彼がつけた日記を捨てる。
一ページしか書かれていない日記を捨てる。
明日の彼は、生きているだろうか
しにたくない
そう書かれた手紙が、ある日届いた。
「死にたいって言ってるくせに」
そう言いながら、ロープに首をかけた。
やめて
また紙が手に落ちる。なにがやめろだ。臆病者のめ。
「…」
母親の声がする。夕飯ができたらしい。
「…親不孝者すぎるだろ、ぜってぇ地獄行きだわ。」
ロープを捨てた。
満足したのか、未来の自分。臆病者
「スマイル」
この人は写真に写りたがらない。
当たり前と言えば、まぁ、当たり前なのだが。
吸血鬼は鏡、もとい、何にも姿が映らない。だから彼は自分の姿を見たこともないし、今後一切、その悍ましいとも言えるような美しさにも気付きはできないのだろう。
吸血鬼は悪魔と同じようなものだと言った者が昔いた。そんな者は、今ではその世界ごと消えているだろう。もともと、その人間がいた世界が剪定条件を満たしていたし、最初からそうなる運命だ。だが、彼は世界と共に消えはしなかった。その少し前に土の中なのだから。
神の御加護が在らんことを。
話が逸れてしまったので最初からやり直させて欲しい。
私が言っている彼は、吸血鬼だ。そのことは先ほど話した事でなんとなくは察しているかもしれないが。
そんな彼のことを、私は、彼に彼自身を見てもらいたいと思った。だが、カメラで撮った写真には、ただ真っ白な壁だけだった。
吸血鬼といったら怒られてしまうので引き続き「彼」という名称で呼ばせてもらう。
吸血鬼は鏡に映らない。まさか彼は写真にも映らないとは流石の私も驚いた。彼は少しだけ、消え入るような小さなため息と、うんざりしたような顔で私に写真を返した。彼に気を落として欲しいと思ったわけではなかった。
次の日、彼の部屋へ行った。私に気付いた彼は顔を上げたが、すぐに呆れたように苦笑した。
私は手に持っていた額縁を、彼を絵画のように額縁に入るようにした。彼は相変わらず呆れながら、私の意図を汲んでくれた。
ニコリと微笑んだ彼は、本当に絵画のようだった。
幽鬼のような消えそうなほど白い肌に、冷たく濁った青色の眼、そんな寒く冷たい印象の彼は、だが、暖かい陽射しのような、そんな微笑みを、絵画では表せられないと分かっているのに。
【紅茶の香り】
「いいのが手に入った。ので、お前を誘おうと思う。」
「誘い方下手くそ過ぎだろお前。」
その日は陽射しが出ていて風が頬を掠める気持ちのいい日だと思えた。それなのにも関わらずこの人間離れした美貌とこれまたモデルかと思う程の体型をした男…有角幻也から茶の誘いを受けるとは不運に尽きるだろう。
大体、なんで誘うのが俺なんだよ。ユリウスとかヨーコさんとかでもいいだろ。なんで誘うのが俺なんだよ。気まずくなるのは目に見えるだろう。
「…」
「…」
自分のカップに紅茶が注がれるのをじっと見つめる。それは感動とか綺麗とかそんな大層な感情なんかではなく、ただ単に有角と目が合わせられないだけだった。
「飲まないのか、蒼真」
ちげーよ。お前がじっと見てくるからだよ。飲めないんだよ。
心の中で悪態をつく。この男は鋭いのか鈍いのかよく分からなくなる。本当に、なぜこいつは俺を誘ってきたのだろう。俺も俺でなんでこいつの誘いを受けたのだろう。後悔した。心の底から本当に後悔した。
「…飲むって。」
紅茶の入ったカップを持ち上げて自分の口に近づける。仄かに香った紅茶の香りが、懐かしく感じた。これまで自分は紅茶なんて飲んだこと無かった。なのに、なぜ懐かしく感じたのだろう。
一口飲んで、カップを置く。
「どうだった」
有角の方を向く。相変わらず綺麗な顔をしていた。嫌になるくらい。
「初めてだし、いいとかよく分かんないけど…まぁ、美味しい?んじゃないかな」
「そうか」と言って目を伏せた有角を見ていた。
その時、風がふいてきた。暖かい、優しく頬を撫でるような風。有角の長い黒髪は風に靡いた。