「今日にさよならがいえるのは、明日がある人の特権だと思うんだよ」
彼女は車椅子に引かれながら呟いた。
「というと?」
「……お父さんとお母さんは、さよならも言えずにいなくなっちゃったから」
あの悲惨な交通事故は、彼女の両親と彼女の足を同時に奪った。以来彼女は、ぼくの家族の一員となって暮らしていた。
「君は……勝手にいなくならないでね?」
不安そうに上目遣いで、ぼくの服の裾をぎゅっと掴んでくる。ぼくはもう我慢ならなかった。
「平凡でも、平穏であればいい。きみと一緒に過ごせるなら"今日"はずっと輝くと思うんだ」
小さな箱を彼女に手渡す。質素で飾り気のない、されど強く輝く指輪。華奢な彼女の左薬指にそっとはめて言う。
「せっかくさよならを言うなら、後悔しないように大切に生きていこう。ぼくときみ、2人で」
「……っ」
彼女は車椅子から飛び出さん勢いで、ぼくに抱きついて来た。
「うん、うん……っ」
今日を生きるのは、大変な事だ。辛い事も沢山ある、でも精一杯生きたなら、自信を持って言えばいい。
「今日にさよなら」を。
嫉妬の嵐、冷めた視線が突き刺さる。
ぼくは平静を装ってコーヒーを一口飲む。
「どうしたの? そんな緊張して」
目の前でそんな呑気な事を口にするのは、一個上の先輩だ。学年中の注目を一身に集める美少女で、容姿端麗成績優秀スポーツ万能を兼ね揃えた正にラブコメヒロインの化身である。腰程まで伸びる艶やかな黒髪から花の香りがする石鹸の匂いが鼻孔を擽った。
ぼくは何故かそんな先輩のお気に入りなのだ。事ある毎にぼくを食事に誘い、彼氏なのではと囁かれもした。彼氏になれるならとっくになっているのに。
「飲み物を買ってきます」
視線から逃れる為、財布を片手に席を立つ。その時「あっ」と先輩は大きな声を出した。
「その硬貨……」
「ああ、何かのイベントの記念硬貨です。昔仲良かった友達と一緒に貰ったのですが、案外気に入ってるんですよこれ。今頃どうしてるかなぁ、アイツ」
「……ふぅん、そっか」
なんだろう。妙に上機嫌になった先輩を残して、ぼくは自販機に向かった。
「そっか……まだ持ってたんだ」
自室の勉強机、引き出しの二段目。質素な箱の中に仕舞いこんだお気に入りの一品。硬貨の表面を優しく撫でる、今頃もう一枚は彼の財布の中にあるのだろう。
「まだ、"男友達"って勘違いしてるのかな?」
一緒に取りに行った友達は、目の前にいるのに。彼は未だにその事実に気付かない。髪を伸ばして化粧をすれば、容姿なんてかなり変わるというのに。
まだ暫くは間抜けな彼の反応を楽しむとしよう。
「ふふっ」
母が倒れた。突然の事で理解が追いつかないぼくに、医師は余命宣告を告げた。1ヶ月だ。
「お母さん心配よ、テスト大丈夫?」
本当にあと1ヶ月なのか。病院のベッドにいながらいつも自分の事ではなくぼくの将来を心配している母の姿を見ていると全部ドッキリなのかと思えてしまう。
「あ、学校サボろうなんて考えちゃダメよ。ちゃんとあんたには学校に行っといて貰わなきゃ」
その1ヶ月はもう二度と戻ってこない。なのに、普通に生活しろと母は言う。
「あんたが"学年1位"とか取ってくれたら、お母さん安心出来るのになぁ───」
その瞬間、電流が走った。
残り1ヶ月。1ヶ月後にちょうど期末試験がある。その時に母が生きているか分からない。でも、最後の手向けくらいにはなるはずだ。
部屋の照明を付け、筆記用具を取り出し、教材を取りだして勉強に取り掛かる。ぼくには分かる。クラスで1番、いや、学年で今1番心が燃えている。誰よりも優れ、誰よりも圧倒的で、誰よりも高い点数を取る為に。他でもない母の為に。
中庭の掲示板に成績が張り出された。
「……っ!」
その時携帯が震えた。父親からだ。ちょうどいい、自慢してやろう、何せぼくはこの学校で1番の───。
『母さん、たった今……息を引き取った』
嗚呼、そうか。目頭がぐっと熱くなる。
「母さん。1位取ったからって、安心するのは早過ぎだよ……っ」
目から光が零れそうだった。滝のように留めなく、行き場を失った熱量がわっと溢れ出るように。空を仰いだ。生前の母に似合う澄み渡った青空だ。
見ていてくれたかな母さん。ぼく、頑張ったよ。誰よりも頑張った。1番になったんだ。
いや、まだ終わりじゃない。これからも、もっと頑張ろう。母さんが安心出来るように、魂がここに留まる事のないように。
「……っ」
ぼくは、母さんが倒れて以降初めて泣いた。
『行け』
手紙だ。突然届いた。今時手紙なんて珍しい、どこの誰が寄越したのか。差出人不明、文章はあまりにも淡白な一言。行け、と。どこへ?
筆跡に見覚えがあった。完全に俺の字だ。本人が言うのだから間違いない。ただ、こんな手紙を自分宛に出した覚えは無い。日付が書いてある、過去の自分が書いたのだろうか。いや違う。
2033/2/15
未来の自分だ。さしずめ、10年後の俺から届いた手紙とでも呼ぼうか。彼はどこへ俺を導くつもりか。記憶を探る。思い付いたのはたった一人。
幼馴染がいた。最近話していなかったが、たった今連絡が来た。『家で会えない?』。俺は、勉強が忙しいからまた今度と送った。もう夜だ、こんな時間じゃなくていいと思った。
嫌な予感がした。勿論、こんな手紙を鵜呑みにするのは馬鹿だ。分かっている。ただ、確かめるだけ。誰にでもない俺自身へと言い訳する。
俺は、急いで部屋を出て幼馴染の家に行った。向こうの家族が驚いていたが、一応謝罪だけして彼女の部屋へ突っ切った。
その瞬間、目を疑った。
天井に不気味な縄が釣ってあったのだ。
自殺するつもりだったらしい。きっかけは両親の喧嘩。更には受験シーズンとも重なってプレッシャーによるストレスも積もり、安心出来る居場所が無くなった事。唯一頼りにした俺にも断られ、相談できず死を選ぼうとしたのだという。
受験が終わった。無事二人とも合格し、一緒の大学に通い、同棲するようになった。付き合い始めたのはほぼ自然の流れだった。
あの時、10年後の俺は何を思いながら、あの手紙を書いたのだろう。俺が行かなければ今彼女はこの世にはいない。ならば彼女が死んだ世界に生きるであろう俺は人生最大の後悔を胸に手紙を綴ったのだろうか。
手紙は偉大だ。たった2文字で人生を大きく変えて、人生最大の幸福を届けてしまえるのだから。
俺は筆を執る。そうだな、母親にでも今から手紙を書いてみようか。少し迷ってから俺は書き出した。「最近どうですか?」いや、やめた。
『元気』
これだけでいい気がした。
社会人になるとどうも行事に疎くなる。バレンタインなんて、店頭に多めにチョコが並ぶだけの日だと思っていた。
「な、なんだこれは……」
その時までは。会社に来ると、俺の靴箱に可愛らしい包装をしたチョコが置かれているではないか。誰かのイタズラか、否。社会人にもなって誰がそんな事するものか、だとしたら入れ間違えしかあるまい。困った事になった。
「おはようございます、先輩」
俺に挨拶をして来た彼女は、同じ管轄の部下。入社時から世話係として一緒にいる。愛嬌もあるしよく出来た部下なのだが、最近妙に何かを企んでいる気がする。
「先輩"何か変わった事"でもありました?」
何も無い、と言いかけてたった今鞄にしまったチョコを取りだした。
「そうなんだよ、どうやらチョコを俺の靴箱に入れ間違えたみたいでな」
「あはは、まさか。ネームプレートも貼ってあるし、学校みたいなハプニングは起こりません。正真正銘、誰かさんから貴方宛に貰ったチョコです」
彼女は、小さく微笑むと。
「で、貰った感想はどうですか」
「いや……誰とも知らぬ人に貰っても感想なんて」
「きっとその人は先輩の働きぶりをずっと近くで見てきた人なのでしょうね。ひょっとすると、普段喋っている人からかも?」
イタズラめいた表情で去っていく彼女。もしかしたら、と思い付いた時には既に姿を消していた。チョコをひとつ摘む。
口に入れると、ほろ苦い味が口全体に広がった。
全く甘くない。このチョコはなんだか、学生の頃とはまるで違う、大人の味がした。