はす

Open App
4/17/2025, 2:08:40 AM

遠くの声

「おーい」
呼びかけられた気がして、後ろの雑木林を振り返った。山を登り始めた頃から曇りがちになって来たから、薄暗い木立の影がその根元に落ちていた。学校からの宿題の植物観察のため、友達と近所の山を登っている最中だった。
「聞こえた?」
隣を歩く友達にそう尋ねると、聞こえた、と彼も頷いた。
「おーい」
また、聞こえる。その声に聞き覚えは無いが、僕らと同じ子供の様だ。学校の友達かな、と言ったら、違うと、彼は首を振る。
「僕らを呼んでるみたい」
「返事をしちゃ駄目だ。行こう。振り向かないで」
「どうして?」
「引き込まれてしまうから」
少し背の高い友達を見上げたら、とても真剣な顔をしていたから、黙って頷いては二人で道を進んでいった。この友達は、たまに不思議なものが見えると言う。

「あれ?」
黙って歩き続けていたら、あっという間に山頂に着いてしまった。そこまで高い山でも無かったのだが。
「もう、抜けられたみたいだ」
「何を?」
「なんて言えばいいんだろ、彼方の世界かな」
「ふうん」
「またあの声に呼びかけられても、返事をしちゃ駄目だよ。まだ、行くのは早いから」
そう言って友達は、振り返った。いつの間にか空は晴れて、雲間から日が差し込んで後ろの木々を照らし出した。
「僕らはそっちにはいけない。ごめんね」
友達は誰に謝ったのだろう。あの声の子だろうか。

4/11/2025, 12:47:34 PM

君と僕

隣に座る君の白い頬に、風に靡いた艶やかな黒髪が一房こぼれた。思わず見惚れていると、なあに、と気の抜けた声が返って来たから、何でも無いよ、と返す。
「桜が散ってしまうね」
この川沿いの花見の名所はもう盛りを過ぎてしまって、お花見に来る人もまばらとなっている。斜面の下を流れる川を、散りゆく桜の花弁が薄桃色に染めていた。

春を示す桜が花開いては散っていく様に、世間も出会いと別れの季節が訪れていた。二人の関係にも終わりの気配が近づいている。この関係に今まで名前などなくて、ずっと曖昧なまま、虚しく別れはやってくるのだ。それでは、君と僕の関係は一体何だったのだろう。
「綺麗」
強い風に煽られて、花吹雪が空に舞い上がる。青空に白い波が立った様に、美しい光景だった。
桜は好きだ。とても綺麗で、そして見ていると少し切なくもなる。
「どうせ散るならいっそ咲かないで欲しい。咲くのだったらずっと咲いていれば良いのに」
「駄目よ」
笑う君の声は柔らかくて、耳に心地良い。
「桜は散るからこそ美しいのに」
君がそう言うなら、いつかこの関係も良いものだったと、思える日も来るのだろうか。

川を流れゆく桜の花びらが行き着く先はどこなのだろうかと思いを馳せる。隣で君は静かに微笑んでいた。

4/4/2025, 3:45:03 PM



川沿いの桜の下に寝そべっている彼の着物の裾に、はらりと花弁が一つ落ちた。私も隣に座って、桜の散るのをただ眺めている。彼は目を開いて、小さく笑った。
「まさか、今日来てくれるとは思わなかったなあ。いつも誘っても来ないから」
「ほら、もう散ってきてるでしょう。そろそろ見納めやから」
「会いに来てくれたわけではないの」
「桜を見にきたのよ」
散りゆく桜は美しい。見納めと言ったのも間違いではないかしら、と思った。
「もうすぐやったね」
「ええ」
私ももう大人になる。親に告げられた許婚と、最近また顔を合わせた。桜の様に、私も身じまいの時が近づいていた。
「散ってしまうのは惜しいなあ」
「落花の風情とも言いますやないの」
目の前をひらひらと桃色の花弁が舞い落ちていく。
「君への僕の想いも、散ってしまうやろか」
「散ってしまった方がいいわ」
「花が落ちたら、水も流れてくれればいいのに」
「…口が上手やねえ。軽薄なのよ、貴方は」
「つれないなあ」
へらり、と笑う彼の声は低くて綺麗だ。

桜は刹那を生きるから綺麗なのだろう。散るからこそ終わりがあるからこそ美しい。では、私は…?
「また来年も、一緒に見られるやろか」
「さあ…」
きっと難しいだろう。口には出せなかった。

春のやわらかな風がただ二人の間を吹き抜けては、桜の花をまた散らしていった。

3/30/2025, 1:30:44 PM

春風とともに

柔らかな春の眠りから覚めて、少し肌寒い明け方の中、寝床から起き上がった。日はまだ登ったばかりで、窓から見える山の端はしらじらと春霞にぼやけている。散歩にでも行こうかと思い立ち、身支度をして外に出た。
朝が好きだ。一日の中で一等好きな時間かもしれない。
朝の澄んだ空気を吸い込む。少し冷たくて、鼻の奥がつんとする。人も草木もまだ起きていない様で、本当に静かだ。物哀しく、寂しく、ほんの少し泣きたくなる様な感じがするのが、好きだ。

田んぼのあぜ道を歩く。ぬるい春の風が頬を滑っていく。道端に咲く名も知らぬ野花を風は静かに揺らしていった。山も未だ眠っている。花は蕾の中で静かに春を待ち、鳥は巣で身を寄せ合い眠りについているのだろう。風はきっと、彼らを見て来たのだと思う。春の訪れを運び、その中で暮らすあまねくものたちを、柔らかく祝福してやったのだろうと。
春風とともに運ばれて来るものは、春の息吹なのだろうかと、ふと思った。

帰路に着く頃には、日は上り切って、朝が訪れていた。春の盛りまで、あともう少しだろう。

3/30/2025, 8:26:38 AM



「ほら、泣かないで」
転んでしまって泣きじゃくる子供を、お母さんであろう女性が優しく慰めている。まだ幼くおぼつかない足取りながら、その子は立ち上がって再び歩き出した。

公園のベンチで辺りを眺めながら、ぼんやりと待ちぼうけをしている。その子供は再び元気に駆けずり回っていた。微笑ましいと思うと同時に、酷く羨ましいと思う。
泣くことは子供の本分だろう。子供はまだいい、でも大人が泣くのは、いただけない。泣くのはみっともない、と言う。泣くのを我慢するのが美徳なのか。枕を濡らして眠る、と言うけれど、一人の時ぐらいしか泣いてはいけないのか。だとしたら、なんて寂しい。

「あ、」
泣いていた事などけろっと忘れて、はしゃいでいたあの子供がまた転んでしまった。再びの大泣き。お母さんも慌てて駆け寄る。
「馬鹿な子ねえ」
お母さんは今度は「泣かないで」とは言わなかった。ただ、優しく抱きしめては、頭を撫でていた。
その子供が、泣きながらも酷く嬉しそうにはにかんだのを見た。

人前で泣く事は恥ずかしい事かもしれない。それでも、涙は勝手に出てくるものだ。人がいようがいまいが。そして、出来ればその涙を拭ってくれる人がそばに居ればどれだけ良いだろう。

日が少し傾く。あの子供は帰ってしまって、公園は静かだった。遠くから、人影が歩いてくるのが見える。
「ごめん、待った?」
待ち合わせ時間丁度。此方が早すぎただけの事だから、ううん、と首を振る。
「良かった。行こう」
歩き出すその背中を見る。もし、この人が泣いてしまった時、その涙を拭える人になれれば良いなと思った。

Next