雷羅

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11/6/2023, 11:29:25 PM

「……しまった、傘を忘れてきたな」

 しとしとと降り注ぐ弱い雨。霧雨と言うには強く、しかし本降りよりは弱い驟雨。雲を覆う厚い雲の向こうには太陽があるのがわかる程度の明るさがある。
 少し待てば止むかもしれない。そんな希望を持たせる雨だったが、雨というだけで俺の心は希望を見失う。
 雨の日に、姉を亡くした。
 強い地雨の日だった。
 あれから時も経ち、姉を殺したと憎んでいた友人への誤解も解けた。だが憎しみが混じらなくとも、雨は今も止まない。姉はもういないのだ。
 この世界に希望がないとは言わない。喜びや楽しさを拒絶するのはもうやめた。それでも、雨を見ると、姉が死んだ日を思い出す。希望がなくなった日を。
 暗い気持ちで空を見る。幸い強くない雨だ、急いで駅まで駆け抜けることもできるだろう。
 一歩、足を前に踏み出そうとしてみる。
 そしてすぐに爪先が雨に濡れるのを見て引っ込めてしまった。
 雨に拒絶されている気分だ。いや、拒絶しているのは俺なのか。
 気分が思い。雨に濡れたら今度はなにを失うだろうか。

「あれ、今帰り?」
「あ……」

 玄関口で立ち尽くしていると声がかかる。振り返れば、清潔な印象を受けるパンツスーツの女――かつて憎んでいた友人が立っていた。
 彼女は姉が亡くなる前と変わらぬ微笑みを浮かべて俺に話しかける。

「私もなの、せっかくだし一緒に……あ、あれ? 傘がない!」

 ごそごそと鞄を漁って、表情を焦りに変える。片手で漁っても埒が明かないと判断したのか、鞄を大きく開け中身をよく見る。それでもなかったのか、諦めて鞄を閉じ直した。

「なんだ、お前もか」
「お前も……ってことは、あなたも?」
「ああ。傘を忘れて……どうするか考えていたんだ」

 雨の中に入ることに抵抗を覚えていたことは言わない。俺の疵をむやみに開示すれば、彼女は一緒に抱えようとすることをわかっていた。
 彼女は困っちゃったね、と笑ってから空を指さす。

「でもほら、すぐに止みそうだよ。よかったら一緒にお茶でもどう? 前にもらって、まだ食べてないお菓子があるの」
「いいのか? お前の食べる分が減るぞ」
「人を食いしん坊みたいに……一緒に食べたいの!」

 一生懸命俺を誘うのがおかしくて少し笑う。
 それから彼女が指さしていた空を見た。
 さっきまでは強く俺の目を曇らせていた雨は、今はすぐに止みそうな柔らかな雨に見える。
 きっと、彼女が隣にいてくれるからだ。
 雨に背を向けて、彼女に微笑む。

「そうだな、雨が止むまで付き合おうか」
「よかった、そうしましょう!」
 

11/2/2023, 9:14:12 AM

 穏やかな陽の光。手入れのされた観葉植物。甘い化粧品の香り。優しく頭を撫でるエイミーの手。時折意地悪にキスをしてくれるエイミーの唇。包み込むように抱きしめるエイミーの体温。
 それらが、マールの世界の全てだ。
 昼過ぎにぼんやりと起きるマールにエイミーは「おはよう」と微笑む。起きてすぐはいつも動きの鈍いマールに怒りもせず、エイミーは手ずから食事を与え、それが終わると顔を洗わせ歯を磨かせた。うさぎの耳の生えた柔らかでふわふわの髪に櫛を通し、最後に「今日もかわいいわね、マール」と抱きしめてくれる。
 マールはとにかく生きるのが下手な生き物だった。
 鈍臭く、話すことが苦手で、なにをしても失敗ばかり。そんなマールに呆れるばかりか、関わる少女は必ず怒って去ってしまう。
 いっそこの耳の通り、うさぎであればかわいいだけでいられたのに。ふわふわとかわいいだけの、なにもしなくていい存在でいられたのに。
 そのマールの悲しみを、叶えてくれたのがエイミーだ。
 エイミーはマールに怒らない。どれだけ服を破いても、どれだけ食器を割っても、どれだけ何も出来なくても。なんでもしてあげると優しく囁いて、甘やかすだけ。
 エイミーの膝枕で昼寝をして、とろとろと甘やかされているのが好きだ。きっと彼女なしでは生きていけないし、永遠に二人きりでいられたらいいのにと思う。
 悲しいことは嫌。苦しいことは嫌。怒られることは嫌。エイミーがいなくなってしまうのは嫌。
 マールには嫌なことがいっぱいで、それは部屋の外には常にあるものだ。
 だから、マールは食事時が大嫌いだった。

「マール、そろそろご飯を探してくるわ。いい子に待っていられる?」
「うん……」

 二人きりで閉じこもっても、食事はどうにかする必要がある。だからその時間になるとエイミーは部屋から出ていってしまう。
 暮らしている館を探せば食事は見つかるから困ることはないが、探しに行く必要はどうしてもあるのだ。そして部屋から出るということは。館に住む他の少女とエイミーが出会うということになる。
 エイミーはかわいくて、美人で、優しくて、品がある。
 そんな彼女が他の少女と話したら、きっと少女はエイミーを好きになってしまうだろう。そうしたらエイミーだって、こんななにもできないマールよりその少女の方が気に入るに違いないのだ。
 恐ろしかった。エイミーがマールから離れるのが。
 恐ろしかった。エイミーがマールから奪われるのが。
 毎日のように送り出す、その背中に手を伸ばしたくてやめる。エイミーをこれ以上困らせたくない。
 でもなにかしたい。マールの平穏のために。マールがエイミーを引き止めるために。
 胸が苦しい。なんの取り柄もないマールには引き止めるための材料もない。ただ愛玩動物として飼われることしかできない。材料がないからエイミーに近づく少女をいなくならせるしかない。でもそんな度胸もないし、バレてエイミーに嫌われるのも嫌だ。
 そうしてその日も、苦しみながら膝を抱えてエイミーが戻ってくるのを待っているはずだった。

「……あれ…………?」

 ふと、床に落とした手に違和感があった。
 ベッドに置いたクッションの下。
 手を入れて引き出してみると、ずるり、と。
 大振りの包丁が、姿を現した。




※世界観設定……少女展爛会より

10/29/2023, 11:11:04 PM

 作品を描いていると、時々考えることがある。
 私の分岐点はどこだっただろう、と。
 作業通話に誰も捕まらなくて、私は黙々と液タブにペンを走らせる。話しさえできればあとは描くだけなので、適当な配信を聞きながら手を動かしていた。でもふと、そんなことを考えはじめてしまって配信の声が頭に入らなくなってくる。
 私の分岐点。私が通ってこなかった、もう一つの物語。
 たとえば、そもそもオタクにならなかった私。ちょっと想像ができない。今私がこんなに楽しいのはこれまで読んできた数々の漫画のおかげなので、それらを知らないでなにを楽しみに生きればいいのかわからなかった。
 たとえば、化粧を好きにならなかった私。はじめはオタクを隠して普通を装おうとしただけだったけれど、そのおかげで今化粧品を売っているのだから不思議なものだ。もしも化粧と出会わなかったら、私が化粧を好きにならなかったら、なにになっただろう。学生時代から漫画はよく褒められていたから、勘違いして漫画家になっていたかもしれない。でも私は二次創作ばかりでオリジナルを描いてこなかったから、きっと訓練もせずに目指してもいい結果にはならないだろうなと思う。
 たとえば、誰かと結婚した私。三十歳も見えてくると、周囲が結婚しはじめて時々焦る。いつか出会えたらいいなぁという気持ちもあるけれど、今のところは気配はなかった。私が恋愛をしたら、結婚をしたら、どうなるのだろう。漫画を描くのをやめているだろうか。オタクでいるのをすっぱりやめているだろうか。想像すると少し寂しかったけれど、オタクも漫画もやめて大丈夫なほど相手を愛しているのなら、それはそれで幸せなんだろうなと思う。
 だらだらと考えて、結局もう一つ物語なんてものを想像もできない自分の想像力の貧困さに苦笑した。
 いつか、そうだったかもしれない世界。
 想像しても見ることができない物語。
 考えても仕方ない。だって私は今生きていて、明日は仕事で、来月までに原稿を仕上げなければならないのだから。
 液タブにペンを走らせる。
 並行世界に夢を見るのは、今はまだやめておこう。

10/28/2023, 1:40:10 AM

 甘く華やかな香りがする。
 陽の光がまぶたの向こうを明るく照らす中で、それが芳しい珈琲の匂いでないことに強烈な違和感を覚えた。これは紅茶の匂いだ。両親はどちらも珈琲党なのに――そう考えたところで、もう両親はおらず、ここはイギリスだったことを思い出した。
 朝の明るさを鬱陶しく思いながら目を開ける。
 開け放たれたカーテン、花がらの壁紙、英語の書かれた背表紙の並ぶ本棚、ヴィクトリアン調の品のいい家具。
 それらを眺めても、真弥はまだ現実味を得られていなかった。
 先日、両親が死んだ。
 悲しさはない。物心ついたころには既に両親の仲は悪く喧嘩ばかりで、双方愛人を作って真弥を放っていたような親だ。金だけはあったので真弥が苦労することはなかったが、それを感謝するつもりもなかった。
 父は真弥を無視して愛人の元に入り浸り、保険金目当てに殺害され。
 母は愛人に入れあげ日頃暴力を振るわれていたらしい。その果てに殴り殺されたそうだ。
 中学生になる前だった真弥にそう訃報が届いたがどうでもよかった。
 一人で生きていこう。
 他人と過ごして愛などというまやかしに酔えば、両親のように殺される。
 連続して起きた両親の死に、真弥はそう決めて、元々なかった愛想をさらになくし心を閉ざした。
 そんな真弥を見かねて後見人として引き取ったのが、イギリスに住む一家だ。かつて父とよく交流していたらしい小父は「よかったら住む世界を変えてはみないか」と誘い、中学受験を控えていた真弥はそのままイギリスにやってきた。親のいた痕跡のある家に居続けるよりましだと思ったのだ。
 そうしてやってきたイギリスに、中学校に通うようになってからもまだ馴染めない。

「おはよう、ねぼすけさん。紅茶はいかが?」
「白湯をくれ」

 リビングに向かうと、紅茶の香りの元が話しかけてくる。過剰なほどおっとりとした、真弥より少し年上の、この家の娘だ。
 誘いを挨拶もなく無視して白湯を要求しても、娘は無視してさらに続ける。

「朝ごはんはどうする? パンと、オートミールがあるけれど」
「いらない」
「成長期なんだから、食べないと伸びませんよ」
「いらない」

 娘は愛想がないどころか不遜な態度の真弥を気にもせず、カップに白湯を注ぎ、トーストを焼きはじめた。白湯を飲めば内側から体が温められる。それが妙に不快で真弥は眉根を寄せた。
 物心ついた頃から食事が嫌いで仕方なかった。美味いと思ったことがないし、ときに不快で吐き出したくなる。緩やかな自殺志願の現れなのかもしれないと思ったときもあったが、単に体が受け付けないのだ。
 そんな真弥を、娘は笑う。

「どうしたんですか、そんなに難しい顔をして。さぁ、パンが焼けましたよ。バターは、いらなかったですよね?」

 真弥がどれだけ食事を嫌がっても、娘は構わず目の前に食事を置く。用意されたものを食べないわけにもいかず、焼き立てのトーストを口に含んだ。
 娘はわかっているのだ。用意すれば食べることを。そうして世話をすることで、今日も真弥が仕方なく生きなければならなくなることを。
 真弥の愛想の悪さに、触れようとすらしない人間が大勢いるのに。
 眉間のしわを深くして睨みつける。
 それに気付いているのかいないのか、香り高い紅茶を口に含む娘は、確かに「住む場所を変えた世界」だった。

10/27/2023, 12:20:07 AM

 簡素だけどオシャレなデザインの入ったレターセットを前に、ずっとシャーペンを打ち付けている。明日には渡さないとならないのに、さっぱり文章が書けなかった。
 クラスメイトが発案した、転校するやつに手紙を書こうとかいう、厄介な行事。
 書くのは別にいい。他の奴らに紛れて渡せるなら、多少は恥ずかしさも隠せるだろう。
 でも、文章にしたら、なにもかもあけすけにしてしまうんじゃないかと怖くて、いつまで経っても書けなかった。
 この手紙に、なにを書いても、きっとあいつとは二度と会うことがない。
 だから捨て台詞のように「好きでした」と書いてもいいのである。二度と会わないのだから。俺は連絡先さえ交換していないのだから。
 転校の機会に、連絡先も書かず告白だけ言い逃げしていくようなやつなど、きっとあいつも軽蔑するだろう。だからそんな卑怯な真似をするつもりはないけれど、なにを書いても滲み出そうで怖い。どれだけ隠して書いても伝わってしまうんじゃないかと思うと怖くてたまらない。
 国語の先生はいつかの授業で、言葉には力が宿ると言っていた。言霊というやつだ。
 口に出した言葉すら力が宿るのだから、紙に書いてしまったら、それは呪いになるんじゃないだろうか。
 便箋を睨みつけて固まってしまう。
 心臓が嫌な音を立てている。
 それでもなにかは書かないとならない。骨が軋むような音を立てながら、無理矢理手を動かしてみる。
 当たり障りのないことを懸命に探す。いつもどうだったとか、また会えたらとか、そういう、当たり障りはないかもしれないけど俺が見ていたことがバレるような言葉は排除していった。そうすると、精々元気でいてくださいとか、健康に気をつけてとか、そんなことしか書けなかった。
 とりあえず全部を書き終えて息を吐く。
 言葉を排除しすぎて便箋一枚すら埋まらなかった。でもバレることはないだろう。この片思いは、俺が丁重に葬ってやればいい。
 ボールペンで清書して。乾かしてから下書きを消す。少し文字が擦れたが仕方ない。

「…………」

 完成したものを眺める。
 なんとなく、その余白にシャーペンを走らせて、ハッとしてすぐに消した。
 強い未練は体を勝手に動かすらしい。
 余白に書いた文字が完璧に消えているのを確認してから、紙を掲げて祈った。

「どうか、なにも、バレませんように……!!」

 言霊は、吐いたらけして戻らない。
 でも、どうか、すぐに消した愛言葉は伝わらないでほしかった。

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