「おはよう」
学校に着くと、その子はいつも私にそう声をかける。私もそれにおはようと返す。同じマンションに住む人とすれ違った人に言うくらい、作業的なおはようが私の朝を告げる。
ベルトコンベアに乗せられた部品みたいにいつもと同じ道を通って席に座る。鞄を置いて、あとはチャイムが鳴るまで本を読む。それが、学校という工場で生産される私のいつもの作業。
学校は工場で、私はそこで作られている部品。卒業したらまた別の工場に行き、大人という完成品になったら、会社という機械の中に嵌め込まれる。
流れ作業のような人生。
取り柄もなく、目立つこともない私にはお似合いの味気なさだった。
それなのに、甘んじてベルトコンベアに流されようとする私をその子は見つけて取り上げる。
「ねぇ、今日はなに読んでんの」
「毎日聞いてて飽きないの、それ」
「だって毎日違うの読んでんじゃん」
「一冊も知ってたことないし、聞いても一冊も読んでないよね?」
「そうだね」
悪びれもなく笑って、それでも今日はなに、と表紙を覗き込む。今はどのへん、どんな話なの、そう聞くその子は聞くだけ聞いて読もうとはしない。私をあらすじ製造機にしないでほしいと思うのに、その子は毎日飽きもせず本の話を聞きに来た。
私は機械。学校に人間らしい会話なんて求めてない。
ずっと適当にあしらっていることは伝わっているはずなのに、どうして彼女は私に構うのか。
うんざりしながら顔を上げる。目が合って嬉しそうに笑うのが不気味だった。
「なんでそんなに無理して私に構うわけ」
「友達と世間話、したいじゃん?」
友達。世間話。
だっていつも本しか目の前にないんだもん、聞くでしょ。とその子はけろりと指を指す。
私はいくつか瞬きをして、喉から出したこともない声を出した。
「はぁ!? 友達!?」
「え、傷つくわぁその反応……あたしのことなんだと思ってたの」
「変な人……」
「傷つくなぁ!」
あはははは、と失礼な私の言葉を大笑いする。机を叩いて、ひぃひぃと深呼吸を繰り返した。
すごい、だからすき。とどう言う意図なのかわからない独り言を零しながら一通り笑うと、彼女は腹を抱えていた手を解いて私の手を取った。
「そういうことだからさ、本が駄目なら他に好きなもの教えてくんない?」
「それじゃあ、また明日!」
そう言って、彼女は笑顔で別れを切り出す。
いつも通りの帰り道。ちょっとお茶に寄って、満足するまで喋り倒して、それじゃあまたねと、分かれ道で言われているだけの言葉。
その笑顔はかわいくて、無邪気で、明日も会えると信じて疑わない。
それがあまりに眩しくて悲しかった。私に向けるその笑顔が、他の人に向けるものと何一つ違いがないから。
私がここで「行かないで」と一言言ったらどうなるのだろう。
きっと彼女は優しいから、なにかあったのと一番に聞いてくれる。私が言い出すまで側にいて、優しく背を撫でてくれるだろう。
でも私は、そんなんじゃ足りない。
また明日、と笑って去ろうとする手を取って浚いたかった。二度と「また明日」が来ないように閉じ込めて、私と彼女二人きりの世界に行ってしまいたい。
どこにも行かないで。私とだけ一緒にいて。
そう叫んでしまいたい衝動がどれだけ彼女の迷惑になるかわかっている。優しい彼女が私の手を取ってしまいかねないことも知っている。そんなのは駄目だ、だって私は、みんなのために一生懸命になれる彼女が好きなのだから。
相反する衝動を懸命に飲み込んだ。
大丈夫、今日もちゃんと言える。
「うん、また明日」
完璧な笑顔を作って言えば、彼女は手を大きく振りながら背を向けて歩き出した。
夕日の中、一人立ち止まってそれを見送る。
そっと手を伸ばした。
その手は、まだ彼女には届かなかった。
洗濯物をばさりと振り下ろして物干し竿にかける。
雲ひとつない快晴、ブラウス一枚でちょうどいい気温。過ごしやすい季節にすぐに乾きそうだ。キトリは機嫌よく鼻歌を歌いながら、頭に生えた猫の耳と、スカートから覗く猫のしっぽを揺らす。
猫族の洗濯物は大変な作業だ。なにせ自分たちから抜けた毛を落とすのに手間がかかる。丁寧に丁寧に取り除いても、空気中に漂う小さな毛がいつの間にか付着しているのだからきりがない。仕方ないので、キトリはいつも適当なところで諦めてしまう。
長い長い家出を終えて、帰ってきた故郷は平和そのものだ。つい先日まで、次から次へと舞い込んでくる戦に駆り出される冒険者をしていたとはキトリ自身も思えないほどだった。
旅の中で培った魔法の力を頼られることは今でもある。しかし結婚を控えている身なので大きな仕事を振るのは控えてもらっていた。それもあって、今キトリにある仕事は毎日の家事と、教会で子供たちに魔法を教えることだけだ。
洗濯物を干し終えると、キトリはひとつ手紙を持って集落を出る。
水の都と呼ぶに相応しい運河の中に作られた町の中心部には、行商人や冒険者たちの集まる宿などがいくつも建っている。そのうちのひとつ、ホテルと冒険者の店が一体となった店に入れば、冒険者らしく昼から酒盛りをする喧騒が耳に届いた。
人族よりも鋭い感覚を持つ猫耳をぺたりと伏せながら、酔っぱらいに絡まれないようにそっとカウンターにいるオーナーの前に行く。
「オーナー、ここで一番足の早い人は誰? 信頼できる人だともっと嬉しいんだけど」
問えば、一人のシーフを指さした。誠実そうな印象の猫族の少年だ。キトリの集落では見ない顔なので、どこかから流れてきたようだった。
少年に声をかけると、少年は一瞬キトリを見て固まる。依頼をしたいんだけど、と伝えればどこかがっかりしたように手紙を受け取った。
「僕のマスターに届けてほしいのだ。もしいなかったら、わかる人に渡して。それもいなかったら、マスターが帰ってくるまでそこで待機するか、直接届けに行って」
そう言って、前払いとして旅費分の金貨を渡す。滞在分は報酬と共に払うと言えば、少年は了解する。手紙と共に、宛先の人物の容姿と名前、そしてキトリの住所も教えると少年は早速店を飛び出していく。
遅れてキトリも店を出た。
渡したのは、キトリの魔法の師匠に宛てた結婚式の招待状だ。まだ二ヶ月先だが、忙しくどこにいるかもわからない師匠にはこのくらい余裕を持って知らせる必要があった。
来てくれるかはわからない。来てくれたらいいと思う。
そうでなくても、このどこまでも続く青い空の向こうへ、風の噂でいいから届けたかった。幸せであること、もっと幸せになること。
師匠へ向けた初恋は、もう終わりにしたのだということを。
洗濯物を干そうとベランダの窓を開けたとき、東城乙葉が一番に思ったのは"冷たい"だった。
それまでのむっと来る熱気ではなく、これから来る冬を思わせる刺すような冷気に秋が来たのだと教えられる。見れば遠くの木々がわずかに色づきはじめていた。
「するかぁー、衣替え」
誰に言うでもなく呟いて洗濯物を干し終える。
今干したものをしまい忘れそうと思いながら、思い立ったが吉日と乙葉は物置から秋冬物を入れたコンテナを引き出した。
乙葉と夫の分は出すだけでいい。よれて古くなったものを寄せつつ、真冬用の分厚い服は仕舞い直した。トレンドからは遠いものだが、毎年服を丸ごと買い替えるわけにもいかない。捨てた分だけ新しく買えばいい。何枚買い直せるかを数えつつ、乙葉は服の入れ替えを済ませる。
大人の分の衣替えを終えたところで、乙葉は寝室へ声をかけた。
「撫子ー、おいでー」
「なぁにー?」
パタパタとやってくる軽い足音。
七歳になった娘の撫子を呼び出すと、乙葉は服を広げて撫子に合わせた。何枚もそれを繰り返す母を撫子はぽけっとしながら見ているが、大人しくしてくれるならそれでいいと説明もせずに一通りの確認を終える。
そして、はぁと一つため息をついた。
「だめだぁー、全部買い直しだぁー」
「だぁー」
「大きくなったねー」
「でしょー!?」
子供の成長は早すぎて、衣替えは毎年丸ごと買い替えになってしまう。流行に合わせたものを買えるのは嬉しいが、全部となると家計的にはしんどいものがあった。
それだけ背が伸びているのは喜ばしいことではある。
去年よりも一昨年よりも大きくなった娘の頭を撫でて、それからコンテナの中身を整理する。無意味だと思いつつ娘の夏物を仕舞って、物置の中へ入れ直した。
一つ、伸びをする。隣の娘も真似をした。
「撫子、お洋服買いに行こっか」
「えー! ママのかいもの長いからヤダ! わたしおるすばんしてる!」
「撫子の服を買うのよー」
年々減らず口が増えていく撫子を宥めつつ、出かける支度をさせる。乙葉の秋は今年もこうしてはじまるのだ。
夏の太陽よりも熱いライト。
暗く小さなライブハウスにひしめくかわいいファンたちの熱気。
ミニスカートを翻して煽る。
「みんなー! まだまだ行けるよねー! 声枯らすまで叫べー!」
うおおおお、と地響きのような歓声が肌をビリビリと揺らすこの瞬間があたしは何よりも好きだ。
アイドルになりたくて上京してきたあたしは、夢を叶えてこの舞台に立っている。デビューしたてで知名度は低く、まだ大舞台には手が届かない。それでも今目の前にいる人々があたしを、あたしたちを見てくれることがとてつもない幸運であることを知っている。
かわいいというより美人な方で、背も高く、冷たい印象を持たれやすいあたしは、アイドルに向いている方ではないことを知っている。
それでもアイドルになりたかった。クールなだけじゃないあたしを演出してみたかった。
そんなあたしの挑戦を認めてくれた、プロデューサーと仲間と、そしてファンのみんなに心から感謝している。
だからあたしは歌うのだ。声を枯らすまで。
「さぁ次はファーストシングルからあの曲! いくよ!」
次の曲を伝えれば、会場の熱気は更に増す。
活動を続けてから、曲は何曲か増えている。それでも最初の一曲目は特別だ。左右の仲間たちと目を合わせて、開始前のポーズを取る。
初めてあたしがセンターを飾った曲。
あたしがアイドルとして認めてもらえたときの曲。
イントロが流れるこの瞬間は、いつもドキドキした。まるで恋をしているみたいに。大好きな人に、かわいいと言われることを想像するときみたいに。
愛を込めて歌うから、めいっぱいの歓声をあたしにちょうだい。
息を吸う。
愛してるを歌に込めて、全力を出すつもりで歌い出す。それでも溢れる愛は枯れそうになかった。