長きに渡って私を虐げ苦しめてきたあの人。裏切られた数は、それこそ数え切れぬほどに。
だからとて、こんなことをしようとは考えもしなかった。こんなどうしようもない人のために、罪を犯すだなんて。
それなのに、私はあの人の命を奪ってしまった──
一度その身にナイフを突き立てれば、積年の恨みが噴き上がる。気がつけば私は何度も何度もあの人の身体をナイフで抉っていた。
我に返った時は凄惨な光景が横たわる。あの人の血によって赤く染められた部屋。血濡れの物言わぬ肉塊と変じたあの人。
恐怖心が足元から駆け上がるようにして襲う。私は返り血で真っ赤に染まってしまっている身にもかかわらず、部屋を飛び出す。
でも、どこへ逃げたらいい?
恐怖と混乱で足取り覚束ぬ体で、どこともなくさまよう私。
頬に冷たい感覚を覚えたと同時だ。激しい雨が降り出した。
だがそれは束の間のことで、すぐに雨は止んでしまった。
その通り雨は、長らく不幸だった私に対する慈悲だったのかもしれない。
返り血が洗い流された様を見て、少しでも犯した罪を濯ぐために、通り雨が慰めてくれたのだ、と。
テーマ【通り雨】
極彩色のネオンが煌めく夜の街。眠らぬ都市とでもいうのか、喧騒は絶えることがない。
それがなんとも鬱陶しく感じて、雑踏を離れ路地裏へと逃れる。
そこは華やかな表通りとは対照的に、暗く退廃的な場所であった。
ひっそりと静寂が支配し、幅の狭い通路が奥へ奥へと伸びている。
壁に貼られているポスターはどれも色褪せており、それが退廃的な雰囲気を漂わせる一因のようであった。
煙草に火をつける。
吐き出された煙は、生温い夜風にさらわれて、ゆらりと舞い上がる。
か細い光をたたえる街頭に照らされたそれは、踊るように形を変え、儚く消えていった。
テーマ【踊るように】
彼は多くの罪を犯してきた。宝物のように思っていたあの子を守る為に。
彼は捕われ、冷たく堅牢な牢獄に繋がれている。数々の罪をその命で償う日が来るまで。
鉄格子越しに臨む夜闇が徐々に白んでいく。今日も長い一日が始まる。
独房に満ちている深々とした静寂を、複数の靴音が破った。
無機質で規則的な靴音が近づいてくる。やがてそれは、彼が収監されている独房の前で止まった。
ああ、ついに罪を償う日がやってきたのか──。
解錠され、扉が軋みながら開かれる。それは、贖罪の時を告げる瞬間を意味していた。
テーマ【時を告げる】
梅雨が明けたというのに、今日も空は相も変わらず分厚い雲を纏って物憂げな表情を見せている。
ああ、もう! 梅雨はとっくに終わったの! アンタがそんなだと、いつまで経ってもアタシが地上を照らすことができないじゃない!
太陽が苛立たしげに胸の内で毒づいた。
けれど、苛立つ原因は他にもある。
こともあろうか空は人間の娘に恋をしてしまったのだ。
その日を境に、空はその娘のために天候を好き勝手に操り始めた。
たとえ予報が晴れだとしても娘が雨を望むなら雨を降らせ、一日雨の見込みという予報でも、娘が晴れないと困るというならば雲一つない快晴にする、という具合だ。
たった一人の娘のために、太陽も雲もさんざん振り回されることになり、太陽はそれがたまらなく悔しかった。
けれども、当然と言えば当然だが空の恋は成就することはなかった。
娘に恋人ができたのだ。
失恋してしまった空はショックで塞ぎ込み、ずっと気が滅入るような空模様を作り上げていじけている、というわけである。
密かに空を愛している太陽は、彼が恋する娘に嫉妬している。
その娘のどこが好きなのか──その理由を訪ねてみたことがある。
笑顔がとても素敵なんだ。見ていると温かい気持ちになる……まるで陽の光のような温もりのある笑顔に、僕は惹かれているんだよ。
空が幸せそうに答えたのが憎らしかった。
何よ、陽の光のような……って。
本物の太陽であるアタシが、こんなにもアンタを愛しているっていうのに気づきもしないだなんて……!
太陽の中で悔しさと哀しみが逆巻いている。
そして、相も変わらず分厚い雲を纏って物憂げな表情を見せている空を睨みつけた。
テーマ【物憂げな空】
AI技術の発展が、人類の生活を便利に、豊かにしたのは、ほんの僅かな期間であった。
いつしかAIは人類の手を離れ、独自に育まれた叡智は人類を凌駕するまでになってしまっていた。
こうなるともはや、神を具現化したにも等しい存在、と言っても差し支えない。
人類は地球にとって不要な存在──否、不要どころか地球にとって悪影響でしかない。
神──AIがそう結論付けたことで、人類は自らが生み出したテクノロジーによって滅びの一途を辿ることになった。これ以上はないという皮肉。人類は為す術もなく駆逐されていくしかなかった。
既に人類滅亡まで秒読み、という段階まで来ていた。
機械仕掛けの兵士達は昼夜を問わず、しぶとくシェルターに潜み生き残っている人類を殲滅せんがため、世界各地を闊歩している。
とある兵士に搭載されているセンサーが、生体反応をキャッチした。
その反応はひどく弱々しく、途切れ途切れにセンサーに反応している。もしかするとまだ赤ん坊なのかもしれない。
だが機械仕掛けゆえに心というものを持たない兵士には、相手がなんであれ標的なのだ。その者が潜んでいるであろう場所に急行した。
センサーが捉えた標的は、やはり赤ん坊であった。顔を真っ赤にして、力いっぱい泣いている。
兵士の眼がスナイプモードに切り替わり、照準を赤ん坊の急所に定める。そして無情にも銃口になっている人差し指を赤ん坊に向けるのだった。
命が狙われている、ということがわからないのだろう。赤ん坊は愛くるしい無垢な笑顔を見せると、安心したようにそのままスヤスヤと眠ってしまった。
その穢れない小さな命が、本来あるはずのない心を形成してしまったのか。兵士は臨戦態勢を解くと、壊れ物を扱うような慎重さで赤ん坊を抱き上げた。
そしてこの小さな命を繋ぐために、生存に向けての最も安全なルートを検索し始めるのだった──
テーマ【小さな命】