「……しまった、傘を忘れてきたな」
しとしとと降り注ぐ弱い雨。霧雨と言うには強く、しかし本降りよりは弱い驟雨。雲を覆う厚い雲の向こうには太陽があるのがわかる程度の明るさがある。
少し待てば止むかもしれない。そんな希望を持たせる雨だったが、雨というだけで俺の心は希望を見失う。
雨の日に、姉を亡くした。
強い地雨の日だった。
あれから時も経ち、姉を殺したと憎んでいた友人への誤解も解けた。だが憎しみが混じらなくとも、雨は今も止まない。姉はもういないのだ。
この世界に希望がないとは言わない。喜びや楽しさを拒絶するのはもうやめた。それでも、雨を見ると、姉が死んだ日を思い出す。希望がなくなった日を。
暗い気持ちで空を見る。幸い強くない雨だ、急いで駅まで駆け抜けることもできるだろう。
一歩、足を前に踏み出そうとしてみる。
そしてすぐに爪先が雨に濡れるのを見て引っ込めてしまった。
雨に拒絶されている気分だ。いや、拒絶しているのは俺なのか。
気分が思い。雨に濡れたら今度はなにを失うだろうか。
「あれ、今帰り?」
「あ……」
玄関口で立ち尽くしていると声がかかる。振り返れば、清潔な印象を受けるパンツスーツの女――かつて憎んでいた友人が立っていた。
彼女は姉が亡くなる前と変わらぬ微笑みを浮かべて俺に話しかける。
「私もなの、せっかくだし一緒に……あ、あれ? 傘がない!」
ごそごそと鞄を漁って、表情を焦りに変える。片手で漁っても埒が明かないと判断したのか、鞄を大きく開け中身をよく見る。それでもなかったのか、諦めて鞄を閉じ直した。
「なんだ、お前もか」
「お前も……ってことは、あなたも?」
「ああ。傘を忘れて……どうするか考えていたんだ」
雨の中に入ることに抵抗を覚えていたことは言わない。俺の疵をむやみに開示すれば、彼女は一緒に抱えようとすることをわかっていた。
彼女は困っちゃったね、と笑ってから空を指さす。
「でもほら、すぐに止みそうだよ。よかったら一緒にお茶でもどう? 前にもらって、まだ食べてないお菓子があるの」
「いいのか? お前の食べる分が減るぞ」
「人を食いしん坊みたいに……一緒に食べたいの!」
一生懸命俺を誘うのがおかしくて少し笑う。
それから彼女が指さしていた空を見た。
さっきまでは強く俺の目を曇らせていた雨は、今はすぐに止みそうな柔らかな雨に見える。
きっと、彼女が隣にいてくれるからだ。
雨に背を向けて、彼女に微笑む。
「そうだな、雨が止むまで付き合おうか」
「よかった、そうしましょう!」
11/6/2023, 11:29:25 PM