ある晩、ふと気づくと頬杖をついた左手の小指から赤い糸が伸びていた。
さてこれはなんだろうと手繰り寄せてみると、どうやら部屋の外へと続いている。
部屋着のまま、サンダルをつっかけ外へ出る。
あたりは暗く、街灯も少ない。
にもかかわらず、赤い糸はそれ自体が光を放っているように、暗闇の中に浮かんで見えた。
糸は十字路を右に折れた。手繰り寄せつつ、僕も右へ曲がる。小さなアパートがあらわれ、糸はその二階の真ん中の部屋のドアへと伸びていた。
階段を上り、部屋の前に立つ。郵便受けから赤い糸が垂れている。
郵便受けから部屋の中を覗きたい衝動に駆られたが、なんとか押し留めて糸を軽く引っ張ってみる。
かすかな手応えと一緒に郵便受けから出てきたのは、糸の塊だった。
こんがらがった赤い糸。
そっと手に取ると、僕はほとんど無意識に、糸の塊を解こうとして力を込めて引っ張っていた。
絡まったイヤホンを力任せに引っ張って、無惨にちぎってしまったときのことを瞬間的に思い出した。
ぶちっと、やけに大きな音を立てて糸がちぎれた刹那、僕は自分の部屋の中にいた。
いつの間にか夜は明けている。
左手を顔の前にかざして、そこにちぎれた赤い糸があることをみとめる。
僕は再び十字路を右へ曲がる。
小さなアパートの二階の真ん中の部屋。
しかしそこにあったのは、上下に二部屋ずつ―――真ん中などなかった。
左手の小指の赤い糸が、はらり、と解ける。
スマホをいじるのは午後10時まで、というくだらない約束の時間まであと10分。
『ちょー田舎!』とコメントを添えて祖父母の家のそばの風景をクラスのグループメッセージに投稿した直後は、いくつか返信がついたが、夏帆が舞浜のホテルの写真を投稿するとあっという間に流されてしまった。
それはそうだろう。
私だって、どこかも知れないド田舎の景色より豪華絢爛なホテルの方が見ていて楽しい。
「夏帆のやつ、くそ羨ましい」
たいして親しくもなかった従姉妹の法事のために、私はファストフード店もコンビニもない村に閉じ込められている。
夏休みに会うだけだった同い年の従姉妹は、幼い頃から病気がちだった。そのせいで一緒に遊んだ記憶はあまりない。
庭先で線香花火を競い合ったことくらいしか、覚えていない。彼女は会う度に痩せ細っていき、11歳の初夏、とうとうその短い命を閉じたのだった。
「10時よ」
ふすまの向こうから母の声がする。
時計はまだ9時57分だ。定刻よりも早く時間を知らせるのは母親という生き物の習性なのだろうか。
残りの3分で夏帆への羨望のコメントを作成し、投稿する。
10時ぴったりに画面を落とし、スマホを充電器に繋いだ。
途端、周囲の音が気になりはじめる。
田舎というのは静かに思えて、実はそうでもない。
虫の声、蛙の声、風の音、木々が擦れる音。
夜は特に、色んな音が響き渡っている。
「何してるの」
かすかに耳に届いたその声に、反射的に言葉を返す。
「もう使ってないよ」
母がとがめてきたのだと思ったからだ。
返事をして、不意に違和感に気づいた。
今、どこから声がした?
全神経を聴覚に集中させて、耳を澄ます。
虫の声がうるさい。
その隙間に、
「ねえ、何してるの」
ちいさな声が。
それは確かに縁側の方、ふすまのその先、ガラス戸の向こうから聞こえてくる。
母のものでも、祖母のものでもない、もっと幼い―――11歳の子どものような。
私はぴくりとも動けずに、声のする方に顔を向けたまま硬直している。
「ねえ、」
遥か彼方のかすかな記憶がざわりと呼び起こされる。
この、ほんの少しかすれたこの声は―――
「ねえ、線香花火しよう」
「こうちゃをどうぞ。クッキーもありますよ」
小さなプラスチックのカップとソーサーがテーブルに置かれる。ダンボール箱をひっくり返した簡易テーブルだ。天板にあたる部分には、クレヨンで沢山の花が描かれていて、テーブルクロスのようだった。
クッキーを模したプラスチックの塊がふたつ、ティーカップの隣に差し出された。
「おかわりもありますからね」
ティーポットをテーブルの真ん中に置いて、君はカップに口をつけた。見えない液体を飲み干してから、僕のカップを手に取ると、僕の口元に寄せて飲ませてくれる。
君の3歳の誕生日に君のところへ来てから2年が過ぎた。
クマのくーちゃんという名前をもらって、おでかけのときも、眠るときも、いつでも一緒だった。本当は幼稚園にも一緒に行きたかったけれど。
腕が取れかかったときは不安だったが、君のママが繕ってくれると君はとてもうれしそうに僕を抱きしめてくれた。
二杯目の紅茶を飲もうとしたとき、君は慌てたようにカップをテーブルに放り投げた。
キッチンの方へと駆けていく。
「とどいた?わたしの?」
荷物を抱えたママの足元で、君はダンスするように飛び跳ねる。
「それ、わたしのランドセル?あけていい?」
「いいわよ。背負ってみて。写真をおばあちゃんに送りましょうね。お礼を言わないと」
「あお!」
「好きな色でよかったねえ」
「うん!」
君はもう、僕との楽しいお茶会のことなど忘れてしまって、ペールブルーのランドセルに目を輝かせている。
僕の親友―――春にはきっと、口のきける新しい親友を見つけてしまう。
『ケーキをやいたのよ、たくさんたべてね』
『すごくおいしいよ』
『おかわりもありますからね』
『ねえ、僕、君といられてとっても楽しい』
『わたしも。ずっといっしょにいようね』
『ずっとずっとね』
倒れたままの君のカップ。それを見つめながら僕は、君との時間を夢想する。
皮肉屋の君はいつも片方の口角だけを引き上げて嘲笑う。
見さげる視線は冷淡で爬虫類のよう。
君の皮肉に苛立つ僕は、君が嘲笑うたびに尖った言葉を投げつける。
それさえも楽しむような君が、腹立たしい。
嫌いだ、と言ってしまえればよかったのに。
今、君がほんの一瞬覗かせた笑顔は、まるで太陽のように暖かで。
君に感じているはずの苛立ちも、口をついて出るはずの悪態も霧消する。
好きだ、と言ってしまいそうになる。
炬燵に潜り込むと、先客のきなこが面倒くさそうに一声鳴いた。
「あら。ごめんなさいね」
布団をあげて中を覗くと、きなこは丸い目でこちらを見たあと、これまた面倒くさそうに起き上がると、私の真横を通り過ぎて炬燵から出ていった。
きなこ色をしているからという安直な理由で名付けられたことを恨むように、この猫はちっとも私に懐かない。
気まぐれに猫じゃらしに面倒くさそうに反応する程度で、おそらく私の方が遊んでもらっている。
寝転がってスマートフォンをタップする。
SNSを開くと、華やかな写真の洪水に窒息しかけて、すぐさま閉じた。
惰性で、インストールしているソーシャルメディアを順番に開く。が、自己嫌悪と劣等感を育てただけだった。
視線を感じて顔を上げる。
きなこがこちらを見ていた。
猫の世界はどんなだろう。
昼寝と、ごはんと、ちゅーると、毛づくろいと、時々人間の相手と。
「君になりたいよ」
呟きを拾ったわけではないだろうが、きなこが面倒くさそうにこちらへやってくる。
炬燵に潜り込むと、中で方向転換をして、布団から顔だけを覗かせる。
気まぐれに身体を寄せてくる愛猫は、きっと明日はまたつれなくそっぽを向くのだろう。
「同情してくれるの?やさしいね、君は」
きなこはひとつ伸びをすると静かに目を閉じた。