川柳えむ

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6/16/2025, 10:47:05 PM

 ある日、起きたら、何もわからなくなっていた。
 知らない部屋。知らない人達。
 そこは病院だったらしく、医者が言うには、頭を打って一時的に記憶が失われてしまっている状態だということだった。
 親らしき人達は、その事実に悲しみ、でも生きてて良かったと、大いに喜んでくれた。
 記憶以外、生活に支障はないので自宅に戻った。もっとも、自宅かどうかも私にはわからないが。
 数日後。母親に街を案内してもらった。
 自分の通っていた小学校。駅前の商店街。小さい頃に遊んでいたという公園。
 全部新鮮で、それなのに、どこか覚えがあった。
「そういえば、この公園の先に、青い屋根のお家があったよね?」
 突然、記憶に蘇った。
 母は驚いた様子でこちらを見る。
 記憶の中の地図を頼りに、先を歩き出した。親が呼び止めるが、そんなものはお構い無しに。
 そして、その場所に辿り着いた。そこは空き地だった。
「ここはずっと空き地よ」
 後からやって来た母が言う。
 なんだ。ただの記憶違い――いや、記憶なんてないはずなのだから、思い違いか。
「ここに青い屋根の家があったのは、あなたが生まれるよりももうずっと前よ。でも、事件があって……なんで青い屋根の家のことを知っているの?」
 なぜかしっかりとこの家だけが記憶の中にある。
 でも、母が言うことが真実だとすれば、じゃあ、この記憶は一体誰のものなの?
 突然、辺りに冷たい空気が漂い始めた。


『記憶の地図』

6/15/2025, 10:34:13 PM

 水が入っているコップを床に落とした。
 飛び散る破片。流れ広がる水。
 拾う前に、私は、喉が渇いている。
 水切りラックから、逆さに置かれたマグカップを手に取り、蛇口を捻った。
 水が出ない。
 なんでなんでなんで。
 喉が渇く。部屋の空気がジリジリと熱を増していく。砂漠のようだ。
 水が出ないなら、この床に広がる水を飲むしかない。ガラスの破片の混じったこの水を。
 ただただ水が飲みたい。その一心で。
 そうして、床に手を伸ばした。

 そこで目が覚めた。
 熱帯夜。喉がカラカラだ。
 起き上がり、台所に行く。
 蛇口を捻ると、ちゃんと水が出る。
 私は安心して、マグカップに水を汲んだ。


『マグカップ』

6/15/2025, 6:43:29 AM

 もしも君が隣にいたら、こんな情けない僕を笑い飛ばしてくれるだろうか。
 君がいなくなって、なんにも気持ちが入らない。なんにもできない。そんな僕を。
 それでも、もしも君が隣にいたら、きっと僕はまた君を傷付ける。
 わかっているんだ。
 今君が隣にいないのは、全部僕のせい。全部僕が壊した。
 ずっと笑顔だった君から、それを消してしまったのは僕だって。
 だから。
 もしも、なんて本当は考える意味もない。もしも、なんて絶対にないのだから。


『もしも君が』

6/14/2025, 8:38:23 AM

 恋人が亡くなった。
 信じられなかった。何かの冗談だと思いたかった。
 彼はバンドをやっていて、バンドのメンバーが悲しむ私に1枚のCDを渡してきた。どうやら未発表曲のデモらしい。
 私の為に作った曲だと言っていた、と。
 それを持ち帰り、プレイヤーにセットした。
 流れてくるメロディは、普段彼が作っている曲よりも、もっとずっと優しいものだった。

『♪君は僕の為に 僕は君の為にここにいる
  君の為に贈りたい
  君だけのメロディ 僕だけのメロディ
  僕だけの……』

 突然音楽が止まった。
 こんな中途半端に終わる曲なのだろうか?
 すると突然、プレイヤーから先程のフレーズが途切れ途切れに流れ始めた。

『僕は』『ここにいる』『君は』

 それは彼からのメッセージのように感じた。いや、それ以外有り得ない。
 彼はきっとここにいる。
 そう思うと、心が温かくなった。
 ――次の瞬間。狂ったように、同じフレーズだけが繰り返し流れ始めた。

『僕だけの僕だけの僕だけの僕だけの僕だけの僕だけの僕だけの僕だけの僕だけの僕だけの僕だけの僕だけの』

 あぁ、あなたは私のことを今でもこんなにも想っていてくれるんだ。
 涙が溢れて止まらなかった。


『君だけのメロディ』

6/12/2025, 11:33:05 PM

「好きだ」

 人を待っていた。
 そしたら、目の前で青春が繰り広げられた。
 高校生くらいの男の子が、女の子に告白している。
 はー……楽しそうだなぁ。青春だなぁ。
 その様子を少し楽しんで見ていた。
 しかし、少女は何も応えずにすたすたと歩いていってしまう。
 え、返事してあげないの?
 二人とも沈黙したまま進んでいく。
 続きが気になってしまって、思わず自分も少し離れたところからついていく。

「あー……」

 少年が口を開いた。
 しかし「えっと……あの……」と口籠るばかりで、なかなか次の言葉が出こない。
 そこに、とうとう少女の方も口を開いた。

「月が綺麗ですね」

 おぉ! これは……!

「あの……っ!」

 少年が呼び止める
 しかし、少女は恥ずかしいのか、すぐさま家の中へと入ってしまった。
 でも、良かったな少年。これはOKってことだろう。

 ――と思ったのに、少年は肩を震わせ泣きそうな様子で空を見上げている。
 まさか、わかっていない?
 夏目漱石の有名なエピソードだぞー少年! 大体今日はくもりだぞ少年! 月なんて出てないぞ少年! 気付け少年。泣くな少年。

 見ていられなくなって、声を掛けてしまおうかとしたタイミングで電話が掛かってきた。
 やばい。待ち合わせ相手からだ。
 その場所から急いで離れ、電話を取る。

『どこにいるの!?』
「ご、ごめん。ちょっと」

 知らない男女をストーカーしてました。
 なんて言えるはずもなく。平謝りする。
 ……でも、青春って感じで、良かったな。久しぶりにあの頃を思い出した。

「ねぇ」
『何?』
「月が綺麗ですね」

 電話の向こうの君に言ってみる。
 君が笑った。

『懐かしい。告白の時も、そんな感じだったね』

 君に伝えたい。――I love you.


『I love』

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