雷羅

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 甘く華やかな香りがする。
 陽の光がまぶたの向こうを明るく照らす中で、それが芳しい珈琲の匂いでないことに強烈な違和感を覚えた。これは紅茶の匂いだ。両親はどちらも珈琲党なのに――そう考えたところで、もう両親はおらず、ここはイギリスだったことを思い出した。
 朝の明るさを鬱陶しく思いながら目を開ける。
 開け放たれたカーテン、花がらの壁紙、英語の書かれた背表紙の並ぶ本棚、ヴィクトリアン調の品のいい家具。
 それらを眺めても、真弥はまだ現実味を得られていなかった。
 先日、両親が死んだ。
 悲しさはない。物心ついたころには既に両親の仲は悪く喧嘩ばかりで、双方愛人を作って真弥を放っていたような親だ。金だけはあったので真弥が苦労することはなかったが、それを感謝するつもりもなかった。
 父は真弥を無視して愛人の元に入り浸り、保険金目当てに殺害され。
 母は愛人に入れあげ日頃暴力を振るわれていたらしい。その果てに殴り殺されたそうだ。
 中学生になる前だった真弥にそう訃報が届いたがどうでもよかった。
 一人で生きていこう。
 他人と過ごして愛などというまやかしに酔えば、両親のように殺される。
 連続して起きた両親の死に、真弥はそう決めて、元々なかった愛想をさらになくし心を閉ざした。
 そんな真弥を見かねて後見人として引き取ったのが、イギリスに住む一家だ。かつて父とよく交流していたらしい小父は「よかったら住む世界を変えてはみないか」と誘い、中学受験を控えていた真弥はそのままイギリスにやってきた。親のいた痕跡のある家に居続けるよりましだと思ったのだ。
 そうしてやってきたイギリスに、中学校に通うようになってからもまだ馴染めない。

「おはよう、ねぼすけさん。紅茶はいかが?」
「白湯をくれ」

 リビングに向かうと、紅茶の香りの元が話しかけてくる。過剰なほどおっとりとした、真弥より少し年上の、この家の娘だ。
 誘いを挨拶もなく無視して白湯を要求しても、娘は無視してさらに続ける。

「朝ごはんはどうする? パンと、オートミールがあるけれど」
「いらない」
「成長期なんだから、食べないと伸びませんよ」
「いらない」

 娘は愛想がないどころか不遜な態度の真弥を気にもせず、カップに白湯を注ぎ、トーストを焼きはじめた。白湯を飲めば内側から体が温められる。それが妙に不快で真弥は眉根を寄せた。
 物心ついた頃から食事が嫌いで仕方なかった。美味いと思ったことがないし、ときに不快で吐き出したくなる。緩やかな自殺志願の現れなのかもしれないと思ったときもあったが、単に体が受け付けないのだ。
 そんな真弥を、娘は笑う。

「どうしたんですか、そんなに難しい顔をして。さぁ、パンが焼けましたよ。バターは、いらなかったですよね?」

 真弥がどれだけ食事を嫌がっても、娘は構わず目の前に食事を置く。用意されたものを食べないわけにもいかず、焼き立てのトーストを口に含んだ。
 娘はわかっているのだ。用意すれば食べることを。そうして世話をすることで、今日も真弥が仕方なく生きなければならなくなることを。
 真弥の愛想の悪さに、触れようとすらしない人間が大勢いるのに。
 眉間のしわを深くして睨みつける。
 それに気付いているのかいないのか、香り高い紅茶を口に含む娘は、確かに「住む場所を変えた世界」だった。

10/28/2023, 1:40:10 AM