私には幼馴染がいた。
過去形なのは、もう二度と会うことはないから。
小2の夏、彼は遠い場所へと旅立った。
あの日私と彼は海へ行った。思い返せば「子どもだけで行ってはいけない」と何度も言われていたのに、私たちは気にも留めていなかった。
午前中はあんなに晴れていたのに急な雨。慌てて近くの空き家の軒下に入った。数分待っても雨は止まない。すると彼が突然「あっ」と声を上げた。忘れ物をしたらしかった。
「雨止みそうにないし、とってくるから、これ持って先帰ってて!」
私が何か言う前に、彼は海岸で拾ったイカの骨を私に押し付けて走り出した。私はそれを落とさないよう握りしめて、反対方向へと駆け出した。
夜になって、電話が鳴った。彼がまだ帰らないと。不安になった私はアイスを食べる手を止めて父親たちの会話に耳を澄ました。電話を切った後、父は私にどこで彼と別れたか訊いた。私ははじめ例の空き家の場所を答えたが、すぐに思い直して海へ行ったことを伝えた。父は私に「絶対に家から出るな」と言い置いて、目にも止まらぬ速さで家を飛び出して行った。
アイスは溶けて床に落ちたが、私の体は動かなかった。
今日、先生が私の部屋でイカの骨を見つけた。普通にしていればよかったのに私は、思わず過剰反応してしまった。古いものだから、下手に触ったらボロボロに崩れてしまうのではないかと思ったのだ。
先生はすぐに手を離したし、事情を知って謝ってくれた。骨も無事だった。でも私はその時の先生の申し訳なさそうな顔を見て、胸が苦しくなった。
あの頃の私はぼんやりと、でもたしかに、彼のことが好きだった。ずっと一緒にいたいと思っていた。大人になってもずっと。結婚はできなくとも。
それが友情だったのか、家族愛だったのか、はたまた恋心だったのか、それは定かでない。
でも心からの気持ちだった。
そんな人との思い出の品を、未だに大切に持ち続けている私を、先生はどう思うだろう。
ホッとする?
私から解放されたと喜ぶ?
その後は?
このまま過去を大切にしろと励ますか。
同年代との未来を考えろと説き伏せるか。
先生が、私から離れていく……?
彼はただの幼馴染で、骨は昔しまってからずっと忘れていたと、言っておいたほうが良いだろうか。でもこの人に嘘はつきたくない。
考えるほどに胸が締め付けられて、うまく息ができない。気づいた時には溢れた雫が頬を伝っていた。
先生は優しく私の名前を呼び、ハンカチを差し出した。
「せんせぇ、すきです……」
「……」
視界が滲んで先生の表情が見れない。
「せんせぇ、ごめんなさいっ……」
「なぜ謝るんですか」
「だって、せんせぇのことすきなのに、ほかのひとの、だいじにして、」
「何も謝ることはありません。私は嬉しいですよ」
あ、やっぱり。先生は私を手放すんだ。
「やだ、せんせぇいっちゃやだぁ」
「どこにも行きませんよ」
先生はとめどなく溢れてくる涙を拭くのを中断して、私の手を包んだ。
「君がまた、人を好きになれたことが嬉しいんです。その相手が私であることは、この上なく光栄です」
私の態度で先生は察したのだ。
「せんせぇ……」
「過去の想いを捨てる必要はありません。それが今の君を創っている。私の……尊敬する君をね」
言いたいことがたくさんある気がするのに、言葉にならない。私は先生にしがみついて涙が止まるのを待った。
先生が帰った後、私の泣き腫らした顔を見た父が血眼で追いかけようとしたのは、また別の話。
テーマ「いつまでも捨てられないもの」
「来月だな、演劇発表会」
「ああ、うん……」
本格的な寒さが街全体を覆う日、私が切り出した話題に意外にも乗り気でない様子の息子。
「どうした、主役だろ? 楽しみにしてるとばかり思ってたが」
「そうだったんだけど……」
息子は少し俯いて、細く息を吐いた。
「敵のお姫様役の女子が骨折しちゃって、全治1ヶ月」
「そうなのか!? 大丈夫なの?」
「うん、元気だよ。でも動きのある役だから、1ヶ月も練習できないとなると、交代するしかなくて」
「そうか、可哀想にな」
「しかも他に動ける女子がいないんだ」
「それは困ったね」
演目変更だろうか。それとも棄権してしまうのか?
「ハァ……みんなが私にやれって」
「え???」
この子が女の子の役を? しかもお姫様?
たしかにこの子はその辺の女の子より断然可愛いが(その辺の女の子ごめんね)
「ただの授業なら別にいいんだけど、発表会でしょ? 大勢の前で女装……しかも先生が観に来るし」
この“先生”が学校教諭でなく家庭教師を指すことはすぐに理解した。心なしか頬が赤い気がする。
要するに、好きな人に女装姿を見られるので気が重いということか。
「先生を誘った後でこんなことになるなんて」
涙目で愚痴る我が子も可愛いが、引き受けたからには嫌々演じてしまってほしくない。
「そんなに嫌なら役を断るか、先生にお断りの連絡するか?」
「えっ、でも……」
この子の考えていることは大体わかる。今更やりたくないと言ってはクラスメイトに迷惑をかける。それは避けたいが、先生にも誘っておいて断るような無礼は働きたくない、といったところか。
「煌時、嫌々演じられては外された子が可哀想だ。役に対しても失礼だよ」
「うん……」
「それに先生だって、お前が楽しんで演じる姿を見たくていらっしゃるはずだ」
「うん」
まだ少し迷っている様子なので、畳み掛ける。
「それとも先生は、クラスのために女装した男子生徒を馬鹿にして笑うような人なのかい?」
「そ、それは絶対に違う! 先生はそんな人じゃない!」
「そうか。だったら、何の問題もないな。お前の頑張りをしっかり見てもらえば良い」
煌時は覚悟を決めた顔で頷いた。
発表会当日。私と先生は保護者席で煌時の出番を待った。
先生には煌時が何の役をやるか伝えていない。役を変わる前から決めていたことだ。
私は息子の期待通り、先生が息子を見て笑わないことを密かに祈った。
幕が上がり、ナレーションが流れる。
主役の少年が登場、キャラクターを見せつつ話を進める。
ヒロインや仲間たちと合流、仲間のひとりを故郷から追放した敵の存在が明らかになる。
主人公は仲間の仇をとり、故郷を取り戻させるための戦いを決意。そんな主人公を信頼してついて行く仲間たち。
「かなり深いストーリーですね」
先生は私の耳にそっと囁いた。その言葉通り、演者と無関係の保護者や教師陣にとっても面白い話になるよう頑張ったと聞いている。私は息子と息子のクラスメイトたちを心から誇らしく思った。
ついに決戦の時。
初めて顔を出す悪の姫君。その姿に、我々だけでなく客席全体が息を呑んだ。
長い黒髪、下界を見下ろすような冷めた視線。すべてを見通しているかのような落ち着き払った声。品のある立ち姿。
「そなたらが、我が新天地を脅かしているという旅人か」
「な、何が新天地だ! あそこは俺達の故郷だ!」
「故郷と言いつつそなたらは、ろくに治めもせず喧嘩に明け暮れていた」
「そ、それは……」
住人だった男が口ごもると、すかさずヒロインが助け舟を出す。
「ただ粛々と働くだけが政治じゃないわ! 彼らはね、喧嘩を通して愛を伝える。絆を深める。そういう生き物なの。余所者のあんたが好き勝手していい理由にはならないのよ!」
そうだ、その通りだ!
端役の数名が一斉に叫んだ。
「ふぅ……なんと野蛮な。我が崇高な信念など、そなたらには言ってもわからぬだろう。よろしい……合戦です!」
途端にバタバタと目まぐるしく動き回る舞台上。各々がそれぞれの敵と刀を交える。BGMの効果も相まって、手に汗握る戦闘シーンとなった。
仲間A、仲間B、仲間C……と順番に決着がついていき、最後に残ったのはヒロインvs姫と主人公vs姫の側近。先に倒れたのは、姫だった。
「姫!!」
主人公と戦っていた側近が刀を放り出して駆け寄る。警戒したまま2人を見守る主人公とヒロイン。
「姫、しっかりしてください! 姫に死なれたら俺は……!」
「おまえ、は……今まで、よく、尽くしてくれた。あとのことは……頼んだぞ」
姫の瞼が落ちた時、側近の慟哭が地に響き、主人公たちは刀をおろした。
「うう、姫……! 姫のおっしゃった通りだ。争いは何も生まない。お前たちもこれでわかっただろう! やはりお前たちの野蛮な政治では、この国どころか何も守れやしないのだ!!」
側近は涙ながらに訴えた。その様子を見て、主人公がヒロインに頷く。
「ちょっとあんた、まだ諦めるには早いわよ」
「は?」
「これを使いなさい」
ヒロインが手渡したのは、主人公たちが中盤で手に入れていた回復薬だ。
「最後のひとつよ。これを今まで使わずに済んだアタシの戦闘力に感謝するのね」
「だが、お前たちの傷だって相当深いはず! なぜ自分たちに使わない!?」
「決まってんだろ!」
堂々と声を張る主人公。
「負けたてめぇらは、もう俺の配下だ。こんなところでくたばってもらっちゃ困るんだよ!」
「それに私たちは最初から評価してたのよ? このお姫様の政治的手腕をね。喧嘩っ早い村人たちのお目付け役にしてやるわ!」
舞台が暗転し、最後のナレーションが流れる。その後主人公たちは、回復した姫たちと愛ある喧嘩をしつつ、村を治めて幸せに暮らしましたとさ。
体育館の灯りが戻るのと同時に深い息を吐く。周りを見ると、ひそひそと好意的な感想が飛び交っているのがわかった。
親の贔屓目抜きにしても、いちばん輝いていたのは煌時だ。私は「どうだ!」と言わんばかりの顔で隣の男を見た。
男は口を半開きにしたなんとも間抜けな表情で、呆けたように舞台の方を凝視していた。心なしか瞳は潤み、頬が紅潮している。
「先生?」
「……」
「先生!」
「は、はいっ?」
先生は嬉しそうな恥ずかしそうな不思議な表情で振り向いた。
「どうでした?」
「ええ、すごく良かったです。特に煌時くんは素晴らしい。彼に演技の才能があったとは」
先生は息子の演技の良かった点を細かく挙げて褒め称えたが、女装については何も触れなかった。触れられなかったのかもしれない。
あまりに美しかったからな。誰もが魅了されて当然だ。うんうん。
この先生もどうやら息子に惚れ直してしまったらしい。
……それは複雑だが。
「あっ、先生!!」
駐車場で先生を見つけた煌時は、目を輝かせて駆け寄ってきた。そばに私もいるんだけどな。
「あのっ、どうでしたか……?」
喜んで走ってきたものの、女装したことを思い出してやっぱり照れたらしい。少し小声になっている。
先生はしゃがんで煌時と目線を合わせた。
「とても良かったですよ。君に演技の才能があったとは驚きです」
「えへへ」
あいつめ、父親の私より先に息子を褒めるとはけしからん。
帰ったらヤツの比じゃないくらい褒めちぎってやる。
なんてことを考えていたら、ヤツがチラッとこっちを見た。と思ったら、息子の耳に何か囁いて立ち上がった。
「では、帰りますね。今日はありがとうございました」
そう言って一礼すると、足早に去って行った。
その姿を見送って車に乗った息子に尋ねる。
「最後何て言われたんだ?」
「えっ、えと……ないしょ!」
我が子には魔性の気があるのかもしれん。
そらを誇らしく思うべきか、危機感を抱くべきか。
父はまだ迷っている。
テーマ「誇らしさ」
冬がきた。
私は以前恋人と訪れた港に来ていた。あの時も季節は真冬で、凍えそうに寒かったのを覚えている。
なぜ夜中に海を見に来たのか?
ここが観光名所だからというのもあるが、実際は少し気分が落ちていたからに他ならない。
たまにあるのだ、特に理由もなく落ち込む期が。
あたりを見回すと、2組ほどのカップルが散歩していた。ひとりなのは私だけ。少しだけ居心地悪く感じたものの、今は他人に嫉妬している場合ではないと頭を振る。余計な感情に惑わされず、自分を見つめなくては。
ザザン……ザザン……
時折波が堤防を打つ音が聞こえる。
子守唄のようなそれは、ベンチに腰掛けた私の瞼を下へ下へと引っ張った。
「先生?」
あの子の声が聞こえる。
「先生!」
こんな時間、こんな場所にいるわけがないのに。
「先生、起きてください」
肩に何かが触れた気がして目を開けると、そこはいつもの彼の部屋で、目の前の彼が膨れっ面をしていた。
「先生、私が勉強してる間に寝ちゃうなんてひどいですよ!」
「ああ、ごめんなさい。どれくらい寝てましたか?」
「10分は経ってないと思いますけど」
「すみません。ワークは終わりましたか?」
「はい」
彼が差し出した問題集を受け取る。彼の言う通り、すべての回答欄がきちんと埋められていた。
「うん、流石です。歴史はますます得意になれそうですね」
「ふふん♪」
私が褒めると素直に喜んでくれる彼。こっちまで嬉しくなる。
「ところで先生、そろそろ本当に起きないと、風邪ひいちゃいますよ」
「え?」
「先生、早く会いたいです。先生、……」
まだ何か言われたような気がしたけれど、うまく聞き取れなかった。深い海の底からすくい上げられる感覚。彼が遠ざかっていく。
待って、まだ彼と話していたいんだ。
まだあの子のそばにいたいんだ。
待って……
「おい!!!」
鼓膜を通り越して心臓をぶっ叩くような野太い声で目が覚めた。一気に脈が跳ね上がる。
「おいあんた、こんなところで寝てたら死ぬぞ!」
「へ、ああ、すみません。ありがとうございます」
「おう、気をつけろよ!」
威勢のいいおじさんからはほんのりアルコールの匂いがした。恐らく飲み仲間であろう人達と一緒に去って行く。
私は凝り固まった体を伸ばして立ち上がり、駐車場へと足を向けた。
途中、持ってきていた貝殻を真っ黒な海へ放る。元はここで拾ったものだから、ゴミとは言わないでほしい。
車の中はすでに冷え切っていた。温かい飲み物を買って正解だった。
私はコーンポタージュを缶の半分くらい飲んでから、ポケットのスマホに手を伸ばした。
無性にあの子と話したい気分だった。
テーマ「夜の海」
先生から休みの連絡が入った。
どうやら風邪を引いてしまったらしい。
こんな時、自分が先生の恋人だったらと歯がゆく思う。せめて大人だったら、看病しに行けるのに。
先生と会えない1週間は、とてつもなく味気なかった。友達といるのも好きだけど、先生は特別だから。
先生から体調が戻ったと連絡が来た時は心躍った。父が話している横で、代わってもらうチャンスを虎視眈々とうかがう。
やっと大人の話が終わって私の番。ウキウキで父のスマホを受け取った私は、次の瞬間落ち込んでいた。
「君には申し訳ないけど、もう1週間休ませてほしいんです」
「えっ!? な、なんでですか??」
「大学のほうで外せない用事ができてしまいました。本当にごめんなさい」
「……はい」
父にスマホを返し、自室に引っ込む。先生は日頃から進んだ授業をしてくれている。だから数日休んだからといって、私が苦手な算数の授業でも置いていかれる心配はない。
でも私の心は全然平気じゃない。
寂しい。寂しい。寂しいよー!!
私は窓を開けて絶叫したい気持ちをグッとこらえて、枕に顔を埋めた。
「えっ、今日も……?」
「うん。なんでも、小学校の恩師が事故に遭ったらしくてね、元クラスメイトとお見舞いに行くんだと」
さすがに抗議してやろうと構えた姿勢が、『恩師』という単語に崩された。私だって先生に何かあったら、友達との約束を断ってでも駆けつける。
「煌時くんに謝っておいてくださいってさ。明後日は必ず来るって」
「……わかった」
私はそれだけ言って部屋にこもった。あることを思いついたからだ。思い立ったが吉日。即実行あるのみ。
翌日、私は初めて通る道で自転車を走らせていた。
先生の家は以前、Googleマップの使い方を教えてもらった時に見ている。すぐに見つかるはず。
私は逸る気持ちを昇華させるべく懸命にペダルを漕いだ。
先生の住むマンションに着いた。駐輪場の適当なスペースに自転車を停め、玄関へ。向かおうとした時、誰かが出てきた。
(わ、すっごい美人)
サラサラのロングヘアーを風に靡かせ、スラッとした長い足で堂々と歩く姿は百合の花。アスファルトを打つヒールの足音がやけにはっきりと聞こえる。
ここの住人だろうか。先生と知り合いだったらちょっとやだな、なんて。
私は子どもじみた嫉妬心を、目を閉じて振り払った。
ところが、直後に聞こえた声にハッとしてすぐに目を開けた。
先生が玄関から出てきて、名前を呼びながら小走りで美女を追いかけている。振り返った美女は先生から何か受け取って、お礼を言って、再び歩き出した。先生は玄関へと戻っていく。
……え、知り合い?
ていうか、さっきまで一緒にいたの?
私は動揺しまくってキョロキョロと視線を動かした。やがて2人の姿は完全に見えなくなったが、私の足は固まったまま動かなかった。
先生、あれ誰?
どういう関係?
私は先生に会えないことがもう1日も耐えられなくて、普段あまり使わない自転車を引っ張り出してここまで来てしまった。
なのに先生は、別の人と一緒にいたんですね。
たしかに、私は先生の恋人でも何でもないけれど。
私は下ろしたばかりのスタンドを上げて、サドルに跨りその場を去る
ようなことはしなかった。
ピンポーン ピンポーン
先生、部屋にいるのはわかってます。
隠れても無駄ですよ……
『はい……え? 煌時くん!?』
「先生、お久しぶりです」
私が怒っていることは声色からして明らか。先生は驚きつつもすぐにドアを開けてくれた。
「どうしたんですか、急に訪ねてくるなんて」
「先生に会いたくて。悪いですか」
「いえ……」
先生は私が怒っている理由を考えているだろう。しかし正解にはたどり着けまい。
「こんなに長く休んでしまったことは、本当に申し訳ないと」
ほら、やっぱり。
「それはもういいんです」
「え、いいんですか」
「それより、さっきの人。一体誰なんですか」
「え?」
「立てば芍薬座れば牡丹歩く姿は百合の花って感じの女の人ですよ!!」
「えっと……」
先生は返答に困っている様子だった。
「浮気ですか」
「はい?」
「私の目が届かないのをいいことに、美女を家に呼んでイチャイチャですか!」
「いや、そもそも私と君は……いえ、浮気はしてません……」
私の睨みが効いたのか、先生は言い直した。
「彼女は、恩師の奥さんです。お見舞いに行ったお礼の品を持って来てくれただけです。これから次のクラスメイトのところに行くと行ってました」
「本当にそれだけですか?」
「本当です」
それなら、まぁ……ん?
「え、待ってください奥さん? 娘さんじゃなくて?」
「ああ、驚いたでしょう。ああ見えて○十代らしいですよ」
「へ、へぇ……てっきり先生と同じ大学生かと」
「昨日私の友人からも言われて、よく言われると笑ってました」
なるほど。
「気は済みましたか?」
誤解が解けて、いつもの落ち着きを取り戻した先生が私を見る。
「っ……いえ、まだです。2週間も放っとかれたんですから」
「おや、それはもういいとさっき言ってませんでしたか?」
「う、うるさいです!!」
論理的な反論ができなくなった私は、先生の腕に額を押し付け顔を隠した。先生は反対の手で私の頭を撫でた。
「困りましたね。どうしたら許してもらえますか?」
ちっとも困ってなさそうな声だ。
ムカつく。好き。
「……デートしてくれたら許してあげます」
「ふむ。近くに美味しいクレープ屋さんがあります。行ってみますか?」
私は赤くなった顔をまだ見せたくなくて、下を向いたまま頷いた。近くなら、うんとゆっくり歩かなきゃ。先生といられる時間を少しでも長く……
「そういえば、君はここまでどうやって?」
「自転車です」
「では、ついでにサイクリングでもしますか。ちょっと遠くまで」
「……いいんですか?」
「はい」
私は先生の後ろでペダルを漕ぎながら心に決めた。また自転車に乗って、先生に会いに来ようと。
テーマ「自転車に乗って」
んん〜……
目は覚めているものの、私は布団から出られずにいた。
あと少ししたら、父が起こしにくるだろう。学校に遅刻してしまうからだ。でも、なんだか今日は気が重い。
体の調子が悪いわけではないのに、起き上がることができない。心が足を引っ張っているようだ。
予想通り、父がドアをノックする音がした。
「煌時、入るよ」
私は返事をせず、頭の先まで布団を被った。
「起きてるか?」
「……うん」
「具合でも悪い?」
「うん……」
「体温計持ってくるから、ちょっと待ってなさい」
熱などないことは自覚しているが、大人しく脇に挟む。案の定、平熱が表示されたまま計測終了の電子音が鳴った。
「うむ、熱はないな。学校はどうする?」
「……ぃきたくない、です」
「ふむ、わかった。欠席の連絡するから、寝てなさい」
父は私を無理矢理起こして学校に行かせたりはしない。それはわかっていても、やはりこの瞬間は緊張するものだ。
ドアが閉じられた音にホッとして、私は再び目を閉じた。
「おや、昨日はお休みしたんですか」
昨日のページが白紙なのを見て、先生が聞いてきた。予想はしていたが、どうにも心拍数が上がる。
「もう大丈夫なの?」
「はい、えっと、熱とかはなくて……」
私が言い淀んだからか、先生はすぐに気づいたらしい。
「なるほど、心の不調かな」
黙って頷く私。『心の不調』という言葉が、妙にしっくりきた。
「良いことです。心の健康は目に見えない分、軽視されがちだから」
「心の健康……」
「そう。心だって怪我したり、風邪を引いたりするものです」
「先生もですか?」
「もちろん」
私は先生の笑顔にひどく安心した。
「壊れてしまう前に休んだり、逃げたりすることは決して恥ではない。生きるための立派な戦略です」
「はい!」
私の奥に渦巻いていた罪悪感が、先生の言葉に押し流されていく。先生は私の頭を撫でたあと、小さく息を吐いて続けた。
「ただ、人生で一度は、どんなに嫌でも戦わなくてはならないことがある」
「え〜……いつですか?」
「それは人それぞれ。目の前の戦いから逃げていいのか駄目なのか、駄目ならどう戦えばいいのか。君達は今、それを学んでいるんです」
「はぁ」
なんだかわかるようなわからないような。そんな私の気持ちを察したのか、先生は話を切り上げて授業を始めた。
心の健康、戦う、休む、逃げる……
先生はもう、経験したのだろうか? 逃げてはいけない戦いというものを。それはどんな戦いで、どうやって戦ったの? 結果は?
先生の綺麗な横顔を一生懸命見つめてみても、答えは見つからなかった。
私にできるんだろうか? 自分の心の健康を度外視して戦うことなんて。正直、不安でしかない。
でも、と私は思う。
先生のためなら、きっと……
「煌時くん」
先生の唇が私の名前をかたどった。我に返る。
「はいっ?」
「聞いてますか?」
「……すみません」
私は素直に白状して鉛筆を握り直した。
テーマ「心の健康」