ずっと隣で
ふさふさとした濃い黒髪を見ている。机に突っ伏して、はああ、と嘆く彼の黒髪を。
「またフラれたの?」
「うん…これで何連敗目だ…?」
「今年に入って五連敗目」
「なんでお前が数えてるんだよ」
「だって、逐一報告されてきたから」
そうだっけ?と彼は顔を上げる。顔立ちはさほど悪くない。何ならむしろ整っているほうだというのに、未だ彼女は出来ない。
「言ってるじゃん、友達になってすぐ告白するのやめなよ」
「俺はね、新鮮な恋がしたいのよ。じっくり仲を深めるとかやってらんない。何でもスピード命だろ?」
「彼女が出来なきゃ元も子もないけどね」
うぐ、と彼は顔を顰める。彼は新しいものが好きだ。幼い頃から色んなものに突っ込んでいって、それで大変な目に遭うこともしばしばあったけれど、彼はいつも新たな事に目を輝かせていた。いつまでもいつまでも、その場に停滞して、思いを燻り続けている自分とは大違いだ。
「傷ついた心を癒すにはやっぱり恋だ! なあ、可愛い子紹介してよ」
「悪循環がすぎる」
「うるさいぞ…って、あぁ」
彼が大きく伸びをした時、近くに積んであった本やら雑誌からの山に彼の手が当たり、ばらばらと山が崩れていった。溜息をつき、辺りを見渡す。ここは彼の部屋だが、とにかく乱雑でとっ散らかっている印象しか受けない。掃除しなよと言っても、するよ後で、と生返事ばかりだ。
「うわ、懐かしいこの本」
彼がその崩れた山から一冊の本を手に取る。見るとそれは随分古ぼけた本で、本の装丁を見るに子供向けの絵本のようだ。
「昔好きだったんだよこの本。主人公のヒーローがカッコよくてさ」
「何でそんなところに?」
「片付けようと思って積んだまま忘れてたみたい」
「捨てなよ。飽き性なんだから、本なんて読まないでしょ」
「何でだよ勿体無い! これは俺の思い出なんだから」
そう言って彼は、漫画でいっぱいの本棚の隅にぎゅうぎゅうと捩じ込むようにしてその絵本をしまった。ほら入ったと笑う彼に、わざとらしく溜息をついてみせた。
彼は飽き性だ。新しいものにすぐ目移りして、何か一つに執着することはない。去年できた彼女だって、一ヶ月も持たずに飽きて別れてしまった。飽きたらすぐに捨てるような性格のくせして、変な所では情にあつくて、思い入れのあるものだったり昔からの大切なものだったりは、大事にそばに置きつづけている。どうせ、しまった場所すらすぐ忘れるくせして。飽きられたのだと、もうこちらを見てもらえることはないのだと分かっていながら、ずっとそばに置き続けられることの残酷さを、彼は分かっているのだろうか。
「捨てなよ、その本」
「だから、捨てないって」
「捨ててよ」
早く解放してほしい、と心の中でつぶやく。忘れさられたままずっと、この本棚の中で埃を被るなんて、この本も可哀想だ。それはきっと、彼にとっては思い出を構成する一要素であって、それ自体に価値はないのだから。捨てるには惜しい、ただそれだけなのだろう。一番近くで一番長く彼を見てきたのに、彼にとっての自分は、きっとこの本と同じだ。あまりにも近すぎたのだろうか。ずっと、幼馴染という椅子に座り込んで、胡座を描いていた。いつしか自分は、彼の日常を構成する一要素になってしまった。
彼はぎゅうぎゅうに押し込められた本棚を見つめている。捨てない、と拗ねた子供のように言い放った。飽き性のくせに、変な執着だった。何故だがそれに、安堵している自分がいた。
「じゃあ大切にして」
「捨てろって言ったり、大切にしろって言ったり、変な奴だな」
だって、捨てられたらもう、一番近くで彼を見ることができなくなってしまう。
「早く彼女が出来るよう、応援してるよ」
「? ああ、応援しててくれ!」
屈託のない笑顔に焼け死にそうになる。自分の心の醜さを、隠れる場所もないほどにその面前に照らし出されているような心地がする。砂漠の砂程の可能性に縋って、捨ててくれたら良いのにと願いながら、彼の隣に居座り続けている自分の醜さを。ずっと隣で彼を見続けて、不毛な思いを底に沈ませて、その果てに自分は何を見たいのだろうか。
ぎゅうぎゅうの本棚が軋む音がした。あの絵本は、いつまであそこで埃を被ったまま、彼の目が自分に向けられるのを待ち続けるのだろう。
彼の手がいつか、本棚から絵本をそっと抜き出し、背表紙をゆっくりと撫でる、その様を妄想した。
お金より大事なもの
「金より大事なものなんてねえよ」
人の部屋に勝手に上がり込み、人のこたつに勝手に潜り込んでぬくぬくとテレビを眺めている田口は、『お金より、大切なものがある』と綺麗事を並べ立てるその手の企業のCMに、心底嫌そうな声色でそう吐き捨てた。
「いいか、そんな御高説を垂れる奴らは、総じて金に困ってない奴らばかりだ。金より大事なものを考えてる時点で、金を甘く見てる。俺みたいな状況になってみろ。そんな綺麗事言える奴なんか、一人もいなくなるに決まってる」
人の家に勝手に上がり込んで、偉そうな口だ。田口はいわゆる限界大学生みたいな奴で、オンボロアパートに住み、いっつも貧乏人生活をしている。バイトはしているようだが、根っからの怠け癖があり長くは続かない。どうしようもない奴だ。言ってる暇あるならバイト行けよ、とこたつから出ている頭を叩いておいた。
「うちに暖取りにくるのも、そろそろ大概にしろよ」
「電気代節約のためだ」
「最低だな」
「金は大切なんだぞ。お前も肝に銘じたほうがいい」
「そこまで言うなら働けよ、稼いでこい」
こう言われると田口は、いつも口をもごもごさせ俺の方をじとりと睨む。金が何より大事だと言うくせして、働いて稼ぐのを厭う、本当にどうしようもない奴だった。
「そうだ、経済学のレポート明日までだぞ。やったのか」
「は?何それ知らない。手伝って」
「二言目にそれかよ。いい加減にしろよそろそろ」
「俺とお前の仲だろ?助けてくれ」
田口とは大学で出会った。出会いは忘れた。授業で偶々隣だったとか、そんな程度だろう。謎に波長は合って、それからずっと腐れ縁みたいになっている。下に兄弟が三人もいたが故のお節介焼きな俺の性分が、何故かこのどうしようもない奴から、目を離せなくしているような感じがあった。
「俺とお前の仲ね」
「うん、手伝ってよ。お願いだよ」
「……なあ、俺との友情と金だったら、どっちが大事」
田口は黙り込んだ。金、と即答するかと思っていた。じっと黒々とした目に見つめられて、何故だか所在ないような心地が湧いて来る。
「………かね」
長い沈黙の後、結局田口はそうぼそりと言った。子供が拗ねたような、そんな口調にも聞こえた。
「はは」
笑いが込み上げて来る。金の亡者と化したこの田口に、長い沈黙を出させたというだけで、なんだか優越感にも似た高揚感がこんこんと湧き出て来るような感じだ。ヒモ男にハマってしまう女の感情が分かる気がした。
「仕方ないな、手伝ってやるよ」
「さすが、俺の見込んだ男だ」
「お前に見込まれてもな」
リュックサックに入れていたクリアファイルからレポートを取り出す。ふんふんと鼻歌まじりに受け取ろうとした田口の手をはたいて、写させないぞ自力で書け、と言ってやった。案外こう言うのはバレるのだ。参考程度にするのはいい、と忠告して田口にレポートを手渡した。
「ありがとうありがとう、命の恩人!」
「交換条件、この前貸した金、返せよ」
そう得意気に言ってやると、田口はげえっと舌を出した。田口に無心され貸した金は、未だ帰ってこない。なんだその反応、と再び頭をこづいた。
どうせ金は踏み倒される。少額だからまだいいか。そしていつかまた無心される。そして俺は、またこいつに金を貸してしまうのだろう。ほんとう、どうしようもない腐れ縁だ。
絆
「引っ越せよ、もう」
池を眺める窓辺の椅子に腰掛け、従兄は本を読んでいる。ふ、と目線をこちらに寄越した従兄は静かに首を振り、薄い唇を開いて、
「居心地が良いんだ」
と呟くように言った。居心地?最悪だろ、と心の中で悪態をつく。
この従兄の家は大きな池に面しており、従兄の座る窓からはその池が嫌なほどよく見えた。幼い頃はこの家で、俺と弟とこの従兄とよく遊んだものだ。俺の実家の近所にあったこの家は、俺の叔父とその妻ないしこの従兄の両親が早逝してから、現在は従兄一人の家である。早くこんな場所からは引っ越せば良いのに、この従兄はいつまでもこの家に住み続けている。
「そういう君こそ、相変わらずだ」
「なにが」
「今日は月命日だろ」
幼い頃、風の強かったあの夏の日、俺は弟と喧嘩した。公園で遊んでいた時だった。弟は泣きながら駆け出して行った。この従兄の家へ行こうとしたのだろう。あいつは従兄に妙に懐いていたから。
窓の外の池を見ると、その水面は凪いでいて黒々と底知れぬ暗さを湛えている。弟は池に沈んだ。風が強かったから、被っていた帽子が飛ばされたのかも知れない。あの頃は低かった柵のせいで、池に入るのが容易だったからかもしれない。喧嘩別れ。その喧嘩のせいで、弟は溺れた。
「この本にね、沼が出てくるんだ。人を飲み込む沼。まあ、底なし沼ってやつだ」
従兄は読んでいた本に目線を落とす。趣味が悪い。そんな本を読むのも、今ここでそれを口に出すのも。
「ここに座って池を見ながら本を読んでる。俺一人ぐらい平気で飲み込めてしまうぐらいの、池の深さを想像しながら」
「お前も、池に沈みたいのか」
「いつでもそうできるって、逃げ道を作っているだけ。そうすれば幾分か楽になる」
従兄は何を見ているのだろう。弟の沈んだ池に、自分を沈める妄想をしてまで。
「苦しいなら、こんな場所逃げ出せば良い」
「無理だ。だれもここから連れ出してくれないから」
「だったら、俺が…」
言いかけてやめた。それを言う資格は無かった。従兄はこの窓辺から、弟が落ちる瞬間を見たのだ。助けようとしたが、間に合わなかった。弟を引き上げたのは従兄だ。助けられなかった、すまない、と従兄は俺に縋って泣いた。俺のせいだった。この従兄をこの家に縛り付けたのは、俺だった。
だから俺は、月命日に毎回ここを訪れてしまう。謝りたかった。泥が絡みつくような、得体の知れない重苦しい意識に、俺は今もずっと苛まれている。
「君は遠くへ行きなよ」
遠く?どこへ行けと言うんだ。そう言うお前は?
罪の沈んだ池を見つめながら、この家の中、小さな世界で生きている従兄は、俺を許すとでも言うかのように、美しい笑顔で笑った。まるで、自分はここにずっといるのだと、無意識に悟っているかのように。
「行けるわけないだろ」
「…じゃあ、同類だな」
ある種の絆だった。罪の意識という、おおよそ絆を構成する要素としては相応しくないものが、確かに俺たちを繋ぎ止めていた。自分のせいだと、相手は悪くないのだと、お互いにそう思いながらも、ずっとそれを言い出せずにいる。
「なあ、引っ越せよ」
そうすれば、お前だけは逃げられるだろ。
「引っ越したら、君が来る場所が無くなってしまう」
「俺は、弟に謝りに来てるんだ。お前が引っ越そうが、関係ない」
「そうかな」
こちらを見る従兄の目には、何か奇妙な愛情のようなものが浮かんでいるように見えた。もしかしたらこの従兄は、俺がここに訪れて来るのを待つために、この家に住み続けているのではないかという、そんな奇妙な妄想が俺の頭に浮かんだ。
「また、会いに来てよ」
従兄はそう言って立ち上がる。俺の頬に手を伸ばした。俺が泣いていたからだ。でも、その手は触れる寸前で止まって、幼い頃のようにくしゃくしゃと頭を撫でられただけだった。それがもどかしく感じる俺も、大概だろう。俺たちを縛り付けているのは、窓から見えるこの池で、俺たちを隔てているのもまた、この池なのだ。
窓から眺める池は、黒々として、それでもやけに綺麗に見えた。
「なあ、池はどれぐらい深い?」
「どうしてそれを聞く?」
「なんとなく」
「…俺たち二人、静かに沈んでいけるくらいには、深かったよ」
従兄の目には、弟を助けたあの日の光景が映っているのだろう。
池の底、従兄と俺と二人で沈んでいくそのさまを、俺は想像した。
誰よりも
誰よりも優れているものとか、才能とか、あれば良いなと思うが、生憎そこまでの情熱も要領も無い。ネットの海を潜れば幾らでも上を見ることはできる訳で、それに比べれば大抵の人は凡人になってしまうだろうと思う。今日もこれからも、上を見上げながら、地に足つけて、目の前の何かに懸命に立ち向かっていくしかない。それは辛いことなのだろうか。まあ辛いと思ってしまっているのだから辛いのだろう。足るを知りたいと思う。
失われた響き
人が人を忘れるとき、始めは声から忘れていくという。有名な話だろう。次に忘れていくのが顔。写真が残っていれば良いのだろうが。ぽろぽろと記憶が無くなっていくのは、寂しいと思う。
最後に忘れるのは、匂いだという。写真と違って記録に残すのは難しい。それを忘れてしまったら、そこに残るのは何なのだろうと思う。
そういう、忘れゆく記憶を思い出そうとする時、そこには「確かこうだっだ」という主観が入り込む。ぽろりとこぼれた一部を修復しようと、想像で塗り重ねて仕舞えば、それはもう元の記憶ではなくなってしまう。
それがまた剥がれ落ち、また塗り重ね、そうして出来上がった記憶の下で、元の思い出は死んでしまうのだろう。
これを書いていて、ふいに昔の、子供の頃の友人のことを思い出した。友人というか、たぶん、好きだった人。当時はまだ子供と大人の狭間の時期で、そういった感情に疎かったから、仕方がない。今思えば、きっと好きだったんだろうと思う。その人と喋って、笑い合うのが、好きだったから。
写真は残っている。でも、その人の声をもう思い出せなくて、悲しくなった。