所謂、クラスのマドンナを見るとぼくは少し怯えてしまう。その笑顔の裏に何か感情を隠しているのではないか、といらぬ勘ぐりが働いてしまうのだ。
窓際の席でぼーと授業を聞いていると、ちょうど男子から一際人気を集める女子が消しゴムを落とし、コロンコロンとぼくの元へと転がってきた。
「あ、これ……どぞ」
「わぁぁ、ありがとうっ!」
真夏の太陽にも負けない輝かしい笑顔だ。
ところで、「スマイル」という言葉は、ラフと違ってどこか作為的で作り笑いの意味を含む。
今の彼女はスマイルとラフ、一体どっちで笑ったのだろう。彼女の笑顔にあてられて、バクバクと脈打つ胸を押さえつけながら、大きな溜息をついたのだった。
「「あっ」」
放課後の教室、西日が差し込むその場所で廊下にいる彼女を見つけた。気の抜けた言葉は、きっとぼくの持つノートのせいだろう。誰にも言えない事、秘密を抱えている。そして彼女の場合、それをノートに書き記していた。
秘密のノート。忘れ物だと思って、持ち主を確認しようとした瞬間偶然にも開いたページには。
───ぼくの事を『好き』だと仄めかす文章が。
「あ、あぁあ……見た、の?」
「いや、本当にたまたま……その」
ごめん、とぼくは謝った。勿論、それで済むような話じゃない。「それで……」と切り出す彼女の言葉を遮ってぼくは誘いを持ち掛けた。
「……帰りにカフェでも行く?」
ぼくと彼女が付き合い出すのは、その日の夜からだった。
「はい、喜んで」
いつの間にか午後11時をとっくに回っていた。この幸せに包まれた時間もこれで終わり。ぼくは、彼女になったばかりの少女の華奢な手をそっと握って、不器用にも精一杯の愛情を伝えた。チッチッと時を刻む音がする。ありがとうと、涙ながらに口にした彼女の顔は、"この1年"で最も美しく愛おしい表情だ。
そして、時計が12時を告げた。日が変わる、その瞬間にぼくと彼女で紡いだ魔法が解かれていく。
そして最も残酷な瞬間。
「どちら様ですか……?」
ぼくは、引き裂かれるような胸の痛みを必死に堪えて平静を装った。血が滲む程強く唇を噛んで答える。
「初めまして───」
彼女にかけられた呪いは、1年後のこの日、再び彼女の記憶を奪いに来る。前にだけしか進まない時計の針。ぼくが何度憎もうと時間の針は戻らない。だから、せめてもの抵抗としてぼくは赤の他人である少女に自己紹介をする。
「───ぼくは、1年後の彼氏です」
その困った表情も、やっぱり可愛らしい。
「好き」を自覚する瞬間は一体いつなのだろう。頭が良くてスポーツも出来て、皆に優しい。違う、それは好きの"理由"であって、きっかけじゃない。
校舎裏、彼を呼び出したわたしの心臓は早鐘を打ち、無限に汗を流していた。断られたらどうしようと、気持ちがすぐマイナスになる。やっぱり無かった事にしてもらおうか──。
「えっと……大丈夫?」
気が付くと、彼が目の前に来ていた。大きくて固い彼の手がぽんとわたしの頭を包み込んで撫でた。その瞬間、霧が晴れたようにわたしは"その気持ち"を自覚した。
嗚呼、そうだ。頭の中でずっと彼の事を考えて、優しくされたら嬉しくなり、些細な事で言われた礼に、今度はもっと喜んで欲しいと意気込んでしまう。
僅かな「好き」が蓄積して、いつしか気持ちが溢れていく。洪水の如く、積み重なったこの思いを相手へと伝えるのだ。
さあ、勇気を出して──。
「好きです、付き合って下さいっ」
その瞬間に悟った。ぼくらは友達じゃなくて恋人なのだと。触れるか触れないか、啄むようなキスに全身が幸福で満たされてぼくは彼女に夢中になった。でもどうだろう、付き合いだしてから初めてのキスなのに彼女はどこか切なげで、その一瞬を噛み締めるように優しく唇を触れ合わせる。くしゃりとぼくのシャツを掴む手が小刻みに震えていた。
「ごめん、今日はもう帰るね」
彼女は足早に部屋を後にする。ぼくは玄関まで送ろうとしたけれど、断られてしまった。やはり、進展を焦りすぎてしまっただろうか、と遅まきながら不安に駆られる。二階の部屋から下に降りるとばったりと母親に出会した。
「お見送りしなくて良かったの? 明日からもう会えなくなるんでしょう?」
父親の海外転勤がきっかけで、彼女は明日日本を発つ。先程の彼女の表情にようやく合点がいった。彼女にとって今のは、「最初のキス」であり「最後のキス」。その瞬間、ぼくの心臓が嫌な程に脈打って玄関へと飛び出した。
母親がぼくを止める声が聞こえた。けれど、ぼくの足は止まらなかった。中途半端なこの感情を抑えておける自信が無いから。彼女との関係をこれで終わりにしたくないから。
そして何より。彼女との初めてのキスは、蕩けるくらいに甘くて、忘れられなかったから。