「こんなところにお店あったっけ……?」
今日は散々だった。
仕事で大きなミスをしてしまった。凹んでいたところに、追い打ちの、恋人からの別れようというメール。ようやく仕事を終えて、帰ろうと駅に来たら、定期券が見当たらない……。
こうして辿ってきた道を引き返していると、見覚えのない店を見つけた。バーだ。
「バー……『Sunrise』……」
いろいろなことが悔しくて、悲しくて。私はそのままそのお店に入っていった。
扉の向こうは雰囲気のあるバーで、ただ、壁の一面に美しい日の出の絵が描かれていたのが印象的だった。
「いらっしゃいませ」
カウンターの向こうに立っていた、黒いベストを着た男の人が声を掛けてきた。マスターだろうか?
「すいません。初めてなんですが……」
「どうぞこちらへ」
目の前のカウンターに案内され、座る。
「あなたに合う一杯を作ります」
その男の人はそう言うと、慣れた手つきで素早くカクテルを作り出した。シェイカーの音が心地良い。
「こちら、オリジナルカクテル『Sunrise』でごさいます」
名前の通り、日の出を思い起こさせるようなオレンジ色のカクテルを置かれた。
飲んでみると、優しい味がした。
「美味しい……。『Sunrise』って、このお店と同じ名前ですね」
「はい。この店も、そのカクテルも、誰かの夜明けになるような、そんなものにしたくて作りました」
「誰かの夜明けに……」
思わず、今日あったことを全部ぶち撒けていた。
悔しかったこと、悲しかったこと。
それを、日の出の朝焼けのように、優しく温かく聞いてくれた。
徐々に気持ち良くなって、だんだんと眠くなって……。
気付いたら、私は公園のベンチで眠っていた。
あれ? バーで飲んでなかったっけ?
膝の上にはなくしたはずの定期券があって、顔を上げるとビルの合間に、こちらも目覚めたばかりの太陽が昇り始めていた。
夢だったのか、それとも――?
ただ、やけに心はすっきりしていて、今日も頑張ろうと思えたから。私は大きく伸びをした。
『Sunrise』
ある日突然、世界のあらゆる物が空に向かって落ちていった。
原因は私にはわからない。重力が逆さになったのだ。
海が、湖が、池が、川が、空に向かって溢れていった。あっという間に空に溶けていってしまった。
電車や、車や、地面に置かれていたもの、手に持っていたもの、あらゆる物が空に向かって落ちていく。
そして、重さがある建物なんかも、メキメキと音を立てて崩れていく。空に落ちていく。
当たり前だが、生き物も、人間も。突然空に放り出された。
青い空へ向かってどんどん落ちていく。
あまりの光景に。興奮と恐怖で、私の意識も空へと溶けていった。
『空に溶ける』
どうしても、どうしても君じゃないといけないのに。
それでも君は僕の前から去っていってしまう。
何がいけなかったのだろうか。
プロポーズの言葉? いいじゃん、英語で言うくらい。
名前のことだって褒めたのに。
「変わってる」とよく言われてきた。それでも君だけは僕をわかってくれると思ったのに。
家族に紹介した時だって、君ならうちの親とも仲良くやっていけると思ったし、ママの味もすぐできるようになるって思ったのに。
どうしても君じゃないと、まるで駄目なんだ。
――まだ間に合うかな?
僕は君の後ろ姿を追いかけた。
『どうしても…』
「まって!」
呼び止められて、私は振り返る。
追いかけてきたそいつは肩で息をしながら、真剣な眼差しを向けてくる。
もう今更何を言われても響かないと思うけど、一応聞いてあげようと、そいつに向き直った。
「ま……って、いいよね……」
――?
何を言っているんだ。
「『ま』って、いい響きだよね。満月、舞、真心、ママ……『ま』から始まる言葉は、綺麗なものがたくさんだ」
マジで何を言っているんだ。
さすがに意味がわからなすぎてゾッとした。特にママとか。
「だから、マミ! そんな言葉から始まる君も、とっても素敵ってことだ! どうか僕と、マリー・ミー……」
『ま』を使いたかったのかもしれないが、プロポーズで「マリー・ミー」って。というか、僕とミーで被ってるし。
それ以前になんだこのプロポーズは。
「マジで無理。間に合ってます」
手を降ってその場を去る。
こんなだから無理だと思ったし、何を言われても響かないんだよ。
また会うこともないでしょうけど。まぁ、元気でね。
『まって』
家族の中で、唯一妹が支えだった。
所謂毒親と呼ばれる両親の元で育った。でも、そんな生活の中でも、守るべき存在の妹だけは自分の光だった。
ある日、親が言った。
「あいつは病気になった」
病状を訊いても、詳しいことは教えてくれなかった。ただ、不治の病だということだけは教えてくれた。
力が入らず、膝から崩れ落ちた。
「嘘だ……嫌だ……!」
「もう助からない。諦めろ」
いくらそう言われても、信じない。信じたくない。
「本当に不治の病? お金さえあれば治療できないの?」
縋るように尋ねる。
親は面倒くさそうにこっちを一瞥する。
「……そうだな。金があれば、治療もできるかもしれんな」
もしかしたら、その言葉は俺を宥める為の適当な言葉だったのかもしれない。しかし、俺はこの一言に一縷の望みをかけることにした。
……神様、どうか。妹が助かるなら何でもしますから。
俺はあちこち金策に走った。
大金を稼ぐ方法を探るうちに、この世の中には、自分が知らない世界が嫌という程あるんだと知った。
どうやらこの五体満足の体は金になるらしい。
顔も、腕も、足も、臓器も、何でも。俺の命なんてどうでも良かった。
妹の為に、俺はこの体を闇オークションで売ることにした。
初めての世界。俺は商品として、舞台へと上がった。
「こちらの少年の体。まずは両目から」
「1000」
「1200!」
「1500だ」
「両目1500で落札! お次は歯です」
――目、歯、髪、頭皮、右腕、左腕、心臓、肝臓、胃……体のパーツごとに俺が売られていく。
すべてのパーツが落札され、俺は舞台を後にした。これから、俺の体は切り刻まれ、落札者の元へと渡っていく。
それでも構わない。お金はちゃんと家に入ると約束してくれた。これで妹が助かるなら、それでいい。
そして、舞台から降りた俺とすれ違いで、痩せ細った一人の少女が舞台へと上がっていった。思わず振り返る。
だって、それはよく知った姿で。
どうしてこんなことが起きているのか。何が真実で、何が嘘だったのか。一体、俺は何の為にここに来たんだって。
そしてこの時、この世に神様なんていないんだと知った。
『まだ知らない世界』