はじまりはいつも唐突なものだけれど、私が絵と出会ったことは、より唐突なことだった。
私は人付き合いが苦手で、自己表現が苦手だった。文章を書くのが上手い友達、かわいい絵が描ける友達、内気な子たちはそういう特技を持っていたのに、私には自分を表現できるなにかがなかった。ただ無表情に黙りこくる可愛げのない子供が私だった。
成長するほどに自己表現を求められることがどんどん苦痛になっていって、比例してどんどん口数が減っていった。
中学校に上がり、一層外に出ていくことの減った感情は、私の中に溜まって、体積を増やしていく。吐き出したいのに、吐き出すための言葉を私は全く持っていなくて息が苦しかった。
そうして、限界を迎えたとき。
私の目の前にキャンバスがあった。
美術部が用意したものの、誰も何も描かなかったからそのまま放置されたらしい真っ白なキャンバス。近くにはおあつらえ向きに筆とパレットも置かれていた。
どうしてそのとき、私がそこにいたのかをよく覚えていない。
私は筆を取って、なにも考えず、衝動的にキャンバスへ振り下ろした。
白いキャンバスに青が一線引かれる。これが私の悲しみ。
白いキャンバスに赤が一線引かれる。これが私の怒り。
白いキャンバスに黄色が一線引かれる。これが私の喜び。
白いキャンバスに緑が一線引かれる。これが私の楽しみ。
真っ白なキャンバスに色を置くたびにすっとした。吐き出したくても吐き出す方法を知らなかった感情がするすると出ていくのだ。色が重なり合って黒く濁っていくのが、感情を溜めすぎていっぱいいっぱいになった私のようだった。
あああ、とか、わああ、とか奇声を上げながら殴りつけるように筆を振り下ろす私に気付いて先生がやってきても止めなかった。
「……できた」
最後に私は、そう言って筆を置いた。
具体的なものがなにも描かれていない抽象画。技法なんてなにも知らない私の作品なんて、子供の落書きと変わらない。それでも私は、生まれてはじめて自分の感情の出し方を知ったのだ。
荒い筆跡で描かれ、端はカラフルだけれど、中央に向かうほど色が混じって黒くなっている。
これが、今の私の感情。
出来上がったものを眺めて呆然としていた私に、先生は「美術部に入らない?」と聞いた。
綺麗な抽象画だね、もっと感情を正確に描けるような方法を知ってみない?
勝手に美術室に入ったことも、勝手にキャンバスに絵を描いたことも怒らずに、チャンスを逃すまいと声をかけてきた先生に私は二つ返事で頷いた。
あれからずっと私は絵を描き続けている。上手いか下手かはどうでもいい。
これが私の感情だと、世界に突きつけるために描き続けている。
はぁ、とため息をつく。
久しぶりに仕事で大きなミスをして、その修正がようやく終わったところだった。上司は怒ったりしなかったが、大急ぎでやった修正に手一杯で怒る暇もなかっただけかもしれない。
外はすっかり夜が更けて、向かいのビルの光がよく見える。そこでなにが行われているのか知らないが、きっと私のように残業をしている人がいるのだろう。
明日謝罪に持っていく菓子を買って、今日は早く帰ろう。疲れたし、甘いものでも食べたい。
一人だけになった事務所からトボトボと歩き出す。もう他の部署にも人は見えない。こんなに遅くまで居残ったのは、繁忙期以外では久しぶりだった。
なんとなく戸締まりの確認をしながらエレベーターへと向かっていると、もう誰もいないと思ったのに一人、前からやってくる。
他部署の同僚だ。研修の時に同じグループにいて、そのまま時々話す仲になった。
まだ残ってたのか。じゃあ挨拶くらいしようか。
そう思って口を開くより前に、同僚からなにかを投げ渡された。
「あっ、えっ!?」
「おつかれー、戸締まりしとくから早く帰んなー」
すれ違いざまにそれだけ言って、同僚は私の返事も待たずに去っていく。その背中に辛うじてありがとうの声を届け、それからなにを渡されたのかを確認した。
手の中に収まっていたのは、ホットレモンの小さなペットボトル。少し熱いくらいの熱がじわりと手を温めて、疲労で体温が低くなっていたのだと教えた。
「……お礼する人増えちゃったな」
ペットボトルを開け、一口飲む。
甘い味の中にレモンの酸っぱさがあって、疲労に染み込む。温かさが体内に広まったのを確認して蓋を締める。
明日は気を取り直して頑張れそうな気がした。
一歩足を進める。息を吐く。吸う。冷たい空気に肺が痛む。それを飲み込んで一歩足を進める。
それを繰り返して、少年は山を登る。まだ華奢さが残る体に重い荷物を背負い、整備のされていない道とも呼べない道を歩く。
危険が多いと言われるその山に少年以外の登山者は見えない。山の上には既に雪がちらつきはじめたのか空気が冷えて痛みさえ感じる。それでもなお少年は進む。憧れていたこの山にようやく来られる日が来たのだ。今日を逃す理由はなかった。
空は雲ひとつない澄んだ秋晴れ。木々は赤く色づいて、少年を妖しく誘うようでさえある。遠くから獣の気配がする以外に他者の存在もなく、そんな山を独り占めできることはこの上ない幸福だと少年は思った。
坂道を歩き、渓谷を渡り、崖を登る。
わざとメインルートから外れた道を選んだ少年の行き先は、命の危険があるような場所ばかりだ。それらをくぐり抜けて歩くほどに、少年は息を切らし、消耗し、進む足を鈍らせていく。
同時に、山との命の駆け引きに興奮していた。
少年は、山が生きていると感じる瞬間が好きだった。とりわけそれ感じるのは、侵入者を排除するためにあるような危険な道を通る時だ。
山を歩く。山と勝負する。山と駆け引きする。
偉大な山に挑む。
登りきったその時。
「はぁ……やば、すげー綺麗」
手に届くような青空の近さと、眼下に広がる一面の赤い絨毯。まだ誰も足跡をつけていないわずかに積もった新雪を踏み抜き、山頂の一際高い場所から山を見下ろす。雪の白と紅葉の赤が、この世とは思えぬ美しさで足元にあった。
ほう、と息を吐く。それまでの疲労が一気に消え去るような開放感に包まれながら、しばし少年はそれを眺めた。
山を登りきり、山頂からの景色を見たとき。
山に認められたようだと、少年は誇りに思うのだった。
棚の中身を出しては、分別して、ダンボールへと詰め込んでいく。必要なものは箱の中へ、いらないものは、さらに分別して袋の中へ。その作業は何日かけても終わりそうにない。もう引っ越しの日は近付いているのに、本当に当日までにまとめきれるのかが不安だった。
スマートフォンに繋いだイヤホンから音楽が流れ続けている。この退屈な作業を和らげてくれる唯一の娯楽。それを聞き流しながら、私は棚を開け、収納ケースを開け、引き出しを開け続ける。
「あ」
机の引き出しを開けて中身を出したところで手を止めた。
なんとなく取っておいただけの、あってもなくてもいいような物の中でひとつ、キラリと光るものを見つける。手にとって見れば、それは小さなおもちゃの指輪だった。
「懐かしい、まだあったんだ」
おもちゃの指輪はチャチながら銀色に光る。
初恋の人にもらった指輪だった。
その子は隣の家に住む幼馴染みだった。物心つく前から家族ぐるみの付き合いだった私たちは、毎日一緒に遊び続けていた。その中で私はあの子に恋をしたけれど、その頃の私は恋心というものが恥ずかしくて仕方なくてなにも言えなかった。なにも言えないまま、その子は家族に連れられて小学校卒業前に転校して行ったのだった。
この指輪は、その子とお祭りに行ったときに買ってくれたものだ。
小学一年生のとき。幼稚園のではないお祭りに行くのはそれが初めてで、なにもかもがきらめいて見えた。その中で、私は露天に並べられたチープでかわいい子供向けのアクセサリーに思わず目を留めた。
チープながら五百円ほどする指輪は私にはとても手が出なくて、一緒にいたお母さんもそんなものはいらないからと買ってくれない。それでも指輪を見つめていると、その子が指輪に手を伸ばした。
『これがいいの? かってあげる』
そう言って、露天のおじさんに五百円払う。そのまま流れるように私の手を取って、指輪を人差し指に通してくれたことが、忘れたくても忘れられない。
その瞬間、お祭りよりも指輪よりも、その子が輝いて見えた。通した指は人差し指でも、結婚ごっこをしたような心地で私は舞い上がったのだった。
結局、その指輪は小学一年生の指には大きすぎて落としてしまうからと巾着にしまい込んで、そのままつけることもなく忘れてしまっていたけれど。
「……やっぱり、もう入らないな」
指輪を左手の薬指に通してみようとする。爪先で止まって、どう頑張っても付け根まで通りそうになかった。
そうやって感傷に浸っていると、イヤホンが曲を流すのをやめ、電話の着信を知らせる。慌てて出てみると女性の声で挨拶もなく話し始めた。
『ねぇねぇ、引っ越しの準備終わりそう?』
「全然。そっちは?」
『全然! やってもやっても終わんなくってさぁ! 疲れたから電話しちゃった』
「ふふふ。ちょうどよかった、声が聞きたかったんだぁ」
軽快な女性の声。
指輪をくれた、あの子の声。
おもちゃの指輪を通そうとした左手の薬指には、ちゃんとサイズの合う銀の指輪が嵌められている。大人になってから、あの子がくれたもの。
「お祭りで買ってくれた指輪、覚えてる? それが出てきたから思い出してた」
『えっ、あれ? まだ取ってあったの? やめてよー、恥ずかしい。そのときから大好きだったのバレるじゃん』
「私もそのときから大好きだからいーの」
子供の頃離れ離れになった私たちは、もうすぐ一緒に暮らす。引っ越し作業はなかなか進まない。通話までしてしまうと、手を動かそうという気さえ忘れてしまった。
「これは婚約指輪で、この前もらったのが結婚指輪なの」
『ふふ、予約早すぎ』
「ずっと好きだったんだもん」
二つの指輪を見比べる。
おもちゃの指輪は、やっぱり本物に比べたら格段に見劣りした。銀色はやたらキラキラ光って、埋め込まれたピンクの石は半透明で輝かない。それでも恋のはじまりを、昨日のように思い出させる。
「出しやすいところにしまっとこうかな」
『そんなに大事にすると、小さい頃の私に嫉妬するぞ』
「見たーい!」
『あのねー』
他愛もない話をしながらおもちゃの指輪をダンボールの一番上に入れる。大事なものを入れた箱の一番上へ、そこらへんにあった何も入ってない巾着に入れて。
もう忘れないように、失くさないように。
初恋を、今の気持ちを、忘れられないようにしまい込んだ。
つい先日まで焼けるように激しかった陽光は、気付けばただぽかぽかと体を温めるまで穏やかになっていた。朝起きて一番に日差しの強さを見てげんなりする季節が終わると、ほっとするような、冬の訪れの近さに焦るような、そんな感じがする。
毎朝のランニングも随分と楽になった。走り出してしまえば気温すら忘れて走り続けられる私だけれど、走り終わったあとにやわらかな涼風に肌を撫でられたほうが心地いいのは当然のことだった。
そんな風に、涼しくなった朝の日差しの中で今日もランニングを中断する。たったったっ、と淡々と続く足音が耳に入るようになった頃がやめ時だ。
いつも休憩に寄る、ベンチと砂場と鉄棒しかない小さな公園には、いつも通りたくさんの鳩が集まっている。その隙間を縫ってベンチに座り、水筒を口に含んだ。その度に私は、氷をいくら入れてもあっという間にお湯になってしまう季節は終わったのだと、まだ驚いてしまう。強烈な夏は、なかなか私を解放してくれなかった。
ふぅ、とひとつ息を吐く。
餌欲しさに足元に群がる鳩を無視して空を見た。
激しさを収めた陽光は木々に遮られて、やわらかな光だけが私に届く。それは少し寂しい色をしていて、秋がやってきたのだと一番わかりやすく私に教えていた。
この走りやすい季節は一瞬で終わる。毎年そうだ。あっという間に秋は過ぎ去って冬になる。冬になれば、寒さに肌を切られながら走ることになる。秋はそんな私を憐れんで、冬より寂しく映った。
目を閉じる。優しい光をまぶたの向こうに感じる。
寂しく映るのに、秋は私を引き止めてはくれない。名残惜しさの欠片もなく、休んだら早く帰りなさいとばかりに風が木々を揺らした。
仕方なく私は立ち上がり、鳩たちを追い立てながら公園を出る。出口で一度振り返って、紅葉といちょうの入り混じった景色を見た。
やわらかな光に照らされた黄金色の景色は、私を受け入れる隙間もなさそうだった。
邪魔者はさっさと帰ろうか。私は帰路を走り出す。ちらりと時計を見れば、少し予定より遅い時間を差していた。
このままじゃ学校に遅刻してしまう。私は慌ててスピードを上げて、そのうち秋への寂しさも置いていった。