彼女が熱を出した。病院はどこも取り合ってくれず、家での療養に努めた。顔を赤らめ、無数の汗を流す様を見て、何度代われるなら、代わってやりたいと思っただろうか。
何か出来る事はないか。お粥を作ろうか、タオルを冷やしてやろうかとソワソワしていると、ふと彼女はぼくの手をギュッと握った。
「繋いでて」
それだけで良かったのだ。病気の時、無性に寂しく感じてしまうのは誰しもが一緒だ。
「眠るまで、待ってて……」
うとうとと微睡む様子を、横で優しく見守った。そういえば自分も昔、と過去を思い返す。
まだ小さい頃。病気になって眠りにつくと、母は起きるまでずっと手を握ってくれていた。あの時はとても安心出来た。見守られて生きているんだって、心が柔らかな気持ちで満たされた。
「ずっと待ってるよ。起きるまで、ずっと」
可愛らしい寝息が聞こえてくる。ぼくは、軽く微笑みながら熱に浮かされた彼女の寝顔を眺めていた。
ゆっくりおやすみ、元気になった君をまた見せてくれよ。
ぼくも瞼を閉じる。夢の中へと落ちていった。
「はい、チョコレート。言っとくけど義理だから」
半ば強引に受け取ったチョコレート。なるほど、確かに外箱はいかにも市販品らしくて「手間暇一切かけてません」と言外で主張している様だった。複雑な心境のまま席に着くと、前にいた親友がニヤついた笑みを浮かべている。
「それ、あの子からだろ。伝えたい事があるなら、直接言えばいいのに、案外不器用なんだなぁ」
「何が言いたいんだよ」
「ほぉら、こっちはこんな調子なんだからさ」
「ちょっと貸してみ?」と既に鞄の中に入れたチョコを見せると、箱の後ろを指さす。
「テクスチャがここだけ禿げてるし、この包装紙も店員が巻いたものじゃあ無いな」
「つまり?」
「一回開けてから戻したって事だよ」
「へぇ、なんの為に」
「はぁ。それが分からないようじゃ、伝わらないって話だ」
遠目からこちらを見つめていた女子は、今にも襲って来んばかりに顔を紅潮させていた。火山の噴火を予期した彼は「やばいやばいっ」と慌てて席に戻る。
「ま、とにかくだ。ちゃんと応えてやんなよ。お返しにも、彼女の気持ちにもな」
応えるも何も、こっちは何も伝わってねーっつーの!
「ここいいですか?」
その日は凄く冷える夜だった。空気が澄み渡り、星が爛々と輝いている。公園のベンチは一人では大き過ぎる。だから隣に座ってくれるのは大歓迎だ。
「お兄さんはここで何を?」
女の声だ。夜特有の暗さと、マフラーや帽子で素顔が見えなかったので気が付かなかった。いや、寧ろ好都合か。誰とも知らぬ相手と語らうのも悪くない。
「幼馴染と昔、ある約束をしましてね。次に帰ってきたら、この場所でまた会おうと。あれから随分経ったし、所詮は子供の頃に交わした約束、律儀に守る方の頭がおかしいんですよ」
と、見ず知らずの人に愚痴を零してしまった。
やはり他人に話すと、いい加減自分の愚かさに気が付き始めた。やはり昔の事は忘れて、今はここでの生活を───。
立ち上がろうとした俺の服の裾がぐいと引っ張られる。思わず振り返るとその女性は僅かに聞こえるくらいの声量で、
「じゃあ私の頭もおかしいって事になるのかな?」
イタズラが成功した小悪魔的な微笑を浮かべて、彼女は隠していた素顔を顕にした。その瞬間、昔の記憶が、感情が、湯のように溢れ出て、俺の心が瑞々しく震えた。
「おかえり、お兄さん?」
ケラケラと弾むように笑う彼女の笑顔を俺は今後一生、絶対に忘れないだろう。
熱い。ぼくはズキリと胸の奥に鋭い何かが突き刺さる様な痛みを覚えた
「誰もがみんな不安を抱えている」
嗚呼そうだ。分かっていた。分かっていたつもりになっていたのが嫌になった。ぼくが理解したつもりでいて、だからこそ彼女のそんな状態を見て一気に現実を知った。
彼女は病室のベッドにいた。何やら大きなチューブに全身を繋がれていて、今も必死に戦っている。身体も、心も。
デートに行く時。キスをする時。ずっと不安を抱えていた。されどぼくはその悩みの種を知ろうともしなかった。ここ最近の彼女の表情は、ぼくに僅かな違和感を振り撒くだけで、心の内を最後まで知る事はなかったのだ。
「……っ」
脳裏に、彼女の明るげな笑顔が浮かぶ。ぼくに心配をかけないために必死に嘘を並べ、動揺を隠し、平静を装っていた。それが分かった瞬間、胸の内が熱くなって途方もない後悔と無力感に駆られた。
「ごめん、ごめんな……」
願わくば、もう一度……元気な君と語らいたい。
横たわる彼女の掌を強く握り締め続けた。
友人の結婚式に招待されると、時の流れを嫌でも実感してしまう。その式典には当然当時の同級生なんかも参加していて、皆の精悍たる顔付きに幾度となく驚かされるものだ。
幸せを呼ぶ鐘の音が響き渡った。青空の下、新郎新婦からふわりと放たれた花束は、次なる結婚を呼ぶとされる。言葉くらいは聞いたことがある。ブーケトスと言うやつだ。
何気なく見ていたが、まるでブラックホールのようにぼくがいる場所へと引き寄せられていく。逃げる訳にもいかないので、片手だけ出してキャッチ。しかし、ぼくよりも一回り小さい手によって更にその花束は掴まれていた。
その主は、ぼくの横にいた女性。見違えるように変わってしまったけれど、当時の思い出は案外鮮明に覚えているもので、その女性の顔やら特徴が、昔の記憶とパズルのピースを嵌めるように合致していく。
わぁぁ、と一際大きな歓声に包まれた。まるで、次の結婚相手は自分達だと祝福されるように。
こんなのはただの迷信、信じるに値しない戯言だけど。
「随分大きくなったね、君」
「そっちこそ、凄く女性らしくなったというか」
「何それ。普通じゃない?」
くすくす、と笑う様は昔と同じだった。今だけは、そのジンクスとやらにあやかってみてもいいかもしれない。