北風が吹き付ける路地を、マフラーに顔を埋めながら歩く。
学園祭が終わると、校内は途端に勉強ムードに入る。期末テストが近いからだ。
今日は父の帰りが遅いこともあって、図書室で勉強してから家路についた。辺りはすでに暗く、ちょっとした恐怖心を煽る。
「まったく、藤江くんがあんなこと言うから……」
ホームルームで担任から不審者情報を伝えられた後、藤江くんは異常に私を心配して、送って行くと言い出した。
しかし藤江くんは家庭の事情で早く帰宅しなければならない日だったようで、私にも図書室に行かず帰るよう勧めてきた。
私は家より図書室のほうが集中できるし、男だから大丈夫と言って断ったのだが、藤江くんは真剣な顔をして、
「男の子が好きな悪い大人だってたくさんいるよ。煌時くんみたいな可愛い子は特に!」
と言ってのけた。
その時は笑って流したが、今になって少々後悔している。
いっそ走って帰ろうか、もうだいぶ近くまで来たし。そう考えて鞄を握り直した時、曲がり角から人が出てきて思わず叫びそうになった。
その人は私を振り返ることもなく先を歩いて行く。
よかった、ただの通行人だ。いや、ビビりすぎだぞ私。
跳ね上がった鼓動を落ち着かせようと、胸に手を当てて歩く。ところが再び、ドキッとさせられた。前を歩いていたその人が、急に引き返して来たのだ。
忘れ物でもしたんだろうか。そう考えることで、私は自分を奮い立たせた。
「すみません」
しかしその小さな努力も虚しく、彼は私に話しかけてきた。
「は、はい?」
「この辺に岡野さんというお宅はありませんか」
私はびっくりして目を見開いた。この近所に岡野という家はウチしかない。なんだ、父のお客さんだったのか。
「あ、ええと」
説明しかけてハッとする。父は今日、帰りが遅い。誰かと家で会う約束なんかしていないはずだ。
たとえこの人が父の親友で、勝手に押しかけて来たのだとしても、父のいない家に案内したところで意味がない。何より、私ひとりの空間に知らない人を招き入れるのは正直怖い。
私は咄嗟に嘘をついた。
「すみません、私は最近引っ越してきたばかりで、よく知らないんです」
「ああ、そうですか」
「失礼します」
頭を下げて去ろうとした瞬間。
「残念だなぁ〜」
「え?」
男は突然馴れ馴れしい口調になった。
「純粋そうな子だと思ってたのに……嘘つくような悪い子だとは思わなかったよ」
ああ、ヤバい。この人ヤバい人だ。
頭の中の私はすでに走り出していたのだが、実際には、北風と恐怖で凍りついた足が地面に張り付いていた。
男が近づいてくる。
私はガクガクと震えるだけで何もできない。頭が真っ白になって、ただ男を食い入るように見つめるしかなかった。
「悪い子にはお仕置きしなきゃね、煌時くん……」
男が手を伸ばしてきたその時、
ウウーーウー
「お巡りさん、こっちです!!」
パトカーのサイレンとともに、私のヒーローが現れた。
「チィッ!!」
不審者は逃げていき、先生は崩れ落ちる私を抱きとめた。
「煌時くん! 大丈夫ですか、何もされてませんか!?」
「は、はい……」
私は泣きながら先生に縋りついた。
「先生、なんでここに」
「お父さんから頼まれたんです。予定よりも遅くなりそうだから、様子を見に行ってほしいと。間に合って良かった……」
先生は痛いほど強く私を抱きしめた。
「警察は……」
「あれは方便です。君たちを見て咄嗟にスマホでサイレン音を流したんですよ」
先生はスマホを翳して笑った。
「これからちゃんと通報します。煌時くん、詳しく話せそうですか」
「多分、なんとか……頑張ります」
警察署から帰ると、父が大慌てで駆け寄って来た。とっくに帰っているはずの私の姿がなく、先生にも連絡がつかなくて死ぬほど心配していたらしい。
先生から事情を聞いた父は、今日は先生と離れたくないという私の我儘を飲んでくれた。
先生の腕に掴まりながら家の中に入る。静寂に包まれた自分の部屋が、いつもの何倍も怖いものに思えた。
テーマ「静寂に包まれた部屋」
カレンダー制作も無事終わり、学園祭の日がやってきた。
もちろん先生を誘ったが、大学の用事があって来られないらしい。残念だが、仕方がない。
しかし問題は藤江くんである。やたらと私にくっついて行動する。先生がいれば、彼から離れる言い訳にもできたのに。
クラスでの義務を果たしたら、後は自由時間。他のクラスや部活動の展示を見て回る。
藤江くんはずっと私についてきて、ニコニコと機嫌良くしていた。自分の興味ある展示を見に行けばいいのにと言ったら、「僕の興味は君に向いてるんだよ」と返された。
結局1日中彼と一緒に過ごした私は、先生への罪悪感でいっぱいになっていた。
対して藤江くんは1ミリも気にする様子がなく、販売されていたオリジナルカレンダーを意気揚々と購入していた。
「クラス用のがあるのに、わざわざ買うの?」
「もちろん! 君の可愛い姿を家でも拝めるじゃないか」
「もう……」
ここまで人に好かれるなんて、めったにないことだ。有り難がるべきなのかもしれない。しかし私にとっては、先生が優先だ。あの人を傷つける可能性のある行動は避けたい。
なんて考えていたら、救いの手を差し伸べる者が現れた。
「岡野、藤江!」
「あ、颯人先輩」
廊下で偶然会った先輩が声をかけてきた。
「お前ら2人で回ってんのか。俺のクラスはもう行ったか?」
「はい、先輩はいませんでしたが」
「ええ、残念でした。先輩のメイド服姿が見られなくて」
颯人先輩のクラスはメイド喫茶を開いていた。しかしメイド服を着ていたのは全員男子生徒だったのだ。
「あんなの着てたまるかよ。水泳部のほうに呼ばれてるって言って断った」
「え、ずるい……水泳部は展示だけだからあまり人いらないのに」
「いいんだよ、俺が着たところでどうせ似合わねぇし」
水泳部を出汁に使った先輩に非難の目を向けていると、藤江くんがとんでもないことを言い出した。
「たしかに、あれが似合う男子なんて相当な美形だけでしょうからね。煌時くんくらいの」
「ちょっと、藤江くん!?」
先輩に失礼だし、私の名を引き合いに出されても困るって。
「そうだ、衣装貸してもらえないんですか? 煌時くんに着せて写真撮りたいです」
「藤江くん、やめてよ!」
暴走する藤江くんと、必死に止める私。そんな我々を見て、先輩は何かを察したらしかった。
「まぁ、2人ともその気なら貸さんでもないが、岡野が嫌なら駄目だな。藤江、本人が嫌がってることはしてやるなよ」
「先輩! ありがとうございます!」
「ちぇ」
藤江くんはわかりやすく口を尖らせた。
「じゃ、俺そろそろ行くわ」
「あ、はい。お疲れ様です」
「お疲れ様です」
先輩を見送って歩き出そうとした時、藤江くんが「あっ」と言って立ち止まった。
「ちょっと待ってて!」
「え、うん」
すでに廊下の先の方まで歩いて行った先輩を追いかけ、何やら話しかけている。
この隙に逃げようかとも思ったが、それは流石に酷い気がして待った。藤江くんはすぐに戻ってきた。
「行こう」
「うん」
何の話をしていたのか気にはなったが、訊いてもはぐらかされるような気がして、訊かなかった。
後輩2人と廊下で立ち話。切り上げて去ろうとしたら、1人が追いかけてきた。
「先輩!」
「ん? 何か用か」
「さっきの発言が気になって。煌時くんのこと、かなり気にかけてるみたいですね」
「いや、そんなことねぇけど」
「本当に?」
何だか目が怖い。やっぱりこいつ……。
「何が言いたいんだ」
「僕は負けないってことです。たとえあなたが相手でも」
じゃ、そういうことで。
奴はそう言い残して走って行った。
岡野、食えない奴に好かれたもんだな。
別れ際、先輩を睨みつけるような男に気に入られた後輩のことが、少し可哀想に思えた。
テーマ「別れ際に」
学園祭の準備期間が始まった。
ウチのクラスの出し物はお化け屋敷。手分けして小道具やら衣装やらを作りつつ、オリジナルカレンダーの作成にも取り掛かる。まるで私専用のチームができたようで高揚した。中でも藤江くんは宣言通り、精力的に私をサポートしてくれた。
私の担当月は2月に決まった。モチーフはバレンタインデー。赤やピンクのクッションに囲まれた私が、ハート型のチョコレートを持って微笑む構図にしようと言い出したのは藤江くんである。
クッション作りを女子メンバーに任せて、私と藤江くんはチョコレートを買いに行った。しかし、バレンタインシーズンでもなければハート型のチョコレートなんてそうそう売っていない。私たちは話し合いの末、「ないなら作ればいい」との結論に至った。
家庭科室を借りてチョコレート作りを始める。これがなかなか難しかった。
大量の板チョコを切り刻み、湯煎でとかしてテンパリングする。その間、型をキレイに拭き、オーブンシートでコルネを作っておく。下準備ができたらチョコレートをハートの型に流し込んで、冷蔵庫に入れ30分以上冷やす。
レシピだけ見れば簡単そうだが、ひとつひとつの工程には技が必要だ。特にテンパリングを失敗すると味が落ちたり、ガチガチに固まって食べづらくなったりする。
意外なことに、藤江くんはお菓子作りが上手かった。お姉さんの影響でちょくちょく作っているらしく知識もあり、スムーズに進めてくれた。実に頼もしい相棒だ。
完成したチョコレートは綺麗にラッピングして再び冷蔵庫へ。割れたりブルーム現象が起こってしまったりしたものはその場で口に放り込む。
「ん、おいひ〜♡」
思わず漏らした声に、藤江くんが嬉しそうな反応を見せる。
「よかった。岡野くんの笑顔が見れて嬉しいよ」
イケメンは言うことが違うなぁ……
私は思わずときめいてしまいそうな台詞を平然と言ってのける彼のことが、少し羨ましくなった。
チョコを食べたら何か飲みたくなって、家庭科室の隅っこに放置していた荷物の元へ向かった。中身をゴソゴソして財布を発見。取り出して立ち上がったと同時に、隣に置いてあった藤江くんの鞄を蹴っ飛ばしてしまった。
「あっ、ごめん!!」
慌てて謝りながら、飛び出してきた中身を拾い集める。藤江くんも急いで駆け寄ってきた。
「あ、いいよ岡野くん、自分で拾うから」
「そんな……ん?」
今まさに拾おうとしていた物体を見た瞬間、私の心臓はドクリと脈打った。
そこにはライオンがいた。
銀色のライオン。あのキーホルダーだ。
私が先日失くしたのと全く同じキーホルダーを、藤江くんは所有していた。
「これっ……どこで」
「ああ、それ格好いいよね。この前動物園で買ったんだ」
一瞬、彼が拾って持っていてくれたのかも、と思ったがために、私は内心ガッカリした。彼も私と先生が訪れた動物園に行って、同じものを購入したんだ。
「わかるよ、私も同じの持ってたから。失くしちゃったけどね」
「そうなんだ……」
私は気まずい空気を払拭するような笑顔を作り、拾い終わった荷物を藤江くんに渡して、家庭科室を出ようとした。
「岡野くん!」
「なに?」
「よかったらこれ、あげようか?」
「えっ!?」
突拍子のない提案すぎて受け入れ難い。
「いやいや、もらう理由がないよ!」
「ほら、クラスの代表になってくれたお礼にさ」
「えぇ…うん、いやでも、やっぱりもらえないよ」
「なんで?」
「私のキーホルダーは、大事な人からもらった特別なものだからね」
それとは全く違うんだ。私はそう言って、家庭科室を出た。
鞄を蹴っ飛ばしたお詫びに藤江くんの分の飲み物も買って戻ると、彼は大袈裟に驚き喜んでくれた。
教室へ戻るとちょうど今日の学園祭準備時間が終わる頃だったので、我々はそのまま一緒に帰ることにした。
「うわ、曇ってる」
今にも降り出しそうな空を見て、私は焦った声を上げた。今日は傘を持ってきていない。
「大丈夫だよ、折りたたみ持ってるから」
どこまでもイケメンだな。
「藤江くんの家ってどの辺?」
「✕✕あたり」
「ああ〜、それなら途中から逆方向だね」
「安心して、送ってくよ。ジュース奢ってもらったしね」
「そう? 無理しないでね」
「無理じゃないさ。僕が岡野くんともっと一緒にいたいだけ」
さ、行こう。藤江くんが歩き出したので、私も慌ててついていった。いい加減彼の言動には慣れつつあった。
「そういえば、さっきの話なんだけど」
藤江くんが口を開いた。
「さっき?」
「うん。あのキーホルダー、大事な人にもらったってやつ。それってさ、好きな人ってこと?」
「う、うん、まぁ」
「へぇ〜、好きな人いるんだ。彼女?」
「いや、付き合ってはないよ。それに……女性でもない」
藤江くんが黙ってこちらを見つめる。少し見開かれた目を見て、拒絶されるかもしれないと思ったのだが。
「ふーん、片想いか」
少し考えて、再び口を開く。
「僕にしない?」
え?
呆気にとられた私の顔を見て、彼はクスッと笑った。
「僕にしときなよ」
足を止めた2人の頭上では、雨雲が最初の一粒を落とそうと待ち構えていた。
テーマ「空が泣く」
私の通う中学校には、少し変わった伝統がある。
他校が学園祭でミスターやミスを選ぶように、ウチでは各クラスから代表者1名を選出する。普通と違うのは、選ばれた12名全員が、学校オリジナルカレンダーの写真になる点だ。
ひとりひと月担当し、各月に合った衣装に着替えて撮影される。クラスごとに衣装はもちろん小道具など、どんな写真にするか1から考えて準備する。
学園祭と並行して行われるこの行事は、生徒たちにも地域住民にも根強い人気を誇っている。
我がクラスの代表は誰かというと……
「やっぱりさ、藤江くんじゃない?」
ひとりの女生徒が言い出した。
「イケメンだし、運動できるし、頭も良いでしょ」
「たしかに、クラス代表に相応しいよね」
みなが同調する中、本人が意外な声を上げた。
「僕は岡野くんがいいと思うな」
突然名前を出された私は驚いて藤江くんを凝視した。
「僕はこのクラスに来たばかりで馴染みが薄いし、クラスの代表を名乗るのはプレッシャー感じちゃうかな。それよりも、最初からのメンバーで顔も可愛い岡野くんが適任だと思う」
彼の発言に周りもうんうん言い始める。
「岡野くん、どう? やれそ?」
「え、いや私なんて」
「岡野ならやれるさ! その辺のアイドルにも負けない顔してるし」
そうだ、そうだよと盛り上がるクラスメイトたち。トドメの一言は藤江くんだった。
「岡野くんがどうしても嫌なら僕が頑張るけど、どうかな。もちろん、もしやってくれるなら全力でサポートするよ」
先程彼が言ったように、来たばかりの彼に重荷を背負わせるのはよろしくない。というより、彼だけでなくみんなにとっても重責なのだ。誰かが背負わなくてはならないなら、私が背負えばいい。
それに「何事も経験だ」と、よく父が言っている。あわよくば先生も褒めてくれるかも。
「わかった、やるよ」
私が承諾すると、一気にクラスが湧いた。
テーマ「カレンダー」
私、岡野煌時は、今とてつもない喪失感に見舞われている。
というのも先日、大好きな先生とおそろいで購入した大切なキーホルダーを失くしてしまったのである。
なす術なく週末を過ごし、今日は家庭教師の日。普段なら待ち遠しいはずの時間が、今回ばかりは憂鬱だった。
私はあのキーホルダーをいつも筆箱に付けていた。先生が指導する時必ず目にする場所だ。なくなったらすぐにバレるだろう。
先生は怒らないだろうが、内心がっかりはするはず。だからといって適当な嘘をつくのも気が引けるし……
そうこうしているうちに指導時間がやってきた。
先生は今日も今日とて美しい。なんて現実逃避していられるのも時間の問題。部屋に入って早速、先生の視線が私の筆箱に向かったのを感じた。
あれ、という顔をした。次いで私の顔を見る先生。どんな顔をしていただろう、私も先生も。私は先生の目を見る勇気がなくて、目を泳がせた。
「もしかして、お友達に揶揄われましたか?」
「いえ、その……」
ああ、なぜ私はLINEで、いや電話ですぐ謝らなかったんだ。
「じゃあ……失くしちゃった?」
先生があえて軽い調子で訊いてくる。その細かい気遣いが胸に刺さって痛い。
「すみません……気づいたらなくなってて、学校も通学路も探したけどなくて……」
「そうですか。気に病むことはありません。また買いに行きましょう」
「うぅ……」
予想通りの優しい言葉。自分が情けなくてしょうがない。
「本当にすみません……私ってばダメなやつです」
「そんなことはありませんよ。煌時くんは素敵な人です」
グスッと鼻をすすった。もうすぐ涙が出てきてしまいそうだ。
「信じられませんか?」
「だって、せっかくおそろいで、初めてで……」
なおもグズる私はまるで子どもだ。わかっていても如何ともしがたい。
「仕方ありませんね」
先生は本当に仕方なさそうに笑った。それから近づいてきて……
ふわっと、私を抱きしめた。
「せ、先生……!?」
「信じてください。君は世界一素敵で、特別な人です。私が選んだ相手ですから」
先生の声が、言葉が、体温が、私の中に入ってくる。いつの間にか涙は引っ込み、ぬくもりが私を満たした。
「せんせぇ、すき……」
先生の背中に手を回して呟く。
「知ってます」
先生はそう言って、右手で私の頭を覆った。
テーマ「喪失感」